六章、下御森神社
1
目を覚ますと、見慣れた神御寮の格子天井が映った。
「アオ!」
蝶子はぱっと半身を起こす。はずみに先ほど打ち付けた腹のあたりに痛みが走ったが、構わず寝台から起き上がる。どうやら神御寮内の救護室で寝かせられていたらしい。狩衣と指袴を取り去り、単だけになった上に、男物の衣がかけられていた。
「蝶子。起きたか」
窓の桟に腰かけていた男が手元の書物から顔を上げる。高桐、と男をみとめて、蝶子は寝台から下りた。
「アオは? 蛇ノ井御寮官はどこにいる?」
「おい、待て。おまえ、そんななりで、どこに行くんだ」
「どいて」
立ちふさがろうとした高桐を押しのけ、白書院に向かう。
「蝶子さん!?」
蝶子の剣幕に驚いた小姓の子鼠が飛び出してきて、襖の前に立ちはだかった。
「子鼠坊主、そこをどいて。御寮官に話がある」
「だめです! 蝶子さんをお通ししてはいけないって僕……」
「蛇ノ井御寮官!」
子鼠を遮り、蝶子は声を張り上げた。
「話があります。ここをお開けください!」
「蝶子さん、やめてください。だめですってば」
「おい常野、何をしている!」
おろおろと泣き出しかけた子鼠の声を聞きつけ、門衛たちが駆けつけた。襖にすがりつく蝶子を無理やり引き剥がす。
「はなせ!」
蝶子は身をよじった。しかし非力な蝶子に太刀打ちなどできるはずがなく、みるみる白書院から離されていく。
「この、はなせってば!」
門衛の固い肩を力任せに叩き、微かに緩んだ腕から半ば転げるように抜け出す。首根っこをつかんだ門衛に頬を殴りつけられた。視界が真っ赤に染まったが、蝶子は畳に爪を立てて、襖を睥睨する。
「蛇ノ井! この卑怯者! アオのあるじは常野蝶子だ! アオをかえせ!」
暴れる蝶子を引きずって、門衛は神御寮の門から蝶子を外へ放り出した。頭から地面にぶつかりそうになったのを高桐が受け止める。
「常野蝶子」
なおも追いすがろうとした蝶子に冷ややかな一瞥を向けて、門衛は登退庁の際に蝶子が使っていた名札を投げ捨てた。
「本日をもって神御寮の御寮員たる資格をはく奪する。今後、正式な書状なくして神御寮へ入ることは叶わないと思え。蛇ノ井様からのお達しだ」
「納得がいかない。わたしが何をしたと?」
「おまえの素行は御寮員に値しないと、三御寮官すべてが同意した。先ほど御寮会議で決定したことだ。覆すことはできない」
蛇ノ井だけではなく、鳥野辺、亀山田の押印が並ぶ書状を突き付けられ、蝶子は一時口をつぐんだ。
「アオを……どうするつもりですか」
「それはこれから三御寮官の合議によって決まる。ただし、おまえには関係のないことだ」
「関係ない? アオはわたしが名付け、降ろした化生です。それを関係がないと仰るのか」
「おまえたちの身柄はこの神御寮預かりであったことを忘れたか。三御寮官が関係ないと判じたのならば、おまえは従わねばならない。わかったら、去れ」
「お待ちください!」
追いすがった蝶子の目の前で、神御寮の扉が閉められた。分厚い木戸を叩くが、それきり返事は返らない。内側から鍵をかけられたのか、体当たりをしても無駄だった。
「卑怯者! 出て来い! 蝶子の前に出て来い!」
「蝶子、落ち着け。いい加減にしろ」
こぶしを打ち付けようとする蝶子の腕をつかんで、高桐が諭す。
「だって!」
蝶子は常の口調も忘れて、叫んだ。
「だって、アオが常野丸で斬られてしまった。二度も。二度もだよ、高桐にいさん。放っておいたら死んでしまう」
「蝶子」
途方に暮れた様子で、高桐は狩衣の上から蝶子を抱きしめる。
「落ち着け。そんなに叫んで暴れたら、おまえのそのもやしみたいな身体のほうが先に参っちまう。介抱はもう御免だ」
子どもをあやすようにかぶりに触れて、目元に大きな手のひらを置かれると、ぽろぽろとこらえきれなかった涙がこぼれ落ちた。
「いやだ……」
蝶子はとうとう泣き出した。
「こんなのはいやだよ、にいさん。アオをたすけて」
高桐の胸に顔を押し付け、子どもに返ったかのようにしゃくり上げる。ああわかった、わかったから、と高桐は弱りきった顔をしてしばらくの間、蝶子をあやし続けた。
*
それからしばらく、蝶子は発熱と嘔吐を繰り返した。もともと虚弱体質の蝶子ではあったが、こんなに苛烈なものは初めてで、うなされているのか、吐いているのか、記憶も意識も混濁して、今度ばかりは本当に精根尽きてしまった。
数日ほど床に臥していただろうか。何とか起き上がれる程度に熱が下がって、ぼんやりと褥を見ると、下のあたりが微かに血で汚れていた。
「月のものね」
付きっきりで蝶子を看病していたウグイスが特段驚きもせずに言った。仕事柄、あまり珍しいことではないからだろう。むしろ、蝶子のほうの反応が鈍かったくらいだ。
「つきのもの?」
