3話「日曜日の結末」④-1


       4



 まどろむような空気をかき消して、携帯電話が鳴り出した。モニターには「皆実さん」と表示されている。ケイは寝転がったまま電話を受けた。


「こんにちは、浅井くん」


 と、皆実の声が聞こえた。


「どうしたの?」


「たぶん、そっちについたら、私は嘘をつくから。今のうちに話しておこうと思って」


 彼女の声は、あらゆる色彩が抜け落ちたみたいに静かだった。


「それは、マクガフィンについて?」


「そう。私が盗んだ、マクガフィンについて」


 思わずケイは笑う。


「君は偶然、それを拾っただけだよ。そうじゃないと、多少面倒なことになる」


 教師の引き出しを生徒が勝手に開けてはいけないし、その教師は管理局員だ。さらに盗んだものは、村瀬陽香が狙っている。


「いいじゃない。秘密にしといてよ」


 彼女はささやく。たしかに、この電話の内容が、誰かに聞かれているということもないだろう。

 非通知くんと目が合う。彼はあきらめたように、薄く笑った。なにか言ったような気がしたけれど、それはあまりに小さな声だったので、ケイには聞こえない。


「ねぇ、浅井くん。私は吸血鬼に会いたかった」


 と、皆実は言った。


「浅井くんにはわからないよね。私は、吸血鬼にかまれたかった。私も吸血鬼にして欲しかった。本当に、そうなればいいと思っていた」


「大抵、吸血鬼にかまれた人は、あんまり幸せにはならないよ。村の人に石を投げられたり、太陽の下を歩けなくなったりする」


「それでいいよ。誰に嫌われてもいい。別に、強い力が欲しいわけでもない。光に当たったら火傷やけどするとか、そんなのでいいの。私もなにか、特別な部分が欲しかった」


 浅井くんにはわからない、と、彼女はまた言った。

 その通りだ、と思ったけれど、ケイは黙って皆実の話を聞いていた。


「私は何度も、死のうと思った。それは悲しいことじゃなくって。きっと、身体がこの能力を知っていたんだと思う。すごく自然に死のうと思っていた。どんな方法でもよかったんだよ。わからないよね」


 わからない。ケイは電話が嫌いだ。電話はいつも、一方的だ。勝手に鳴って、勝手に喋り出す。


「一昨日、好井さんから電話があったんだよ。なんでもいうことを聞いてくれるっていうから、私を殺して欲しいって言った。でも、ダメだって。ひどいよね」


 ケイはじっと、窓の向こうをみていた。空はよく晴れている。皆実の声は、雨音ほど心地よくはなかった。簡単に忘れられない声だった。


「だからマクガフィンが欲しいって頼んだの。能力すべてを支配するなんて、すっごく特別じゃない? ごめんね。あれのことは、前から知ってたんだよ。部室にある資料はぜんぶ読んでるの。私は信用していなかった。でも美空が口に出したから、本当にあるのかもしれないと思った」


 覚えている。木曜の休み時間、智樹から壁にあいた穴の話を聞いたころだ。春埼がマクガフィンという言葉を口に出したとき、皆実はたしかに表情を変えた。気づいていたけれど、ケイはそのことには触れなかった。


「あのときの皆実さんは、なんだか悲しそうだったよ」


 印象的だった。本当は気になっていた。

 彼女は電話の向こうで、困惑した風にささやく。


「どうして?」


 もちろん、ケイにはわからない。

 口早に皆実は続けた。


「そんなはずない。私は、それが欲しかったんだから」


「じゃあ、僕の勘違いかもしれない」


 あのときの彼女の顔を、明確に思い出すことができるけれど。彼女が語った言葉と、実際に彼女が手にした能力には多少のずれがあって、そのあいだを想像で埋めることだってできるけれど。でも彼女は本心を指摘されることなんて、望んではいないだろう。ただ深くて暗い穴にかさばる荷物を投げ込みたいだけなのだろう。なら深くて暗い穴になろう、とケイは思う。


「私はマクガフィンを手に入れた」


「それはよかったね」


「でも。ねぇ、本当にこれが、マクガフィンなの?」


「僕は知らないよ。みたこともない」


「本当に?」


「どうして僕が知ってるのさ?」


「だって。それは、わからないけど。でも浅井くんって、わからないことを知ってるもの」


 そうじゃない。彼女は過剰にケイと春埼を特別視しているのだ。幽霊になって、そのことをまず報告する程に。

 たしかに奉仕クラブに所属するということは――管理局から強い監視を受けるということは、みようによっては特別なのかもしれない。彼女の興味の片端にひっかかってもおかしくない。でもそれは、少し便利な能力を持っているというだけだ。ほかはただの高校生で、彼女が漠然と考える特別とはまったく違う。

