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「いやはや、困ったことになりましたねえ」
蛇ノ井は円卓に頬杖をついて、
その場にいなかった蛇ノ井に事の次第を説明した鳥野辺は、重い息をついた。
「何がしか要求があるとは思っていたが、よもや化生斬りを指定してくるとはな。予想外だった」
「え、えー、ですが、えー、下御森が化生斬りを持つことには、えー、意味が」
「無論、化生斬りを持つこと自体に意味はあるまい。一本化生斬りを手に入れたところで、神御寮はほかに何本もの化生斬りを所有しているからな」
「それでは、えー」
「御社は、常野丸のすべてを、と言った。意味は理解できるな? 常野」
鳥野辺に矛先を向けられ、蝶子は不承不承、顎を引いた。協議からの帰りに、その点については、蝶子も考えた。常野丸はあるじ以外を寄せ付けない。蝶子がそう進言すると、御社様は、蝶子が常野丸のあるじかと問い、最後に常野丸のすべてが欲しいと告げた。
「つまり、アオもともにということですね?」
思い切って口にすると、鳥野辺は苦々しげな顔つきをした。アオのほうはというと、ある程度察しがついていたのか、それともはなからあまり興味がないのか、いつもの淡泊な表情で常野丸を見つめている。
「化生の身で化生を斬ることへの報復か。結局は化生と化生の交換だな」
「ですが、御寮官。アオを下御森に差し向けることは、承服しかねます」
「常野」
鳥野辺が低い声で応じる。即座に怒鳴り返されると思っていた蝶子には少々意外でもあった。
「では、要求を突き返し、協定を破棄せよと?」
「いいえ。そうは申しません。下御森神社へは代わりに、常野丸とともにわたしを差し出してください」
「……どういう意味だ」
鳥野辺はいぶかしげに眉をひそめた。表情の濃淡はあったが、亀山田や蛇ノ井も同様の顏をしている。
「確かに、常野丸を携えているのはアオですが、父より春虫、春虫よりかの妖刀を受け継いだのはこの常野蝶子。刀のあるじは、常野蝶子と言っても間違いではありません。よって、下御森の要求を違えたことにはなりません。そして」
蝶子は一歩、前へ進み出た。
「下御森のヒルコは、従順に神御寮にとどまるつもりはないでしょう。好戦的な性格から考えても明らかですし、下御森が自らヒルコを差し出すと言ったのも不可解です。常野丸を手に入れることが下御森にとってどのような意味を持つのかは判断がつきかねますが……、これは友好の証というより、宣戦布告と取るべきかと」
「うんうん。その点はわたしも同意するねえ。だって、あの女、鬼女の目をしていたもの。ありゃあ、友好を確かめに来た女の顔じゃないねえ」
会合には同席しなかったはずなのに、いったいどこからうかがっていたのだろう。くつくつとおかしそうに蛇ノ井が嗤った。
「しかし、蝶子くん。アオくんの代わりに君が行ってどうするんだい。君は、化生斬りを扱うこともできないのに」
「まず、ひとつとして、相手の思惑がわからない以上、要求どおりの条件をのむのは避けるべきだからです。アオと常野丸を一緒に渡してはならない。もうひとつは、わたしの身の特性です。御存じのとおり、女神の加護を受けたわたしの身体は神霊にとっては食物となる。すぐに殺されるとは思えません。交渉の切り札にもできます」
「さあ、それはどうだろう。殺さない程度に痛めつけて閉じ込めるくらいはすると思いますよう。わたしが下御森だったらそうする。拷問の方法なんざ、いくらでもありますからねえ」
箸の切っ先を蝶子の首筋に突き付け、蛇ノ井は咽喉を鳴らした。
「蝶子くんが思いつかないくらいのひどいことをされるかもしれない」
「それでも、アオを差し出すよりはましです」
「そうさね。そう言うだろうね。君は万緑譲りのやさしい子だから、蝶子くん」
「蛇ノ井御寮――」
