七章、春例祭
1
春例祭、当日。
祭りは例年どおり御所の斎庭で執り行われた。桜が咲くにはまだ早い季節だったが、南殿の左にたたずむ樹齢千年の姥桜の大木は春うららの光の下、蕾をいっぱいにつけた枝を風にしならせている。対する橘は病がひどく、霜よけの筵に覆われたままで、わずかに見える葉の色も常緑ではなく、黄味を帯びていた。神御寮の御寮員ではなくなっていたが、蝶子もまた春例祭に招かれた賓客の列に常野神社の当代として出席している。
春例祭は元来、春を迎える前に穢れを祓い、豊穣の神に今年の豊作を願うものだ。今ではほとんど形骸と化し、毎年、下御森神社に属する一座の中からいちばんの舞姫を連れて来て神楽を見せる、娯楽的な意味合いが強くなっている。神御寮では、このとき穢れを流す形代と一緒に、アオを焼き払うようだった。無論、ひとびとが神楽舞を眺める斎庭とは別所で。
「お久しぶりですねえ、蝶子くん」
蛇ノ井はいつもの洋装ではなく、御寮官の正装たる狩衣姿をしていた。挨拶をしているさなかに蝶子を見つけたらしい。蝶子もまた常葉緑の狩衣の正装に、いつもの蝶簪を挿しており、礼を取るために身をかがめると、簪が涼やかな音を立てた。
「御寮官。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「いーええ? 常野神社の当代には毎年ご列席いただいていますからねえ」
「鳥野辺御寮官、亀山田御寮官は?」
「それぞれ挨拶をしていますよ。神御寮も今日は総出で警護にあたっています」
「そうですか」
うなずいた蝶子の盃に、蛇ノ井が酒を注ぐ。列席した各神社の当代をもてなすのも、神御寮の仕事である。朱塗りの盃にひたひたと満ちる清酒を蝶子は見つめた。
「ねえ、蝶子くん。昔わたしが言った言葉を覚えていますか」
提子を置いて、蛇ノ井が金がかった眸に愉快がる色合いを乗せた。骨ばった手のひらが蝶子の肩をつかむ。存外強い力だった。
「さだめは己の力で開いてごらん――ってね」
「ええ」
ひとびとの談笑が一時遠のき、蝶子と蛇ノ井は穏やかでない視線を絡ませ合う。それ以上は言わず、くつくつと喉を鳴らすと、蛇ノ井は提子を持って蝶子から離れて行った。思いも寄らない力でつかまれた肩をさすって、用心しておいてよかった、と蝶子はこっそり漏らす。蛇ノ井の姿が柱の影に消えたのを見て取ると、人知れず指袴を翻した。
一度席を外した蝶子であるが、すぐに賓客席へと戻ってきた。それを遠目に確認しつつ、蛇ノ井は采女の注いだ盃を口元へやった。春例祭に参加したからには、蝶子たちが何かしらを画策している可能性は高い。御寮員として半人前以下の蝶子は、さしたる脅威と考えていないが、蝶子がナンテンとともに一度下御森神社と接触したことを蛇ノ井たちはつかんでいた。中で何が話されたかは定かではないが、あの集団に動かれると少々面倒だ。
用心のため、御寮員たちは数日前から下御森神社の見張りをしていた。が、今のところ目立った動きはまったくない。それが奇妙といえば、奇妙だった。
(どう思いますか、万緑)
十年前、六海の地であらぶる神を狩ったとき、神御寮の名立たる御寮員たちが命を落とした。蛇ノ井の友人であった常野万緑もそうだった。何故か。
(狩らなくてはならないのはわかっていたんです。けれど、孕み女神であることがしのびなく、誰もすぐには殺せなかった。万緑はお馬鹿さんでしたから)
その結果が十年前の惨事であり、神御寮の歴史に汚点を残す失態だ。万緑は女神を化生斬りで狩ったが、女神の胎にいた赤子までは斬れず、そのとき女神から受けた傷がもとで死んだ。他でもない、蝶子と春虫、たったふたりの幼い子どもを遺して。
情をまじえれば、過つ。
どうしてこんな単純なことがひとにはわからないのだろう。蛇ノ井には不思議だった。
『でもそうすると、兄さんはどんどんひとから離れていくわね』
いつか藤尾が言った。蛇ノ井がまだ若く、化生狩りで失敗し、右腕に深手を負ったときだった。熱を持ち、膿んだ蛇ノ井の右腕を水で洗いながらまだ少女といってよい年頃だったこの妹はどこか達観した眼差しで呟いたものだった。
『兄さんのほうが先にひとでなくなってしまいそう』
『おかしなことを言う妹だねえ。わたしらは半分あやかしの血を引いているのに?』
『だけど、もう半分はひとだわ』
藤尾はきっぱりと言った。
『兄さんは兄さんよ。私が見失わない』
藤尾が木花神社に伝わる巫女の修業を始めたのはそのあとだったか、もっと前のことだったか、遠い昔で定かではない。
