五章、愛
1
『娘と息子を頼む』
担ぎ込まれたとき、虫の吐息であった男は息を引き取る間際にそう言った。今からちょうど十年ほど前のことである。あらぶる神を狩りに向かった六海の地で、男は重傷を負い、その傷がもとで死んだ。
蛇ノ井の年の離れた同僚であったその男は、常野
『わからないもんだねえ。だって、君は男親でしょう? ろくに会っていない娘や息子を可愛く思えるものかね』
『そりゃあ君は、あの子たちを見ていないからそんなことを言えるんだ』
肩をすくめて、万緑が笑う。
一度、万緑の形見の品である常野丸を届けに訪ねた際、男が目に入れても痛くないと言っていた娘と息子を見かけた。春のうららかな木漏れ日の下で、まるでふたりでひとつのもののようにぎゅっと小さな手を握り合っていた。蛇ノ井は
「未だに約束は守ってますよ、万緑。まったくわたしは律儀者ですよねえ」
神御寮にある執務室で、蛇ノ井は報告に目を通しつつ、氷菓に銀匙を突き刺した。口に運ぶでもなく、皿の上でただ崩していると、「蛇ノ井御寮官」と小姓の子鼠が小さな足音を鳴らして中へ入ってきた。
「おやおや、子鼠くん。慌ててどうしたんでしょ」
「下御森神社名義で神御寮宛に遣いがありました。僕が受け取ったら、すぐにいなくなってしまったのですが……」
「どれ、貸してごらんなさい」
子鼠が差し出した螺鈿細工の文箱を開く。先日山門の無断閉門に合わせて神御寮から送った申し入れの回答らしい。下御森神社の紋が入った文箱の中には一枚の書状が畳まれており、神御寮との協議に応じる旨と、日にちが指定されていた。ふうむ、と唸って、蛇ノ井は口に咥えた匙をぶらぶらと揺らした。
「鳥野辺御寮官と亀山田御寮官をお呼びしましょうか」
「そうですねえ……。いえ、やめた。その前に藤尾を連れて来なさい。あのお転婆の妹にねえ、二、三、聞きたいことがあるんです」
*
無地の指袴の上に、白檀を焚き染めた常磐色の狩衣を身に着ける。玉結びにした髪には蝶簪。登庁用の装束に着替えた蝶子は、「アオ」と窓辺で長い脚を投げ出して眠っていた男を呼んだ。
「済みましたか、蝶子」
「うん、待たせた」
うなずきつつ、蝶子はアオのぞんざいに釦の止められただけの襯衣(シャツ)の襟を直す。アオはきれいな顔をしているのに、こういうところは本当に適当だ。それでも、昔に比べたらちゃんと服を着ているだけよくなったと思うけれど。
「登庁前にひとつ寄りたいところがあるんだ」
馬車の踏み台に足をかけながら、蝶子は言った。
「どこです?」
「刀を鍛え直しにね。常野丸、折れてしまったでしょう」
腕に抱いたものを中の座椅子に置く。桐箱には、真野の大神に砕かれてしまった常野丸と鞘とがおさまっていた。蝶子とアオが乗ったことを見て取り、御者が馬に鞭打つ。
先代の常野丸を鍛えた刀鍛冶はすでにこの世を去っていたが、弟子にあたる鍛冶師が西都の裏路に住んでいた。あいにくとよく住処を変えるせいで、見つけるまでに時間がかかってしまったが、西都から出ていなかったのが僥倖だった。
「蝶子」
目的地に着いて馬車から降りた蝶子に、アオが毛織の肩掛けを差し出した。夜見世のときの袷ならばともかく、狩衣に肩掛けはちぐはぐであったが、寒がりの蝶子にはありがたい。
「ありがとう。アオは寒くない?」
「俺は平気です」
感情の薄いアオの横顔を仰ぎながら、アオはいったいいつからこういったひとらしい気遣いを見せるようになったのだろうな、と考える。神御寮の牢から連れ帰ってしばらくは、今よりさらに感情が希薄で、青虫化生の本性もむき出しで、蝶子にかろうじてわかることといったら、アオの腹が満たされているのか否かということくらいだった。
