3

 臥せっている間に西都はずいぶん春めかしくなった。屋敷の板塀からこぼれる梅の花。大店にかけられた暖簾は鶯色が目立ち、通りを行くひとびとの装いも若草や桜をあしらったものに変わった。とはいえ、蝶子のほうは相変わらずうっすら茜の糸を織り込んだだけの鼠色の紬で、髪も玉結びにして蝶簪を挿すだけの地味な装いである。


「黒櫛笥通りの『金宮座』か……」


 久方ぶりの陽射しのまぶしさに目を細め、蝶子は紙に走り書かれた通りを探す。『金宮座』は、旧金宮神社を本拠として西都を回っている芸座で、最近美貌の舞手が入って評判になっていた。舞手泣かせと呼ばれる「胡蝶」の演目も、この舞手にさせれば、たちまち華麗な蝶が降り立ったかのように舞うと聞く。


「ここだ」


 金宮神社と書かれた参道をのぼると、やがて丹塗りの剥げた古鳥居が見えてきた。


「ナンテン」


 探していた人物は、鳥居の礎石にだらりと腰をかけて、煙管を吸っていた。目が合うと、煩わしげに頬を歪め、「あんたか」と呟く。


「久しぶりだね。腕の調子はどう?」

「のん気な面をしてること。いったいどうやってここを見つけたんだい?」

「ナンテンは舞がうますぎるのがいけない。どこの芸座に入ってもすぐ評判になってしまうのだもの。幸い、西都には知り合いが多いんだ。話を聞いていたら、すぐにわかったよ」


 西都の裏事情といえば、鍛冶屋の三ツ目に聞くに限る。先日の御礼に足を運んだ折、試しに聞いてみると、すぐに金宮座の話が上がった。


「ここもそろそろ抜け時かとは思っていた」


 忌々しげにナンテンは鼻を鳴らした。


「ヒルコと青虫化生の交換の話、そちらさんのふてぶてしい返事なら聞いたよ。何でも、あの蛇ノ井とかいう御寮官、『ヒルコは神御寮の御寮員を襲った化生にあらず』と言ったそうじゃないか。結局協議はいったん保留。そちらも青虫化生は出したくないと見たね」

「どうなんだろう。わたしはもう神御寮の人間ではないから、わからないな」

「は? どういうことだい?」

「やっぱり知らなかった? わたしは神御寮から追い出されてしまったんだよ」


 いぶかしむナンテンに、蝶子は軽く肩をすくめてみせた。てっきり御寮員として牽制に来たと考えていたのだろう。ナンテンは行き場を失くした敵意の代わりに、疑念をありありと顔に浮かべた。


「わからんね。じゃあ、あんたは何しにここに来たっていうんだい」

「そこだよ」


 鳥居から背を離し、蝶子はナンテンが口に咥えようとした煙管をつかんだ。


「常野蝶子は下御森神社に取引を持ちかけたい。ナンテン。あなたのところの御社様にわたしを取り次いでくれないか」

「だいそれた話を持ちかけるもんだ」


 蝶子の要求はナンテンにとっても予想外であったらしい。薄く金がかった眸が剣呑そうに眇め、ナンテンは腕を組んだ。


「わたしは下御森のあやかしだよ。人間のあんたの言うことをほいほい聞いてたまるか。他を当たりな」

「そういうわけにはいかない」

「前は一緒だった青虫化生が見当たらないねえ。あんたさては、青虫化生を取り上げられて、身ひとつで神御寮を放逐されたというわけか。ふふん、御寮員の名が聞いて呆れるね。何なら、このナンテン様と勝負してみるかい? わたしを負かしたら言うことを聞いてやらないでもないよ」

「ナンテン」


 蝶子の手から煙管を抜き取って、ナンテンが立ち上がる。見上げた蝶子に冷ややかな一瞥を送り、ナンテンはひらりと着崩した袷を翻した。一歩、二歩。――三歩目で、駒下駄が止まった。


「……なあ、知ってるかい」

「え」

「わたしらは、金を払った者に芸を売る。ヒネリと一緒だよ。貴賤を問わない。情もいらない。忠義だってくそくらえ。わたしはね、いちばんわたしに高値をつけた奴にわたしの芸を売るって決めているんだ。蝶子。あんた、はじめて会ったとき、わたしの舞をきれいだと言ったね。だから金百をつけたんだって」