 ケイは意図して、ずれた答えを返す。


「僕が知ってるのは、教科書に載ってることばかりだよ。U研の人たちの方が、ずっと訳のわからないものについて詳しいんじゃないかな」


 そうじゃなくて、と彼女はささやく。それからしばらく沈黙する。


「ま、いいや。私にもよくわかんなくなってきた」


 へへへ、と彼女は声に出して、照れ隠しのように笑った。それが今日初めて聞いた、いつもの皆実未来の声だった。それでケイは、彼女の嘘をつかない話が、もう終わったのだとわかった。


「あと少しで、好井さんの家につくよ」


「マクガフィンはいいの?」



「うん。どうせ使えないし」


 ケイは、少し迷ってから尋ねる。


「ねぇ、皆実さんは今も、幽霊になりたい?」


 彼女はしばらくの間、黙っていたけれど。


「ひみつ」


 そう答えて、電話を切った。


       *


 春埼美空は空を見上げていた。

 マンションの通路だ。四階だが、非通知くんの部屋からは数メートル離れている。春埼は通路の手すりに両手をついて、きゅっとあごを上げていた。

 特別に空が好きなわけではない。雲の形にも興味はない。そもそも今日は雲が少なかった。でも空は、じっとみていても問題を生まない。それは優れた利点だと思う。

 隣では反対を向いた村瀬が、数十秒に一度の割合で「遅い」とつぶやいている。暇ならケイたちと共にいればいいのに。そんなに非通知くんの部屋には入りたくないのだろうか。


「ねえ、あんた」


 村瀬は八つ当たりのように言った。


「昔の浅井を知ってるの?」


「昔って、どれくらい昔ですか?」


「二年前のことよ」


 彼女は当然でしょうという風に言った。もちろん、当然だった。そんなことは春埼にも理解できていたけれど、素直に答える気にはなれない。ケイが話したがらないのであれば、勝手に話すべきことではない。


「ケイに初めて会ったのが、その時期ですから。知っていることも、知らないこともあります」


「あいつが管理局に逆らったこと、もちろん知ってるわよね?」


 少なくとも村瀬よりは知っている。そう思ってから、表現を変えて答えた。


「ある程度、何が起こったのかくらいなら知ってますよ」


「なら教えなさい。あいつは何をして、どうなったの?」


 春埼はそっと息を吐きだす。なにか適当に言い逃れられる方法を探したけれど、上手くみつからない。


「どうして黙ってるのよ?」


 詰め寄られた。面倒だ。


「村瀬さんはどうして、管理局と戦うんですか?」


 別に興味もないけれど、話をそらすために聞いてみる。


「理由なんて、なんでもいいじゃない。あいつらは正しくないんだから、どうにかすべきなのよ」


「正しくないって、どこが?」


「あんた、さっきの話聞いてなかったの?」


 ぼんやりと聞いていたが、もうほとんど覚えていない。村瀬陽香と管理局はまったく別の考えを持っていて、一方の話だけでは全体を理解できない。とはいえ管理局から詳しく話を聞くつもりもなかったから、村瀬の話もすぐに忘れた。意識に残していない方が、面倒がなくていい。

 人を理解するのは大変だ、と春埼は思う。――咲良田の能力は、その人物の願望に沿ったものになることが大半らしい。ならリセットなんて能力を使える私は、すぐに色々なことを投げ出す人間なのだろう。そんな私が、ケイを理解しようとしているのだ。他のことに無関心になっても、仕方ないことだ。

 春埼はまばたきよりも少しだけ長い時間目を閉じて、そう考えた。とくに珍しい話ではないはずだと思った。大抵の人は、大多数の他人に対して興味がない。


「とにかく、浅井の話をしなさいよ」


 意外としつこい。

 無意味な質問を探すのも面倒になって、黙っていると彼女は続けた。


「だいたい、あんな奴に管理局がどうにかできるはずがないのよ。管理局がその程度の能力しか持ってないなら――まぁ、私は楽でいいけれど」


 村瀬の声が少し沈む。その理由に、春埼は思い当たらなかった。


「ねぇ、あんたは私の仲間になる気はないの?」


「それはケイが決めることです。私は知りません」


「自分のことくらい、自分で決められないの?」


 それは色々な人に言われた言葉だった。春埼にはわけがわからない。ケイに従うことを、自分で選んだのだ。いったいどこに問題があるのだろう。

 なにも言わないでいると、村瀬はもういいという風に首を振った。


「なら、浅井は私の仲間になると思う?」


 まずなりはしないだろう。ケイの考え方と、村瀬陽香の考え方はまったく違う。二年前の時点でも違っていた。けれど、あまりに違うから、ケイが頷いても不思議ではなかった。おそらく仲間という言葉の解釈さえ違うのだ。