口にしているさなか、箸の切っ先が蝶子の首筋を引っ掻いた。顔をしかめてあとずさる。箸を滑らせた蛇ノ井の手が、円卓に置かれていた常野丸を取った。
「蝶子」
それまで黙っていたアオが初めて声を上げる。アオの腕がとっさに蝶子の身体を引き寄せた。――ちがう。化生斬りは、ひとを斬ることはできない。
「アオ!」
気付いた蝶子が身をよじる。けれど、一瞬。そう一瞬、遅かった。
「ついにこのときが来てしまったようですねえ、蝶子くん。アオくん」
蛇ノ井はアオの腹から常野丸を引き抜いた。貫かれた腹から鮮血が噴きこぼれる。思わず膝をついたアオに、蛇ノ井はさらに常野丸を突き立てた。
「御寮官!」
蝶子はとっさにアオを庇うようにして身を投げ出し、九字を切った。編み上がった結界は蛇ノ井を捕えようと迫ったが、ひらりと手を振られただけであっさり霧散する。
「このわたしに九字を切るとはいい度胸をしているねえ、蝶子くん。わたしがひととあやかしの混血と知っての狼藉かい?」
「っ」
金の濃くなった眸を眇めて、蛇ノ井はきひひと嗤った。
「あなたがなんだろうと、アオに手出しはさせません」
「うふふ、そこで泣かずに睨みつけてくる蝶子くんは、可愛いと思いますよう。わたしとしては君たちをもう少し『観察』していたかったけれど、残念だねえ。そろそろしまいだ」
蛇ノ井の顔が近付いて、蝶子の額を弾く。意識が急激に遠のくのを蝶子は感じた。
「だめだ……」
蛇ノ井が持っている常野丸に手を伸ばす。きつく握り締めると、錆びついた刀身が手のひらに食い込む感触があったが、その程度ではとどめることができず、やがて蝶子は暗闇の深淵に落ちた。
*
「まったく父親に似て諦めが悪いんですから」
絨毯の敷かれた床にぐったりと転がった蝶子を見下ろし、蛇ノ井は肩をすくめた。その前には、腹を押さえてうずくまるアオがいる。
「蝶子をどうするつもりです」
「どうもしないさ。しかしたいしたものさね。常野丸を二太刀受けても消滅しないとは」
蛇ノ井は自嘲気味に口端を歪めた。
蝶子が離れたところにいるのが心もとない。引き寄せて、心臓が脈打ち、血が通っていることを確かめたかったが、這い上がってくる吐き気にも似た激痛のせいで、動くことができなかった。アオは胃の腑からこみ上げてきた血まじりの体液を吐く。口元を押さえた手は変化が解けかけて、醜い青虫化生の前脚に戻りつつあった。
「これはいったいどういう了見だ。蛇ノ井御寮官」
意外にもアオを庇うように前に立ったのは、鳥野辺だった。
「どうもこうも、あなたの処分論支持にわたしも回っただけですよう。観察した結果、やはりアオくんは生かしておけないという結論に達しました」
「しかしこれは……」
「おやおや。おかしなことだ。五年前はあれだけ声高に処分を唱えていたあなたが。五年のうちに情が沸いてしまいましたか? アオくんが忌むべき化生には見えなくなってきてしまった?」
「蛇ノ井」
「まったくこれだから、独善的で、感情的で、人間は面白い」
肩をすくめ、蛇ノ井はさらに三太刀を振り下ろそうとした。しかし直前で、感電でもしたかのように刀を離す。常野丸が哭いていた。
「三太刀はさすがに無理ですか。妖刀は愛情深くていけない」
常野丸を握っていた蛇ノ井の手のひらは爛れ、火傷を負ったかのようになっている。哭き出した常野丸の柄を靴底で踏みつけると、蛇ノ井は床に落ちていた鞘に刀身をおさめた。
「アオくん。わたしもね、一瞬蝶子くんの意見を聞いてもよいかとさっきぐらついたんですよ。だけど、やっぱりだめだ。何故なら、下御森が求めているのは、アオくんそのもので、君の存在自体が我々に対する脅威でもあるから。常にひとの利を選び取る神御寮としては、見過ごすことはできないねえ」
「どういう意味だ。下御森が求めているのは常野丸では……」
尋ねた鳥野辺に、蛇ノ井は首を振った。
