バニラだったらいいのにな
前述の通り、わたしは、執着を映すための鏡である。それ以外の用途としては、炊事洗濯等々と言った、家事全般。性の営みには、全くもって使われない。それは、彼本人も悪いとは思っているようで、「だめだと思ったら、すぐ、言ってくれていいから」と、何度も、わたしに告げた。けれども、わたしはこの生活を嫌だと思ったことはないし、このひとに対してだめだとも思わない。…まぁ、このひとの人間性は、すこしばかり、どうかとは思うけれども…。それでも、顔がうつくしいと言うのはまこと得なもので、整った顔ですまなさそうな顔をされると、何だって許してしまえる気分になる。
ひとつ断っておくが、わたしは別に、彼に惚れている訳ではない。初対面こそ見とれたが、恋だの愛だのには発展しなかった。それなのに、何の因果か、わたしの顔や姿は、わたしが見たこともない、彼の、「あこがれのひと」に、生き写しなのだ。全く、困ったことだ。困ったことは何もないけれど。
一緒に暮らしたいと言ったのは、もちろん、彼の方だった。より長く鏡を側に置きたいと思ったのか、世間体を考えたのか、それは知らないが―まぁとにかく、異はなく、一緒に暮らし始めた。親には言っていない。この年で同棲するのは珍しくないけれど、わたしと彼の場合は「異性同士の同居」だ。言えば、要らぬ心配や苦労や忠告を散々受けることになるだろう。だから、ものすごく気をつけて、うっかりでも言わないようにしていた。そういえば、彼はどうしているのだろう。ふと気になって、近場に居た広い背中を捕まえて、訊ねた。
「ねぇ、そう言えばなんだけど」
「どうしたの」
「親御さんに言ってるの?この生活」
「…言う訳ないじゃん」
呆れかえった顔をして、そのまま、本来の目的だったらしい洗面所に向かう。ざばざばと顔を洗う音が聞こえて来た。これから風呂に入るのだろう。彼には少しだけ潔癖なところがあって、風呂に入る前に念入りに顔を洗う。花粉や塵が体に流れていくのが嫌だそうだ。潔癖エピソードはいっぱいあるけれど、関係がないので、今回は割愛。
同じ部屋に居る相手が減ってしまったので、ソファに座って、ひとり、考える。彼の、「あこがれのひと」のことを。
わたしはやたらと高い身長を除けば、ごくふつうの女子、だと、自分では思っている。目は少し吊っていて、唇は薄い。鼻筋は通っているけれど、高くはない。考えてみても、ふつうだ。精々「何かよく分かんないけど男っぽいよね」という感想なのか揶揄なのか分からない一言を言われる程度だった。
それに似ている「あこがれのひと」。一年、一緒に暮らす間で、彼は幾分かわたしに心を開いたらしく、ぽつりぽつりと昔の話をするようになった。あこがれのひとのことも、ある程度は、聞いている。
曰く、二つ年上。曰く、他校のキャプテン。曰く、技術を教わった。
それだけであこがれにまでなるのかなぁ、とわたしなんかは思うのだけれど、彼にとってはとても大きなことだったらしく、その、昔の話をしているときは、大きな目がきらきらと輝いていた。だから、そんなひとに似ている、と言われることは、実はそこまで嫌ではない―というよりは、少し誇らしかった。わたしはあくまで鏡なのに、自分が憧れられているような幻想を抱くくらい、強いまなざしで、彼はわたしのことを見つめていた。きらきらした、少年みたいなきれいな目。大きな茶色の瞳と、栗色で少し長めの天然パーマの髪に縁取られた小さな顔。花びらみたいなきれいな唇。
好き?
と、心に訊ねてみる。
そうじゃない。
と、心は応える。
確かに、好きではないのだ。だって、人間的に考えたら、家事は全く出来ないし、同じ人のことばかりに執着していて少し怖いし、そりゃあ、多少優しかったりすると心も動こうと言うものだけれど、だって、彼が見ているのは、わたしじゃないのだし……。
今のところ好きではないけど、好きになることは簡単なんだろう。わたしは彼の良いところも悪いところもたくさん知っている。彼を取り巻く周りの女の子たちよりも、たくさんたくさん知っている。顔が良くてクール、だなんて表だけの面で彼を捉えるのは失礼だと感じるくらい。
でも、たぶん、彼はそのことを、恐れている。わたしが彼を好きになること。それだけを、どうしようもなく、恐れている。どうしてなのかは、推測だから分からない。けれども、たぶん、「あこがれのひとと瓜二つのわたし」が「自分に好意を向ける」ということが怖いんだと思う。「あこがれのひと」は、彼を可愛い後輩とだけ見て、見向きもしなかったらしいから。
「いくじなし」
「ハ?」
ようやくお風呂から上がって来た彼にそう言うと、いかにも馬鹿にしたような顔でにべもなく返された。ちぇっ。せっかく人が真面目に考えてやってるというのに。
「あっ!アイス!いいな!」
「食べたいなら冷凍庫にあるよ」
「そんなにいっぱいいらない!ひとくちちょうだい!」
「あー、もう、ハイハイ」
いつだったか買った『アイスが溶けてすくいやすいスプーン』ですくわれたアイスは確かにやわらかくなっていておいしかった。バニラ味。このひとがバニラとかプレーン味とかショートケーキとか、割とオーソドックスなものを好むことを、既に知っていた。何だかごてごてと色々なものが乗ったものは頼みたがらないし、ともすれば眉を顰める。
でも、このひとにとっての『あこがれのひと』は、たぶん、バニラじゃない。もっと、こう、原始的な、何か。それをバニラで考えると牛乳と言うことになるわけだけれども、口に出したら多分また呆れ切った「ハ?」が飛んでくるから、止めておこう。
せめて、わたしがバニラだったらいいな。可もなく不可もなく、誰にも嫌われることのない、オーソドックスな人間だったらいいな。
そう思いながら、すくってもらったアイスを、またひとくち。このひとに執着されている時点で、バニラではないのかも知れなかったけれど、たいして気にすることもなかった。
うつくしいおとことのくらし 桐嶋遠子 @adormidera
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