 そのあともしばらく、村瀬はなにか文句を言っていた。春埼は空ばかり眺めていた。たまに通路の突き当りにあるドアをみて、ケイのことを考えた。やがて、皆実未来の声が聞こえてきた。


「あ、美空だ。やっほー」


 手すりの向こうを見下ろす。皆実が手を振りながら、通りの向こうから歩いてくる。やっほう、と春埼は彼女を真似てみた。意味のよくわからない言葉だが、おそらく挨拶の一種だろう。やがて皆実はこのマンションに入り、春埼の視界から消えた。


「だれ?」


 村瀬に尋ねられ、仕方なく春埼は答える。


「クラスメイトですよ」


「どうして、クラスメイトがここにくるのよ?」


「わかりません」


 皆実もここに住んでいるのかもしれないし、友達がいるのかもしれない。ケイが呼んだというのがいちばん可能性が高そうだが、理由までは知らない。彼女がマクガフィンを持っているのだろうか。

 そう間を置かす、エレベーターのドアが開く音が聞こえた。通路にぱたぱたと足音を響かせて、皆実がこちらに近づいてくる。


「やっぱり、美空も来てたんだ」


 それから村瀬を見て、困ったように会釈した。


「えっと、美空のお友達?」


 どう答えたものかと迷っていると、村瀬が「違うわよ」と言った。皆実はさらに大げさに困り顔を作ってこちらをみる。仕方がないので紹介する。


「彼女は、革命家の村瀬さんです」


「え、革命家?」


「違うわよ」


 村瀬がまた冷たい声で否定する。違わないはずだけれど。


「まぁなんでもいいや」


 本当になんでもよさそうに、皆実は頷く。


「浅井くんは、中にいるの?」


「はい。非通知くんと話しています」


「非通知くん?」


「好井さんのことです」


 隣で村瀬が、皆実をにらむ。誰にでも敵対的な人だ。


「あんたはどうして、ここに来たの?」


 言葉にも棘がある。なんだか、ひどく疲れそうな生き方だと思う。対して皆実はにこにこと笑って答える。これはこれでストレスが溜まりそうだった。


「ちょっと届け物があって」


「そう。あんたがマクガフィンを拾ったわけね?」


「そういうことになってるみたいだね」


 村瀬は怪訝そうに眉をひそめる。


「ま、いいわ。ともかく、マクガフィンを出しなさい」


 面倒な話になりそうな予感があった。しかし皆実は、簡単にポケットからなにかを取り出す。春埼には、それはただの黒い小石にみえた。


「それ、私が預かるわ」


「んー。どうだろ、一応浅井くんに渡すって約束しちゃったし」


「それは、私が持っているべきものなの」


「どうして?」


「管理局を倒すために必要だから」


 ほら、やっぱり革命家だ。

 皆実は相変わらず笑ったままだった。


「面白いね。でも、そんなのできるはずないよ」


「やれるわ。私には力がある。あんたの価値観で喋らないで」


 皆実の笑みが、少しだけ変化する。おそらくは冷たく、否定的に。


「なにそれ、バカみたい。力があるんなら、こんなのいらないでしょ」


「うるさい。私は絶対に失敗できないの。手に入るものはなんだってもらうわ」


 軽く鼻で笑って、皆実はこちらをみた。


「美空だって、無理だと思うでしょ?」


 話を振らないで欲しい。否定しても肯定しても、口喧嘩くちげんかに巻き込まれそうだ。面倒なことはしたくなかった。

 隣で村瀬が、呆れたように首を振る。


「いいから渡しなさい。奪い取るわよ」


「勝手にすれば?」


「私は、あんたのために言ってるの。痛い思いはしたくないでしょう?」


「うるさいなぁ。どうせなんにもできないんでしょ。本当に特別な人は、貴女みたいな感じじゃないよ」


 どうして皆実は意固地になるのだろう。教室でみる彼女とは、ずいぶん違う。なにかに苛立いらだっている様子だけれど、それがなんなのかわからない。


「奪いたいなら、奪えばいい」


 皆実の言葉に、村瀬の目がすっと細くなる。


「人差し指の爪、人体」


 小声で、村瀬がささやく。彼女は手を振った。マクガフィンを握る、皆実の手を掠めるように。こつん、と硬質な音を残し、マクガフィンは通路に落ちた。少し遅れて、皆実の悲鳴が聞こえた。


「これでいい?」


 村瀬は通路に落ちたマクガフィンを拾う。皆実の手からは血が流れていた。


「もし浅井が私の仲間になるんなら、連絡してって言っといて」


 一方的にそう告げて、彼女はこちらに背を向け歩き出す。

 これはやっぱり追いかけるべきなんだろうなと思ったけれど、実行するよりも先に、非通知くんの部屋の扉が開いた。


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