「蝶子は遅かったけれど、やっと来たのね。道理で、体調がめちゃくちゃだったわけだわ」
得心がいった風にうなずき、ウグイスは蝶子の額に手をあてた。
「少し休みなさいな、蝶。いろんなことがあって、あなたは疲れてしまったのよ。今まで走り通しだったのだもの。少しくらい休んだって誰も文句は言わないわ」
ウグイスに促されるまま、蝶子はとろとろと目を閉じた。確かに、なんだか疲れてしまっていた。ただでさえ、微熱があるのに加え、重苦しく凝るような下腹部の痛みは蝶子の気分をいっそう滅入らせた。アオを奪われ、神御寮を追い出されて、すべての寄る辺を失くしたとたん、急にしおらしく女になってしまう自分の身体が嫌だった。自分そのものにも裏切られたような気分になったのだ。
少しすると、見舞いの果物を持って高桐がやってきた。血の穢れがある間は控えていたようだが、蝶子の体調が落ち着くのを見はからって顔を出したらしい。
「結論から言えば、『はじまりの男神』はアオの腹にいたらしい」
高桐は蝶子に向き合うと、そう言った。
「どういうこと……?」
「理由はわからんが、『はじまりの男神』はアオの腹にいて、眠っているらしい。御寮官付から聞いた話だから、たぶん嘘じゃないだろう。今、アオは神御寮の牢の中にいて、御寮会議で処分する旨が決まった」
「そう……」
蝶子はぼんやりとうなずく。神御寮を追われたあの日以来、蝶子の感情はどこか希薄になってしまっていて、本来なら怒り、驚き、憤るような話ですら、夢うつつに聞くばかりだった。
「しかし『はじまりの男神』は、容易に取り出せるたぐいのものではないらしい。まったく、神を化生が喰らうなんて前代未聞だぜ。蛇ノ井の奴が言うには、狩りのためには相応の準備が必要で、『あちら』と『こちら』が繋がりやすい春分の南中時に行うという話だった。……まあ、おまえには関係のない、世間話だが」
高桐はこの「まあ、世間話だが」という文句を端々につけることを忘れなかった。高桐なりに、『一般人』の蝶子に神御寮の情報を流していることへの折り合いをつけているのだろう。
「おい、蝶子。おまえ、聞いてるのか。あれほど、アオを助けてって言ったくせに、他人事みたいな面をしやがって」
さっぱり反応を返さなくなってしまった蝶子に苛立った様子で、高桐が呟く。
「蝶子」
肩を強くつかまれて、蝶子ははじめて高桐に目を合わせた。小さく首を振り、目を伏せる。それきりうずくまってしまった蝶子に、高桐は「わかったよ」と嘆息した。
「今のおまえなら、俺が嫁に来いと言ったら、たやすくうなずくんだろうな。だが、あいにくと俺はひねくれているんだ。首を横に振る女を落とすことに命をかけているから、そんなつまらない勝負はしないさ」
そのように言うと、蝶子の細い肩に袢纏をかけて、出て行った。
(ごめん、高桐)
庭を横切る高桐の背を窓越しに見送り、蝶子は抱えた膝を引き寄せた。どういう風の吹き回しか知れないが、高桐は神御寮ではなく、蝶子のほうに肩入れをしてくれているらしい。
(おまえがどうにかしたいなら、手伝ってやらなくもない)
言葉にこそしないものの、高桐の目はそう告げていた。高桐は御寮員としては一流で、神御寮の内情にも通じている。味方にすれば、心強いことこの上ない。けれど、蝶子にはわからなくなってしまった。
(『はじまりの男神』は五十年前の渡りで、十町の土地と人間を持って行った。蛇ノ井御寮官の言うとおり、もし『はじまりの男神』を何かの理由でアオが食べてしまって、腹に棲まわせているのだとしたら、ひとにとっては脅威でしかない)
蝶子はアオを助けたい。たとえ十町を犠牲にしたってアオに生きていてほしいと思う。けれどそう考える蝶子を、御寮員であった蝶子が責め立てる。
(それじゃあ蝶子は十町の人間が春虫と同じ目にあってもよいというの? 残された家族は? 何より、アオを名付けて、この地に降ろしたのは蝶子なのよ? もしかしたら、春虫たちだって、アオの腹に棲んでいる『はじまりの男神』のせいであちらに飛ばされてしまったのかもしれない)
目を背けたくとも突きつけられる、それは恐ろしい推測だった。蝶子は春虫たちをさらった元凶であるあやかしを助け、降ろしてしまったのかもしれない。
(アオはどうしてわたしに従ってくれたのだろう)
はじまりの男神を探す蝶子を、どんな思いで見つめていたのか。興味か、憐れみか、滑稽さに笑っていたのか、それとも痛ましさくらいは感じていたのか。あるいは、そのような複雑な感情をあやかしに求めること自体がおかしいのだろうか。
(わたしは、どうしたらいいの)
蝶子は寝台にうずくまったまま、抱えた膝をぎゅっと引き寄せた。
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