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本殿を抜け、奥宮にたどりつく頃には、夕刻に近い時間になっていた。参道を覆う緑は深まり、心なしか下界より風も冷たい。不穏に蠢く木々の向こうに、仄かな明かりがちらついた。
「見えてきた。御社様がいらっしゃるのはあそこさ。八部衆やヒルコもたぶんいる」
「八部衆?」
「御社様の補佐みたいなもんさ。皆名だたる半神半獣の御方さ。あんたに気付くなり、取って食わなきゃいいけどねえ」
ナンテンは袖を口にあてて、愉快そうに笑った。
「じゃあね、蝶子。わたしが案内できるのはここまでさ」
「わかった。ありがとう」
「まあ、せいぜい武運を祈っておくよ」
蝶子の肩を叩き、ナンテンはからりと駒下駄を返した。
奥宮、と呼ばれる宮は、下御森神社の本殿よりもずっと小さかった。注連縄のされた古鳥居の先には、掘っ建て柱に茅葺き屋根の宮が見える。中の障子から、蜜蝋らしい明かりが漏れていた。
(アオもいない。今のわたしを守れるのはわたししかいない)
御寮員としては半人前以下の蝶子である。ひとりで乗り込んだところで、下御森神社には脅威にすらならない。だからこそ、ナンテンも気まぐれを起こしてここまで連れて来てくれたのだろうけれど。
蝶子は帯に引っ掛けた二連の守り鈴を握り締めると、意を決して奥宮の蔀戸を叩いた。
「ごめんください。わたしは常野神社の蝶子。下御森神社の御社様にお目通り願いたく、参りました」
だが、蔀戸から返事は返らない。失礼、と詫びると蝶子は扉を一気に引き開けた。
「どなたかいらっしゃいますか。御社様にお目通り願いたい」
「おうおう、相変わらず威勢がいいねえ、お嬢ちゃん」
蜜蝋が灯されただけの薄闇からぬっと顔を出したのは、蛙化生のヒルコだった。ぺたん、ぺたん、と湿った音が奥宮の床に響く。
「ナンテンの奴がやりやがったな」
すんとにおいを嗅いで、ヒルコは舌打ちした。
「だが、あいにくと人間様に用はねえんだ。聞いたぜ。御寮員でもなくなったらしいじゃねえか、嬢ちゃんよ」
「そうだね、わたしはもう神御寮の人間じゃない」
「なら、俺らには関係ねえ。とっとと……」
「――もしも、『はじまりの男神』を手にできるとしたら、どうする」
「なに?」
ヒルコの黄色く濁った眸がいっぱいに開かれる。心なし身を引いたヒルコに薄く笑い、蝶子は蔀戸を後ろ手に閉じた。
「そちらが『はじまりの男神』を欲していることは知ってるよ。神御寮は、アオをすぐには引き渡せないと突っぱねてきただろう。どうしてかわかる? 神御寮は来たる春例祭の日にアオを処分する気で、引き渡すつもりなんてこれっぽっちもないんだ」
「道理で妙に日にちを引き伸ばしやがると思ったが」
「――そのお話」
蛙化生に隠れていた小柄な影が前へ進み出る。
「御社様!」
ヒルコが驚いた様子でその場に巨体を跪かせた。『御社様』――白(ハク)は、面に白布を下げ、足元まで覆い隠す白絹の衣に身を包んでいるせいで、薄闇でもほのかに輝いて見える。白の母は、六海を制する海神であったと聞く。小柄な少女にも、その貴神の血は継がれているように感じた。
「詳しく聞かせてくださいませ。確か、前回の会合の際、警護をしてらした方ですわね」
「ええ、御社様。常野万緑の娘で、蝶子と申します」
互いに皆川商会での夜会には触れず、蝶子と白は向かい合った。
「覚えておりますよ。眼差しがお父上とそっくりですもの。わたくしの母を斬った人間をわたくしが忘れるわけがありません」
「戦いの傷がもとで父もまた亡くなりました」
「そうでしたわね。わたくしの母も、あなたさまの父上も亡くなった。あれは忌まわしき戦いでしたわ」
御社様の声は平坦で、感情が読み取りづらい。右半分が失われた顔面は白布で覆われ、わずかに赤い口元がのぞくだけだ。
「おはなしを聞かせてくださいますか? 蝶子殿」
口元に笑みを浮かべると、御社様は蝶子を奥宮のうちへといざなった。
案内された部屋は、周囲を塗り壁で囲んでいるせいでいっそう暗い。左右に並んだ半神らしき男たちを見て、これが先ほどナンテンが言っていた八部衆だろうか、と蝶子は考えた。男たちは一瞬いぶかしむような顔をしたが、御社様が何も言わずに中央の御坐に戻ると、一様に目を伏せた。御社様のかたわらには、夜会のときに見かけた大柄な樟化生が控える。蝶子は、御社様の対面の円座に腰を落とした。
「先ほど『はじまりの男神』と言いましたね」
樟化生が差し出した白湯を飲み下し、御社様が口を開く。
「はじまりの男神を腹に飼う青虫化生を、神御寮が始末したがっていることはわかりました。ですが、蝶子殿。それを阻止する方法があると?」
「ええ。下御森神社の皆様の協力が得られれば、ですが」
「協力! 協力とな! 下御森が人間に協力? こりゃあ笑わせる!」
「下卑た口を慎め、ヒルコ」
かかか、と大口を開けて笑うヒルコに、ぴしゃりと八部衆のうちのひとりが言った。ちぇ、とヒルコはわざとらしく首をすくめて、口を閉じる。御社様が続けた。
「蝶子殿。あなたははじまりの男神を、ひいては青虫化生を、取り返すおつもりということですか」
「はい」