(蝶子くん。君は女神の力で扉を閉じるつもりでいるんでしょ)
はじまりの男神は『あちら』への扉を開き、女神は『あちら』への扉を閉じる。それは神御寮にも伝えられてきたことわりである。だが、五十年前扉は閉じなかった。ゆえに十町が消し飛んだのだ。
(あいにくと、わたしは神を信じない)
今日のために斎庭にしつらえられた舞殿に、芸座いちばんの舞姫たる女がのぼった。唐紅の千早が、飾り紐を揺らしてふわりとそよぐ。額につけた前天冠に、金色の光が当たった。しゃん、と採り物の鈴が鳴る。
観覧席のほうへ視線を戻すと、蝶子は未だ座して、舞姫を見つめていた。蛇ノ井は含んだ酒を飲み下し、盃をかたわらに置く。もうじき、神御寮ではアオを燃す火がくべられる。
*
「起きて、アオくん」
己を呼ぶ声にアオは目を開いた。
その日はいつもとちがって、牢の外がどことなく騒がしかった。アオが囚われているのは、神御寮の最深部だ。普段はひとの気配を感じることなどまるでないのに、せわしない足音が行き来し、ひとの声も聞こえる。いつもとは何かがちがうことが牢のうちにいるアオにも伝わった。
「出なさい、こっちよ」
格子の前に立っていたのは、清潔な白の単に緋袴をつけ、花挿を挿した藤尾だった。化生封じの呪符を破って、扉を開く。代わりに藤尾はアオの両手首をまじないのほどこされた縄で縛った。緋袴をさばいて歩き出した藤尾に、数歩離れてアオはついていく。藤尾のほかに巫女装束をした女は五人ほどいて、隙のない眼差しをしてアオの両脇と背後を固めた。
「どこへ行くんです」
「アオくん、春例祭の裏祭って知っている?」
「うら、ですか?」
尋ね返したアオに、藤尾は顎を引く。
「表では酒がふるまわれ、神楽を楽しみ、豊穣の神に謝意を述べる。その裏、神御寮の座するこの場所では毎年、穢れを移した形代が燃され、川にその灰を流して根の国へと送っているの。ふたつは表と裏。同時に行わなければならない。そして裏の部分を担っているのが、私たち、木花の巫女なのよ」
「あなたが?」
「私では不足かしら?」
藤尾は小さく笑った。
藤尾が修練を積んだ巫女であることは、蝶子から聞かされていたが、裏祭のことは初めて知った。神御寮の表に続く階段をのぼりきると、久方ぶりに外へ出る。日差しのまぶしさに、アオは目を眇めた。春例祭のためか、神御寮の装いも連れてこられたときとはちがう。渡廊には桜花の透かし彫のなされた吊り灯籠が下げられ、まだ春には満たないそよ風に揺れていた。
「アオくん、ねえ、聞いていい?」
後ろで一本に束ねた髪を風になびかせ、藤尾が尋ねた。
「前にあなたはひとの情を解さないと言ったわね。今もそうなの?」
「俺は化生ですから」
「結局変わらないのね。なら、私の感想を言ってもいいかしら」
藤尾は肩越しに振り返り、眸を細めた。
「蝶子ちゃんを見ているときのあなたはとても……そうね。とても幸福そうに見えたわ」
幸福。
幸福なんて、形のないものはアオにはよくわからない。
「ここよ」
言葉を切ると、藤尾は斎庭の中央に置かれた、ひとがひとり入れる程度の庵を開けた。壁板や柱の木目は剥き出しで、彩色や塗装のたぐいはほどこされていない。そばでは昼にもかかわらず、篝火が燃されていた。おそらくここが裏祭の場なのだろう。
「中へ入って」
そのとおりにすると、藤尾は扉の取っ手を握り、戸口に立った。
「蝶子ちゃんに伝えておきたいことはある?」
「何も」
「……そう」
うなずいた藤尾の表情は、逆光のせいでうかがえない。やがて藤尾は顔を上げた。つかの間の迷いを払った表情はどこかすっきりとしている。
「じゃあね、アオくん。私は結構あなたのこと、好きだった」
そして、扉が閉じられた。
筵の上に腰を下ろし、アオは天井を仰ぐ。目を細めていると、『夢』の記憶が蘇ってきた。
小さな青虫だったアオは、食した『はじまりの男神』に不思議なものがたくさん詰まっていることに驚いた。それは飢えたときと同じく胸をきりきりと締め上げ、それでいて、腹がいっぱいのときのように身体中を満たしてくれる、不思議なものだった。アオにはわかった。『はじまりの男神』はこの不思議なもののために、アオに食べられる決心をしたのだと。不思議なもの。苦しくて、かなしくて、あたたかい。だけど、かたちがなくて、食べることができない。
(これはいったい何なのか)
アオは考えていたが、そのうち外でかけられたのだろう火によって、壁板の下部から煙が立ちのぼり始めた。
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