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春例祭に先立ち、旧玉垣神社では真野の大神の魂鎮めがもよおされた。崩れた神楽殿が片付けられたあとの更地に、四本の榊を立て、髪に花挿をつけた藤尾が魂鎮めの神楽を舞う。
「藤尾さんの舞はいっとうきれいですね」
花挿をつけたぬばたまの髪がかそけく揺れるたび、東から射した光がさんざめくかのようで、蝶子は目を細めた。しかしながら蝶子の隣に座った男は、そんな藤尾の舞などさっぱり目に留めず、不機嫌面を顔に張り付けている。
「鳥野辺御寮官」
蝶子は嘆息した。
「その眉間の皺、どうにかならないんですか。鎮まるものも鎮まらなくなります」
「偉そうな口を利くんじゃない。おまえは黙って見ていろ。ただでさえ気分が悪いんだ」
その上おまえと話すなど、ということか。苛々とこめかみを押さえた鳥野辺に肩をすくめ、蝶子は断って一時席を外した。桟敷から離れ、饗応の茶や菓子を用意している奥間に顔を出す。白湯を一杯いただいて、修復中の本殿の柱に背を預けるアオの隣に立った。
「状況はどう?」
「変わりません。儀式の間は動く気配はなさそうですね」
賓客の席に座ったヒルコ、それに白い布で顔を覆った小柄な影――『御社様』をうかがって、アオは答えた。ふたりは鳥野辺からは離れた桟敷に悠然と座っている。
下御森神社から、神御寮が申し入れていた協議に応じるとの回答があったのは数日前のことである。協定の義務条項にある山門の常時開門を破り、示威行為を続けていた下御森神社であったが、文を返すと同時にいったん山門を開いた。
協議の日取りとして下御森神社が指定したのは、本日未八つ半。場所については、反対に神御寮が選んだ。下御森神社とも神御寮のある御所からも離れている旧玉垣神社は、両者の会談にはちょうどよい。
両者の協議は、真野の大神の魂鎮めのあと引き続いて行われる予定だ。神御寮の代表としては、御寮官の鳥野辺、下御森神社側の代表はヒルコ及び『御社様』。御寮員の蝶子とアオに与えられた任務は鳥野辺の護衛である。神御寮の人間はほかにも何名か駆り出されており、鳥居のほうは高桐が守っているはずだった。
「常野丸を間に合わせられなかったのは、痛いね」
ちょうどこの場所で真野の大神に砕かれた常野丸は、まだ三ツ目に鍛え直させている最中で、アオの腰には代わりの脇差が佩かれている。下御森神社との協議の場に、化生斬りの持ち込みは禁じられていたが、心もとなく感じられるのは確かだった。何しろ有事には、高桐にたびたびからかわれる『幼子程度の』蝶子の術で護身をしなくてはならない。鳥野辺の不機嫌も、このあたりに起因するのだろう。蝶子を護衛に指定したのは蛇ノ井だが、最初鳥野辺はこれをかたくなに拒んだらしい。
『いいんですよう、蝶子くんで。御寮員として名の通っている高桐くんをつければ、下御森神社側が警戒するじゃあないですか』
理由を聞いた蝶子に、蛇ノ井はいつもの真意の見えない笑みを浮かべて、そう答えた。ちなみに蛇ノ井は協議自体には参加せず、一賓客席を陣取って、のんびりと茶を啜っている。
「じゃあ、わたしは一度御寮官のところへ戻るから。あとでね」
ちょうど藤尾による神楽舞の奉納が終わった。アオと別れると、蝶子は盆に乗せた白湯を鳥野辺の前に置いた。
「なんだ?」
「頭痛の薬はお持ちで? はためにもおつらそうですよ」
鳥野辺は生来の頭痛持ちである。こめかみのあたりを指して蝶子が言うと、ふん、と不愉快そうに鼻を鳴らし、鳥野辺が白湯を取った。舞台では藤尾と入れ替わりに祝詞の奏上が始まる。
「おまえも常野神社の当代だろう。舞えるのか」
