1話「土曜日に始まる」③-1
3
喫茶店を出てすぐに、ケイと春埼は二手にわかれた。春埼には、事故現場の正面にあるパン屋に向かってもらうことにした。彼女は初対面の相手と積極的に会話をするタイプではないけれど、特別に人見知りというわけでもない。問題はないだろう。
彼女を見送って、ケイは商店街の片隅にある公衆電話に向かった。電話ボックスにも入っていない、存在を知らなければ見落としてしまいそうな公衆電話だ。受話器を手にとり、コインを投入した。記憶通りに番号を押す。
声はすぐに聞こえてきた。
「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって――」
受話器を置いて、転げ出てきたコインを再び投入する。そして同じ番号にコールする。
「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません」
何度も何度も、繰り返す。
「お掛けになった電話番号は――」「われておりません。番号をお確かめに――」「け直し下さい。お掛けに――」「番号は、現在使われて――」「をお確かめになって、お掛け直し下さい」
女性の静かな声が、
ケイは機械的に同じ手順を続ける。やがて、
「お掛けになった、電話番号は」
受話器の向こうの声が変わった。いや、声は同じ無機質なものだ。でも息を継ぐタイミングが変化している。
「現在使われて――」
ケイは口を開いた。
「浅井です。知りたいことがあります」
番号をお確かめになって――という声に、短く電子音が重なる。短く三つ。ピ、ポ、パ。そして、
「お掛け直しくだ――久し振りだね、ケイ」
受話器から聞こえる声が反応した。声の質は変わらず、無機質な女性のままで。ケイは電話の向こうには聞こえないように注意して、小さなため息をついた。
「このシステム、もうやめませんか?」
というか、その声で
「嫌だよ。声紋とかでボクの正体がバレちゃったらどうするのさ」
「いいじゃないですか。友達ができるかもしれませんよ」
「うあ、ボクってトモダチいない奴だって思われてるんだ。ショックだな」
正直、非通知くんには友達どころかまともな顔見知りもいないだろうと思っている。とはいえたまに電話でやりとりをするだけの相手だ。もし友達が一〇〇人いたとしても、不思議ではないけれど。
「友達、いるんですか?」
「いるよ。君と津島さんのことなんだけど」
「その件に関しては、またいずれ話し合いましょう」
「ひどいなぁ。ボクはこんなにフレンドリーなのに」
その声で軽口を
電話の向こうにいるのが何者なのか、ケイは知らない。顔も本名も、性別だってわからない。「非通知くん」という通称も、どうやら津島が勝手に使い始めたものらしい。わかっているのは、彼――もしくは彼女――がありとあらゆる情報をかき集めていて、条件次第でそれを譲ってもらえることだけだ。
「で、今日は猫捜しだっけ?」
「ええ。そうです」
おそらく津島から聞いていたのだろう。彼はあまり意味のない根回しをするのが好きだ。黒幕的な存在に
「猫に関する専門家を紹介しよう。料金は情報ならそこそこのを二つ、物ならまっ白なシーツとTシャツを三枚ずつ」
「どちらでもいいので、津島先生に請求してください」
「それは拒否しろって津島が言ってたけど?」
「じゃあシーツと、Tシャツの方で」
後でこちらから津島に請求しよう。
「了解。受け取った」
これで銀行の口座から、シーツとTシャツの代金が引き落とされることになる。暗証番号の入力さえ必要ないのは問題じゃないかと思うけれど、非通知くんも管理局の関係者なので一定の信頼を置いている。ケイは話を進めた。
「猫に関する専門家というのは?」
「
なるほど、都合のいい人だ。
「どこに行けば会えるんですか?」
「たぶん休日なら、
花見崎神社。今夜、春埼と行く約束をしている祭りが行われる神社だ。
なんだか楽しげに、非通知くんが続ける。
「もう少し情報をサービスしようか?」
「もらえるならなんでも」
「オーケイ、なんといっても友達だからね。野ノ尾さんは
「なるほど。参考になります」
「住所まで喋ると、さすがに法に触れるよね?」
それは知っているだけで問題のような気もするけれど。学校まで教えてもらえれば、会うことは難しくないはずだ。
「それだけで充分です。ありがとうございます」
「ん。ところで、ケイ。ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「なんです?」