 こちらを振り返ったナンテンは左腕をさすると、胸元から取り出したヒネリ用の薄紙を放って寄越した。


「さあ、今度はいくらつけるんだい。この間よりも高くつけてくれるんだろうね?」


 どこか決まり悪そうに告げたナンテンに、「もちろん」と蝶子は相好を崩して、ヒネリを開いた。



 取次は無理だが、案内ならできる、とナンテンは言った。

下御森神社は西の山をご神体とする千年神社で、神々の去りしこの地に残った数少ない大社のひとつである。御社様がいるのは本殿のさらに先、奥宮と呼ばれる場所なのだとナンテンは言った。


「下御森はふつう、女人禁制なのさ。あんたはまあ、その面だからわからないけど」


 今日は女物の紬を着ていた蝶子であったが、帯さえ変えれば、少年でも通せてしまう面構えである。藤尾はもう男の子には見えないと言っていたが、やり方次第ではまだどうにかなるだろう。

 下御森神社はあやかしや半化生を擁する他方、表向きは各地をめぐる芸座の総取締もしている。あやかしは異端な風貌や飛び抜けた身体能力から、芸事に携わる者が多いためで、東都の新政府もこうしたあやかしの活動は黙認している。芸座は下御森神社の許可符を持って、街から街へ出入りし、好きに見世物を開ける代わりに一定の金を下御森神社へ納めるのが決まりである。旧玉垣神社の夜見世で、真野の大神の妻神の御足を出したときも、このツテを頼ったのだとナンテンは言った。


「だから、今日は座長の代わりに金を納めにきたという話にするよ。門番はわたしの顔を知っているから、大丈夫だろう」

「わたしは?」

「蝶子はわたしの弟子ということにする」


 話しながら、ナンテンは山門に続く階段を数段飛ばしで駆け上がっていく。そんな芸当は無論、蝶子にできようはずもない。ときどき息が上がってしゃがみこんでしまい、ナンテンに遠くからどやされる始末だった。


「ほら、見てごらん。神御寮のふざけた回答のおかげで、門も閉じちまった」


 やっとたどりついた山門の大扉は、ナンテンの言うとおり固く閉ざされていた。脇には門番の詰所があり、ナンテンが扉を叩くと、上半身が人間、下半分が猛禽の男が顔を出した。胸から出した証書をナンテンが門番に見せる。


「いつもの用件だ。御社様に金を納めにきた」

「兎座は潰されたあとだと聞いたが」

「今は金宮座さ。知らないのかい? 金宮座のナンテンっていったら巷じゃ、ちょっとした噂になっているよ」

「へえ、そうかい。あんたはいつもすげえなあ。おや、その後ろのは」

「弟子でね、チョウってんだ」

「へえ」


 退屈そうにうなずいて、門番は肩を鳴らすと大扉を開いた。ナンテンの後ろについて、蝶子も俯きがちに敷居をまたぐ。しかしあと少しというところで、ぐいと首根っこを引っ張られた。


「おい。おまえ、おんなか」

「……ちがうよ。痩せぎすだからって馬鹿にしないでくれない? なんなら、おれに金玉がついてるか、おじさん調べてみる?」


 わざと低くした声で、蝶子は負けじと啖呵を切った。


「餓鬼の金玉に触る趣味はねえよ。うーん……花のにおいがするな。甘い」

「ちょっと、あんた。うちの弟子にちょっかいかけるんじゃないよ。ほら、次のがつかえているだろ。早く仕事しなよ」


 風呂敷を抱いた雀顔の娘が門前で待っているのを指して、ナンテンが門番を追い立てる。


「そうだよ、門番! わたしゃ急いでるんだよ!」


 雀娘のほうも金切声でせかしたので、門番は面倒そうに持ち場へ戻っていった。門番の肩越しに、雀娘が悪戯っぽく片目を瞑る。


「今のって……」

「各地を回って長いからね。知り合いは多いのさ。さ、行くよ。あとひといきだ」


 あとひといき、とナンテンに示された石段は遥か彼方まで続き、上のほうは霧がかかっていて見通すことすらできない。


「どこがひといきなんだ……」


 座り込みそうになるのをこらえて、蝶子は石段に足をかけた。

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