5
下御森神社の石段を下っていると、ちょうど最後の段に見慣れた影が立っているのを見つけた。
「高桐」
「遅いぞ、蝶子」
若干不機嫌そうな声を出す男の肩には、数日前蝶子が出した『遣い』の小鳥が留まっていた。登庁日ではなかったのだろう。藍染の着流し姿で、戯れてくる小鳥をいじっていた高桐は、蝶子を見ると深々と息をついた。
「おまえの『遣い』はやっぱり阿呆だな。いったいいつ出したんだ。あやかしよけの門の前で右往左往していたぞ」
「ごめん」
「しかも下御森神社だと。いったい何を企んでいるんだ」
「神御寮のひとには言えないな」
すげなく返した蝶子に、高桐は口端を上げた。
「なら、高桐にいさんに話してみたらどうだ。力になってくれるかもしれない」
「でも、にいさんに迷惑をかけたくないもの」
「どの口がそれを言うんだろうな、俺の婚約者様は。『遣い』を出しておいて? それに俺が面白いほうに首を突っ込むってこと、おまえは知っているだろ」
「知ってる」
高桐を袖にして歩いていた蝶子が苦笑気味に振り返る。
「おまえは将来、傾城の女になれるぞ」
高桐は肩をすくめた。
「おまえのせいで俺の人生の見通しはめちゃくちゃだ。しかも、別の男のためときた」
「ごめんね、高桐にいさん」
「別にいいさ。楽しければ、それで。俺はそういう性分だからな」
薄く笑って、高桐は肩に留まっていた小鳥をすいと押した。新たに高桐の息を吹き込まれたそれは、力強く羽をはばたかせ、夕焼けに染まり始めた空へと舞い上がっていった。
*
アオは『彼』の夢を見ていた。
ときどきそういうことがアオにはある。以前食べたものの記憶や感情が夢になってアオの前に立ち現れるのだ。
アオは夢の中で、はじまりの男神だった。アオの――はじまりの男神の腕は今よりずっとしなやかに伸び、緑の葉もたくさん茂っている。そうだった、とはじまりの男神は思い出す。久方ぶりの渡りをして、たった数晩ではあるけれど、依代である橘の樹に宿ったのだった。
はじまりの男神に『名』はない。ただ、時折『こちら』に降りるときには、ひとびとから『はじまりの男神』と呼ばれている。はじまりの男神は『あちら』と『こちら』を行き来する旅神で、長い時をそのようにして渡ってきた。
けれど、今度の渡りばかりは違う。はじまりの男神は、次の渡りで妻神たる女神を『あちら』へ連れて行こうと考えていた。近頃、女神の力は弱まり、このまま『こちら』にとどまれば、その身は土に還り、風に流され消えてしまいそうだった。ときどきの渡りでしかまみえぬ妻であったが、失えば、長い孤独に耐えられそうにない。また、長い世の移ろいにより、神霊たちは次第に『こちら』での力を失くしつつあり、もう『あちら』への扉を開くこともできなくなっていくだろうとはじまりの男神は考えていた。
ゆえに、これを最後の御渡りにするとはじまりの男神は、神々に告げた。神としての力を失くし、『こちら』の地に還ることを選ぶものはそれでよし。だが、もし『あちら』に渡りたいものがあれば、来い。わたしが連れて行こう。
無論、妻神たる女神はついてくるものだろうとはじまりの男神は考えていた。
しかし女神は、否と首を振った。
(あなたが開いた『あちら』への扉を誰が閉じるというのです。扉が開かれたままとなれば、『こちら』と『あちら』の境が揺らぎ、双方を壊しかねない。あなたが開き、わたしが閉じる。これは創世よりさだめられたこと。わたしはこちらにとどまります)
はじまりの男神は三晩かけて説得したが、女神は聞き入れなかった。はじまりの男神は、一度の渡りで三晩しか『こちら』にとどまることができない。
(どうか、中つよ。聞き入れてくれ)
しかし無常にも時は流れ、『あちら』へと再び渡るその日は訪れた。悲嘆に暮れていたはじまりの男神は、ふと足元で小さな青虫が息絶えそうになっているのを見つけた。
(どうした、青虫よ。腹が減っているのか)
(ヒモジイ、ヒモジイ)
『あちら』を総べるはじまりの男神とはちがい、卑賤な化生たる青虫はたいした言葉を持たない。けれど、はじまりの男神は憐れみ深い心を持っていたので、ヒモジイと哭くばかりの青虫の声に真摯に耳を傾けた。
(ヒモジイ、ヒモジイ。シヌ。カナシイ。ヒトリ。サビシイ。サビシイ。サビシイ)
(そうか。確かに、ひとりはかなしい)
奇妙なことに、創世の二神と呼ばれる尊きはじまりの男神は、足元でまさに命を落とそうとしている卑賤な青虫化生にこそ、深い共感を覚えたのだった。ならば、とはじまりの男神は青虫を拾い上げて、己の手のひらに抱いた。
(わたしを食べよ、小さき青虫よ。おまえに幾千の命をやろう。長く生きたわたしにはもういらぬものだ。おまえはそれで添い遂げる相手を見つければよい。代わりにおまえはわたしを飲み込み、砕き、この地のものへと変えておくれ。さすれば、中つとともにせめてこの地に還ることができよう)
