2
夢の中で、蝶子は十歳のときの小さな少女に戻って、屋敷の中で春虫を探していた。あの頃の蝶子は今よりもずっとひよわで、屋敷のうちを歩くのだって、杖なしではできなかったほどだ。
『はるむし。はるむし、どこにいるの?』
今にも泣き出しそうな声を上げて、蝶子は春虫たちを探してさまよい歩く。広間に厨房、亡きお父様の書斎に、階段の下。どこを探しても、誰もいない。
『はるむし。はるむし、ねえ、どこ?』
蝶子は踊場の上に座り込んで、くすんくすんと泣き始めた。
『りん子ちゃん、丸じい。かあさま、とうさま。みんな、どこお……。いやだよ。蝶子をおいていかないで』
――こんこん、と外から響いた音に、蝶子は目を開いた。枕に押し付けていた頭を少し持ち上げる。いつの間にか眠っていたらしい。付き添ってくれていたはずのウグイスはいなくなり、近くの座卓に「蝶へ」と書かれた文と蓋付の鍋が置かれていた。
こんこん、と再び扉を叩かれて、蝶子は「はい」と声を上げた。
「蝶子ちゃん。起きてる?」
開いた扉からそっと顔をのぞかせた女性を仰ぎ、藤尾さん、と蝶子は呟いた。
「ごめんね、お見舞いが遅くなってしまって。ウグイスちゃんだっけ? ちょうどあの子がいたときに、入れてもらったの」
警戒心を抱かせず、誰の懐にももぐりこめてしまうのは、藤尾の特性といってよかった。いつもの滅紫の袷に桃花紋の被布を重ねた藤尾はにっこり笑って、丸椅子に腰かけた。
「はい、おみやげ。蝶子ちゃん、甘いものが好きだったでしょう」
「……ありがとう」
差し出された紙袋をおぼつかない所作で受け取る。最近西都ではやりの寒天に砂糖と牛乳を加えて固めた菓子なのだという。
「高桐にいさんは?」
「どうかしら。最近見ていないから、神御寮のほうにこもっているのかしらね」
「ときどき、お見舞いに来てくれてたの。わたし、あまりお礼を言えなかったから……」
「気にすることないわ。あのひとがついつい弱っているひとのところにいってしまうのは、趣味みたいなものよ。だから、大勢には愛されるけど、たったひとりには愛してもらえないたちなのよ」
「高桐にいさんはやさしいからね」
「――やめたのね」
「え?」
「春虫くんの口調。髪を結っていないからかな。そうすると、蝶子ちゃんはやっぱり女の子ね。男の子に見えることがあったのが嘘みたい」
気付かれていたのか、と知って蝶子は頬を染める。蝶子がずっと、春虫の口調や、仕草や表情を真似ていたこと。
「だって、わたしはもう女になってしまったんだもの。春虫になることはできない」
「そうね。今の蝶子ちゃんはきっと狩衣を着ても、春虫くんには見えないわ」
常野の家と神御寮の仕事を継いだとき、春虫が戻ってくるまでは、蝶子が春虫になるのだと心に決めた。唯一の肉親を失ってしまった心もとなさをそうして封じ込めただけなのかもしれない。内気な蝶子に対して、春虫は明るくて強い男の子だった。春虫のしなやかな強さが蝶子も欲しかったのだ。それに。
「それに戻ってきたとき、春虫の顔がわからなくなってしまっていたら、嫌なの。忘れてしまうのが怖いの……」
「ええ」
知っているわ、と藤尾は静かにうなずいた。
「蝶子ちゃん。おなかすいたでしょう。寒天なら、食べれる?」
しばらくの間丸めた蝶子の背をさすってから、藤尾はおみやげに持ってきた菓子を紙袋から取り出した。差し出されたそれを、匙で一口すくって咀嚼する。しばらく粥くらいしか入れていなかった胃の腑に、牛乳と砂糖の優しい味が落ちた。それだけで、なんだか泣き出しそうになってしまう。
「藤尾さん」
「なあに」