「少し習ったこともありましたが、さっぱり。わたしにその手の才能はないと、舞の師匠にも匙を投げられました」
もともと常野神社は男の春虫が継ぐ予定であり、姉である蝶子は幼い頃は巫女としての修練を積まされていた。きょうだいが男女であった場合、それぞれで神職と巫女の役割を担うのはならいである。といっても、才能云々の前に蝶子は虚弱の気があったから、当時から修練がままならない状態ではあった。何しろ、蝶子の身体ときたら、ひとさし舞っただけで熱を出し倒れるくらいだったのだ。春虫の失踪後は、代わりに家と神社とを継いだため、以来舞の扇には触れていない。
「だろうな。おまえの足さばきでは無理そうだ」
「失礼な。舞がすべてではありませんし、神霊に語りかける力はあると大巫女にも言われたのですよ」
「その大巫女は目があるな。おまえはひとより神霊に肩入れするきらいがある」
「……そんなことは、ありませんよ」
アオのほうへ自然視線を向けてしまいながら、蝶子は呟く。
「神御寮とは、ひとを守るために作られた組織だ。当然、御寮員は常にひとの側に立たなくてはならない」
それがどういうことかわかるか、と鳥野辺は言った。
「あやかしの子どもを殺した人間がいたとする。親のあやかしが振り上げたこぶしを我々はしかし、止めなくてはならない。たとえその人間が救いようのない悪党で、あやかしが誰もが認める善良な魂の持ち主だったとしてもだ」
「心得ているつもりです」
「では、春虫の件は? 諦めたのか」
「いいえ。ですが、『はじまりの男神』を見つけようとはもう思いません。別の方法を探します」
それは先日、新たに心に決め直したことだった。
春虫は大切だ。けれど、こちらにはウグイスやカササギ先生、藤尾をはじめとした蝶子にはかけがえのないひとびとがたくさんいる。彼らを危険な目に遭わせたくはない。真野の大神は、はじまりの男神の一部はこちらにあると言っていた。それを見つけ出すことができれば、春虫たちへの手がかりになるのではないか。舞殿を見据えて蝶子が告げると、白湯を口に含んでいた鳥野辺が鼻から息を吐くのがわかった。
「……素質があるよ、おまえには」
「はい?」
怪訝な顔をした蝶子に、しかし取り合うことなく鳥野辺は続けた。
「その歳で、度胸もある。機転も利く。術の才能はまったくで、体力もないが、受けた任務は必ず完遂させてきた。それが言葉ほどに簡単でないのは、俺も御寮員であったからわかっているつもりだ。蛇ノ井は好かんが、おまえは十分優秀だよ」
「御寮官。お薬に何か変なものでも……」
「だが、やはりおまえには向かない」
きっぱりと鳥野辺は言った。蝶子が身につけた狩衣を見やり、空になった茶碗を戻す。
「蛇ノ井の妹に舞でも習うか、それでなかったら嫁入り修行をしておくんだな。あと、この白湯は冷めすぎだ」
「鳥野辺御寮官」
「魂鎮めが終わった」
鳥野辺の視線の先では、祝詞を終えた御寮員が祭壇に額づいているところだった。如月を過ぎて、冬の透明さが薄れつつある蒼天から、はらりと雪が舞い落ちる。つかの間の風花だった。雲もないのに、舞殿に影が落ちた気がして、蝶子は瞬きをする。
舞殿の前に、かげろうのように銀の毛並みをそよがせる二神が立っていた。真野の大神。そして妻たる女神だろうか。二神は寄り添うように鼻面をくっつけ合うと、ゆらめきの向こうにある青々とした草原の向こうへ駆けて行った。
鳥野辺には果たして見えていたのだろうか。
たまゆらの幻を瞼裏に焼き付けると、蝶子は桟敷を立った。
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