そうしてぱくりと青虫に食べられた。
直後に、最後の御渡りが起き、『こちら』に残る多数の神霊が『あちら』に渡っていった。眠りから目を覚ました女神は扉を閉じようとしたが、御渡りの力はあまりに強く、扉を閉じられそうにない。危うく力尽きかけたそのとき、
『女神!』
五十年後の姥桜の下で、小さな少年が女神を呼んだ。
(あちらだ)
女神は少年を目指し、姥桜の下に降りる。時空を捻じ曲げながらも扉は閉じられ、女神は深い眠りについた。そのときに女神を呼んだ小さな少年は、ともに『あちら』に飛ばされてしまったのだけれど、女神はそれに気づくこともなく。姥桜の前には、男神を食べた青虫化生だけが残された。すぅ、すぅ、と開いた口腔から、喘息が漏れる。身に余る力を得た青虫化生の膚は破れ、内臓も潰れて、背には深い傷を負っていた。苦しくて、動けそうにない。青虫化生は頭を雪の上に横たえ、目を瞑った。
「あっ」
そのとき、さくりと薄く積もった雪が鳴った。小さな二本の足が、青虫化生の前に立つ。
「あなた、怪我をしているの?」
そうして、蝶子が現れたのだった。
急速に鮮やかだった景色が薄れていく。夢が終わってしまったのだと気付いて、アオは目を開けた。
額にぴちょんと雫が落ちて、身をよじる。神御寮の深部にあるあやかし用の牢に、アオは入れられていた。牢の中は昼も夜も薄暗く、ぼんやりしているうちに一日が過ぎるせいで、時間の感覚がなくなってしまう。蛇ノ井から受けた傷は塞がりつつあったが、何も口にしていないせいで、動くだけの力もなかった。
床にくっつけていた頭を少し動かし、いったいあれからどれくらいの日が経ったのだろう、とアオは考えた。最初のうちは覚えていた日数も、十を超えたあたりからわからなくなってしまった。再び瞼を閉じて、まどろみとも眠りともつかない間をうつらうつらとさまよっていると、遠くで扉が開かれる音がした。あやかしの血と臭気に満ちた房に、湿った足音が響く。木格子から手燭の明かりが射し、アオは眸を眇めた。
「これはこれは。お眠りのところを起こしてしまったかねえ」
蛇ノ井、鳥野辺、亀山田の三御寮官だった。といっても、手燭を掲げて近くに立っているのは蛇ノ井だけで、奥にたたずむ鳥野辺と亀山田の表情は見えなかった。
「君の処遇が決まりましたよ、アオくん。御所にて春例祭がもよおされる春分の日、はじまりの男神は君ごと焼き払います。昼と夜が等分になる春分は特別な日でねえ。異界との境もいちばん小さくなる。確実に焼き払うには、春分の日がいちばんいいんです」
そうですか、とアオは平坦な声で呟く。実際、短命な青虫化生にとって、死期はああ今なのか、という程度のうっすらしたものであって、これ以上の飢えに苦しむくらいなら、早く焼き払ってもらったほうがよかった。ただ、直前にはじまりの男神の夢を見たのがよくなかったのかもしれない。アオは頭だけを動かして蛇ノ井を見つめた。
「あなたがたははじまりの男神を焼き滅ぼすのだという。何故です。はじまりの男神は無欲で憐れみ深い神であったのに」
そしてアオの腹のうちで眠り、『こちら』に還ることを願っている。
「さあ、そうかもしれない。たいていの神はそうですよ。憐れみ深い。と同時に、残忍だ。まったく異なるはずのふたつの面を神々は持っている。でもそれは当然のこと。わたしらと彼らはまるでちがう。時間も、力も、考え方も。神々のあくびが、洪水を起こして大地を揺るがすんです。それをどうして恐れずにいられますか。アオくんが悪いというわけでも、『はじまりの男神』が悪いというわけでもない。ただ、わたしらの手に余る強大な力が存在していること、そのものが害悪なんです。神御寮の理念っていうのはつまるところそういう話なんですよう」
蛇ノ井の理屈は、化生のアオにはわかるようにもわからないようにも感じる。だが、この男が御寮官の誰よりも純粋に、神御寮の理念を守ろうとしていることだけは理解できた。あやかしとひとのふたつの血を引くからかもしれない。蛇ノ井はひとの情にはとらわれず、純粋な理念のみを実行する。
「……蝶子は」
久しぶりに呟いた名前は、からからの咽喉にも水のようにひんやりと響いた。
「蝶子くんですか?」
「蝶子は、目を覚ましましたか」
「ええ、無事ですよ。特にお怪我もないので、安心してください」
うなずくと、もう他のことには興味がなくなってしまって、アオは目を閉じる。早くこの胃の腑が捻じれそうな飢餓から解放されたい。考えることといえば、それだけだ。
(それに、そうしたら、もう蝶子をたべなくてすむ)
再び別の夢に沈みながら、アオは思った。
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