「君、マクガフィンって知ってる?」
マクガフィン。聞いたことはある。二週間ほど前、津島から伝言を依頼された。意味のわからない伝言だ。――マクガフィンが盗まれる。
「僕よりも津島先生の方が詳しいと思いますよ」
「そうできないから困ってる。実はさ、これに関しては、君に尋ねるなって言われててね。ちょっと気になってる」
「なら訊かないでくださいよ」
「わざわざ訊くなって言われたんだよ? 尋ねるのが礼儀でしょ」
よくわからない理屈だが、一方で、納得できないでもなかった。本当に触れられたくないのなら、津島もわざわざ名前を出さないだろう。
マクガフィン。確かに、少し気になる。
「
「辞書的な意味と、都市伝説的な話なら知ってる。でも詳細は不明。まぁいいや」
じゃあね、と言って、通信が切れた。受話器を置くと、投入していたコインが転がり落ちてくる。非通知くんが着信課金に登録しているわけではないのなら、違法行為になるだろう。
なんとなく気まずさを感じ、ケイはそのコインを返金口に残したままにしてパン屋に向かった。言い訳は大切だ。
春埼はもう聞き込みを終えていた。おそらく付き合いで買ったのだろう、パン屋の紙袋を抱えている。中身はすべてクリームパンらしい。
「ひとつ、どうぞ」
彼女が差し出したクリームパンを受け取り、かみつく。やたらと存在感のある、重たいカスタードクリームが入っていた。甘い。悪くない。甘いものは好きだ。
飲み込んでから、口を開く。
「どうだった?」
「猫も事故も、店員はみていないようです。でも、車のブレーキ音を聞いたような気がする、と。詳しい時間はわからないけれど、おそらく午前八時から九時のあいだだと言っていました」
「なるほど」
ケイは
「次は、どうしますか?」
「非通知くんに猫好きの女の子について聞いてきた。なんだか便利な能力を持っているみたいだよ」
ケイは携帯電話の時刻表示を確認した。一一時二二分。あまり時間はないが、できれば「今日」のうちに、野ノ尾盛夏に会いたい。彼女がよく訪れるという神社を目指すことに決めた。
春埼と並んで商店街を抜ける。彼女が興味を示したので、道すがら非通知くんとのやり取りをかいつまんで説明した。春埼はひと通り話を聞き終えてから、ケイの顔を見上げるように首を傾げた。
「マクガフィンって、なんですか?」
「さぁ、なんだろうね」
マクガフィン。たぶん猫捜しには関係がないと思うけれど。
「ケイも知らないんですか?」
「ちょっと説明が難しいんだけどね、それはわからないものなんだよ」
以前、本で読んだ一節がある。
ケイは、たとえば、と前置きしてから続けた。
「マクガフィンは、スコットランドでライオンを捕まえるための道具だ」
「スコットランド?」
唐突な話ですね、と春埼は言った。
ケイは頷く。
「でも、スコットランドにライオンはいないんだよ」
彼女の形の良い眉が、
「なにかのクイズですか?」
「そんなに真っ当なものじゃないよ。マクガフィンっていうのは、問題を発生させるための装置なんだ。それ以外の意味はない」
春埼は数秒間、考え込んだようだった。でもすぐに
「マクガフィンっていうのは、映画や演劇なんかで使われる用語だよ。主人公が物語に関係するきっかけとなるアイテム――押しつけられた謎のアタッシェケースだとか、意味のわからない手紙だとか、そんなものがマクガフィンって呼ばれる」
「どうしてそれが、スコットランドのライオン捕獲器になるんです?」
「そんな話があるんだよ。ヒッチコックが作った」
あの棚の上の荷物はなんだ?
マクガフィンさ。
マクガフィン?
スコットランドでライオンを捕まえる道具だよ。
スコットランドに、ライオンはいないだろ。
なら、あれはマクガフィンじゃないな。
「意味がわからない。そもそも、初めから意味なんてない言葉なんだ、マクガフィンっていうのは」
マクガフィンとは、いってみれば代名詞だ。それはマクガフィンと呼ばれているだけで、本来はなにか別の、アタッシェケースなんかの実体があるべき言葉。
マクガフィンが盗まれる。本来、こんな言葉は成り立たない。物語の作者がストーリーを考えている場面でもなければ。
「きっとマクガフィンという言葉には、僕が知らない意味があるんだろうね」
その意味を知れば、物語の主人公になれるのだろうか。いったいどんな物語の? 想像もつかない。
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