うなずくと、今度は八部衆が一斉にどよめいた。
「つまり、神御寮にそむかれるおつもりだと?」
「ひとに害なすあやかしを狩る――神御寮の理念にそむくつもりはありません。ですが、『はじまりの男神』がひとに害をなすとはわたしは考えていません」
「奇異なこと。神御寮の肩を持つ気はございませんが、五十年前と同じように再び『あちら』への渡りが行われれば、ひとや土地は皆持っていかれます。それがひとの害にはならないと?」
「神隠しを止めることができれば」
「止める?」
「ええ」
蝶子は守り鈴をおもむろに帯から取り去って、御社様の御前へ転がした。女神の依代ともなる姥桜を彫り出し、作られた鈴は、金属よりも低くこもった音色を奏でる。白布越しに御社様が息をのんだのがわかった。
「これは姥桜の」
「『はじまりの男神』の対となる女神が宿りし姥桜の血肉より作った守り鈴です。五年前、常野で神隠しが起きたとき、何故かわたしだけはあちらに連れて行かれることがなかった。偶然かと思っていましたが、違ったんです」
鈴を拾い上げて、蝶子は言った。
「おそらく、女神には『あちら』へ開いた扉を閉じる力がある。『はじまりの男神』が扉を開き、女神が扉を閉じる。だからこそのつがい。あれはふたつでひとつの力だったんだ」
傷を負ったアオが姥桜の下に現れたあのとき、確かに『あちら』への扉は一度開いたのだろう。身に着けていた守り鈴によって蝶子はまぬがれ、おそらく同様にまぬがれていた春虫が女神の力を使って扉を閉じた。春虫は、蝶子とちがって父の仕事を継ぐべく修練を始めていた。とっさに女神とはじまりの男神の関係性を見抜いたのかもしれない。ただ、おそらく中途で失敗したため、春虫たちは『あちら』へと連れ去られてしまった。
「女神は、近年力が弱まってきていると聞きましたな。五十年前に起こったとされる大規模な神隠しはもしやそのせいなのやも……」
「我々は力が弱まると、こちらへの顕現がしづらくなる。春虫とやらが名を呼び、一度は形どられたかもしれないが」
八部衆が口々に言い合う。
「なるほど。お話はわかりました」
それまで黙って蝶子の話を聞いていた御社様が顔を上げる。
「確かに、はじまりの男神と女神にはつがいの力があります。女神は『こちら』を総べ、はじまりの男神は『あちら』を総べる。陰と陽。生と死。常夜森への扉に関する力もつがいとなっていると考えるのは、あながち見当違いではありません。けれどそれであなたは……なんとするおつもりです?」
「わたしには女神の加護がついています」
蝶子は己の胸に手をあてがい、言った。
「五つで死ぬさだめであったわたしを悲しみ、母が己の命と引き換えに女神に乞うて得た加護です。常野の姥桜と同様、わたしには力の弱まった女神の依代となりうる器がある。『はじまりの男神』が門を開いたそのときは、わたしが女神をこの身に降ろし、神隠しを阻止します」
「神をひとの身に降ろすと? 恐ろしいことをおっしゃる。意味を理解できておりますか、蝶子殿。ひとと神は本来、まじわることのできぬもの。この領分を侵せば、あなたもまた、『こちら』のものではなくなってしまうかもしれない」
「だからこそ、ここに来たのです。長く神霊と対峙してきた神御寮には、神を降ろす術は伝わっていない。むしろそれらは、あなたがた、下御森の領分ではないかと。わたしとて常野神社の当代です。神霊を降ろす術を御社様に教えていただきたいのです」
「神御寮にも不思議な方がいたものですね……」
嘆息して、御社様は顔の前に下げていた白布を取り去った。右半分が崩れた顔があらわになる。御社様が顎で示すと、その場に並んだ八部衆たちも皆、それぞれ腕や足など衣で覆っていた部分を見せた。そのどれもが爛れ、崩れていた。
「わたくしたちを苦しめる呪いですわ」
御社様は失くした右半分の顔を撫で、呟いた。
「化生斬りに斬られた傷は『あちら』に属するもの。『こちら』で生きるわたくしたちをこのように苛み続けます。ですから、『あちら』を総べるはじまりの男神の力が必要なのです。わたくしたちを癒すことができるのはおそらくはじまりの男神だけなのでしょうから」
いつもは下卑た嗤いを浮かべているヒルコであるが、御社様の言葉だけは沈痛そうに聞き入っている。ヒルコが差し出した白布でまた顔を覆い、御社様は布越しに蝶子を見つめた。
「蝶子殿は奇特な方。あやかしを狩る神御寮におられながら、自分は化生のためにその身を差し出すのですね。何故?」
「……さあ、何故なんでしょう」
困った風に蝶子は苦笑した。
(ヒモジイ……ヒモジイ……カナシイ)
あのとき、カナシイ、カナシイと泣いていた化生へ、蝶子は気付けば、手を差し伸べてしまっていた。幼い蝶子には、化生だとか、ひとだとかを考えるだけの頭はなかった。ただ、
(サミシイ)
その気持ちは蝶子にも痛いほどわかったから。
「アオを、わたしは助けたいのだと思います」
「そうですか」
御社様はそこで初めて微かに笑ったようだった。
「それではわたくしも、蝶に力をお貸ししましょう。幾星霜の恨みを解いて」
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