「高桐にいさんが言ってた。アオは『はじまりの男神』をお腹に飼っているのだって。『はじまりの男神』は力のある危険な神だから、狩らなければならないと蛇ノ井御寮官は言う。でも、わたしたちはどうしても『はじまりの男神』を狩らなければならないのかな? アオを助けたいと思ってしまうわたしは、いけない?」
「蝶子ちゃん。自分がうまく答えを出せないからって、ひとに先に訊いてしまうのはずるいわね」
匙で寒天をすくいながら、藤尾が笑った。己の薄暗い胸のうちを見抜かれたようで、蝶子は俯く。
「ごめんなさい」
「別に怒っていないわよ。でも参考にならないんじゃないかしら。私は兄さんのお考えに従うことにしているから」
「御寮官の……?」
藤尾が「兄さん」というのは、無論蛇ノ井のことだ。あやかしとひととの間に生まれた兄妹。兄である蛇ノ井は、あやかしの血を強く引いているが、藤尾は外見も、性質もひとのそれに近いように感じる。唯一、うっすらと金色がかった眸を眇めて、藤尾は肩をすくめた。
「冷たいひとよ。嫌なひとだし。でも、孤独なの。本人がてんで気付いていないところもお馬鹿さんで、だから私はいつも兄さんと同じ道を行くことに決めているの」
「藤尾さんは強い」
「そうかしら。誰だってできることよ、心にひとつ、決して揺らがない芯を持てれば。きっと何だってできる。針の穴のようなどんな小さな可能性だって、見つけて切り開くことができるわ。蝶子ちゃん」
蝶子の胸にすっと指を突き付け、藤尾は微笑んだ。
――さだめは、己の力で開いてごらん。
不意に蛇ノ井の言葉を思い起こして、蝶子は俯きがちだった顔を上げる。
「藤尾さん、わたし――」
からん、と枕元に置いていた鈴がはずみに転げて、足元に落ちた。
「これってもしかして、お母様の?」
「うん。わたしたちが生まれたときに、母様が持たせてくれたんだ。わたしと春虫が対で持っていたのだけれど、春虫がいなくなったあとはわたしがふたつを持っているの」
「表面にまじないがほどこされているのね。確かに災難よけのようだわ。木の鈴?」
「確か、常野のご神体の姥桜から彫り出したって……」
説明をしながら、ふと蝶子は引っかかりを覚えて口をつぐんだ。
(そういえば、春虫がいなくなってアオが現れたのも、姥桜の下だった。そばには春虫の守り鈴が落ちていて――)
常野の祭神であり、蝶子に加護を与えた女神は、別名・木の花女神とも呼ばれ、その名のとおり桜に降りる。普段依代となるのは、御所にある千年桜のほうだったが、常野の屋敷には、御所の桜から差し木した、いわば姉妹の姥桜が植わっていた。春虫の話では、ときどき常野のほうの桜にもふらりと降りるときがあるのだという。
(そもそも同じ場所にいたのに、どうしてわたしだけ神隠しにあわなかった? あの神隠しは常野の敷地に作用していた。屋敷の中のひとも皆、さらわれてしまったのに)
偶然だと思っていた。神隠しの起きたあの日、蝶子はひとり部屋で臥せっていたから、神隠しからも見落とされてしまったのではないかと。
(でも、もしかしたら)
脳裏に閃いたのは、奇しくも蛇ノ井の呟いていた言葉だった。
(女神と『はじまりの男神』。二神は表裏一体)
姥桜の下に、春虫の守り鈴は落ちていた。おそらく春虫は神隠しのさなかに、女神を姥桜に降ろしたのだ。
(もしかして女神には『はじまりの男神』と対になる力が与えられている?)
「藤尾さん、ごめん。わたし――」
そこで一度言葉を止めると、蝶子は少し困った風に微笑った。
「やっぱりだめだね。ひとつどころか、二つも三つも手に入れたい。蝶子は根っからの欲張りみたい」
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