「常野丸はアオくんを釣るための添え物ですよ、鳥野辺御寮官。蝶子くんはそのあたり、鋭かったねえ。確かに、下御森にアオくんと常野丸を渡してはならない。何故なら、下御森が求めているのはアオくんだから。正しく言えば、アオくんのその、腹の中に棲んでいるものかな」
やっぱり取り出すことはできなかったか、と残念そうに言って、蛇ノ井はアオの前にかがんだ。
「そうだろう、『はじまりの男神』?」
その呼び名に、腹のうちがひとつ脈動した。
鳥野辺が眉根を寄せる。
「……はじまりの男神、だと?」
「わたしも気付いたのはつい先日ですよ。行方知れずとなっていた女神と対となる男神、『はじまりの男神』はどうやらアオくんの腹に眠っているらしい。青虫化生は飢餓が業と言いますがねえ、神まで食すとは悪食に過ぎるってもんです」
「しかし、どこにそんな証拠がある?」
「化生斬りを二太刀受けても、存在を保っていられること自体が証拠ですよ。それに、化生たる常野丸が同じ化生であるアオくんに従うわけがなかったんです。相手が自分より格上の神であるから、従ったんですよ。あとは、アオくん。君は、真野の大神の牙毒から蝶子くんを救いましたね?」
「それはしかし、常野の血が、」
「鳥野辺御寮官。蝶子くんの血肉はあくまで、神霊に働くもの。ひとの身たる蝶子くんに作用することはありません。ですが、はじまりの男神は違う。違うといいますか、はじまりの男神は、万物をあちらにつなげることができる。蝶子くんの身体に回った真野の大神の毒をあちらにつなげて還したのはアオくんです。そうでしょう?」
蛇ノ井の視線をアオはただ這い蹲ったまま睥睨する。
「ですが、何故?」
金を帯びた眸に滲むのは、純粋な好奇心のようだった。蛇ノ井は奇異なものを見つめるかのように、小首を傾げた。
「化生に感情がないとは言いませんが、ひとのそれより、単純で、短絡的で、あられもなく、欲望に忠実です。名付け親を助けるために、はじまりの男神の力を使う? 意味がない。そんな義理だとか、忠義だとかいった感情は、化生は持ち合わせていません。現に君は今――」
蛇ノ井の丸い目がすっと細められた。
「蝶子くんを食べたくてしょうがない」
胃の腑を締めあげるような激痛が押し寄せる。
そう、アオは知っていた。これは腹に受けた傷のせいではない。飢えだ。強烈な、いじらしいまでの生存本能、化生としての欲求。一度に大量の血肉を失ったアオの身体は切実に、食事を求めていた。そうしなければ、己の生命が脅かされることを知っていたから。
(たべたい)
蝶子の血肉は、あまい。
淡く花の香りがして、啜るとぬくもりが胃の腑に満ちる。蝶子はいつも、何度でも、アオに血肉を与えてくれた。胃の腑がねじれるような飢えはつらく、苦しく、身体が底から凍える心地がする。なのに、そういった凍えは蝶子の血肉を啜っている間は溶けて、代わりにあたたかなもので満たされるのだ。
(たべたい)
(たべたい。ちょうこが、ほしい)
知らず、アオは倒れた蝶子のほうへ手を伸ばしていた。手首をすくい上げると、常野丸を握ったときにできたのだろう、新しい傷口からうっすら血が滲んでいる。唇をつけると、甘い香りがくゆった。
(たべたくない)
この手がアオを守ろうとしてくれたのを知っている。いつだってそうなのだ。蝶子はとても小さな背中でアオを庇おうとする。彼女には何の得にもならないのに、それで、飢えのひとつも満たされるわけではないだろうに。
(たべたくない)
(たべたら、ちょうこを、うしなってしまう)
「ああ、そういうことですか」
蛇ノ井が、不意に得心がいったように呟いた。
耐えきれず啜ると、飢えた胃の腑が歓喜に震えるのがわかった。それなのに、どうしようもなくかなしくなってしまって、握り締めた手のひらに額を擦る。咽喉から呻きともつかない引き攣れた嗚咽が漏れた。
「アオくんは、蝶子くんを愛してしまったんですね」
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