「蝶子」
目的の鍛冶屋を見つけて、アオが蝶子を振り返る。裏路に面した鍛冶屋に看板はなく、ただ煤けたひょっとこの面だけが長屋の軒にかけられていた。
「三ツ目さん。いる?」
破れかぶれの腰高障子を叩くと、あいよ、と気安い声が返る。三ツ目はちょうど畳の上で刀の手入れをしている最中だった。刀鍛冶と聞いて想像するよりもずっと年若く、齢は二十前後といったところだろうか。
「なんだ、蝶子嬢じゃねえか」
肩越しに愛嬌のある丸顔を向け、三ツ目が笑った。
「今日はどうしたい。師匠の鍛えた常野丸は元気でやってるか」
「その常野丸なんだけど……」
申し訳なさから首をすくめつつ、蝶子は桐箱を開いた。真野の大神によって噛み砕かれた刀の破片はいくつか欠損しているものもあったが、おおかた集めることができていた。それと柄に残った刀身とを差し出すと、三ツ目は難しそうな顔をして、ふうむ、と唸った。
「どう? 直せそう?」
「この三ツ目を舐められちゃあ困るね。それに蝶子嬢との頼みとあれば何なりと。とりあえず、数日くれ。考えてみる」
三ツ目は破片をひとつずつ取り上げて、蜜蝋の炎に照らして眇め見た。
「お願い。常野に化生斬りは常野丸しか伝わっていないんだ。ほかに代わりはない」
「わかっているさ。まあ、問題ないだろう。常野丸は女刀で、ことさら俺を気に入っているようだし、たぶん身を預けるさ」
三ツ目は爛れて固くなった指を愛撫するように刀身に這わせた。刀鍛冶には刀鍛冶なりの刀との付き合いがあるらしく、三ツ目は常々、鍛冶は刀とのまぐわいなのだと蝶子に語る。
「しかし、いったいなんだってこんな粉々になったんでえ。今まで刃こぼれを起こしたことはあったが、ここまでひどいのは先代以来じゃねえか」
先代とは蝶子の父親、常野万緑を指す。蝶子と同様、神御寮に勤めていた万緑は、六海の地であらぶる神を狩った際に負った傷がもとで死んだ。常野丸はそのとき一度砕け、三ツ目の先代に鍛え直されたのだった。
「大神を相手取るはめになってね。そのときに砕かれてしまったんだ」
「そりゃあ災難だったな。でも、常野丸はよくアオに懐いているよ。最初は化生が化生斬りを持つだなんて無茶かと思ったけど」
化生と化生斬りは本来、火と油、決して相入れない関係にある。常野丸に関しては女刀であり、同性の蝶子を厭うたため、アオが持つことになったのだが、最初三ツ目は無茶だと言って止めたのだった。
「化生斬りってのは、刀といっても妖刀のたぐい、いわば化生の一種だからねえ。蝶子を嫌うように、同属の化生もまた嫌うのさ。アオには不思議と従ってしまったけど。やっぱり顔かねえ」
三ツ目はため息をついて、アオのひととしては整った横顔を恨めし気に見た。
「常野丸は面食いってこと?」
「そういうことだな。ちくしょう。俺の顔じゃ、鍛冶がせいぜいか」
話題の渦中にのぼりながらも、アオは特段反応を見せず、腰高障子に背をもたせて常野丸の破片を眺めている。アオ、と蝶子が呼びかけると、視線を手元に戻した。
「今日は三ツ目さんに常野丸を預けて帰ろう。三ツ目さん。受け取りは十日後でいい?」
「あいよ。念のために、代わりの刀を渡しておくか?」
三ツ目が差し出した刀は、もちろん化生斬りの力はないごく普通の脇差だった。一度確かめるように握ってから、アオはそれを佩く。
「じゃあ、三ツ目さん。常野丸をお願いします」
頭を下げて、蝶子は腰高障子を引く。裏路から空を仰ぐと、日は南中から少し傾き始めている。今日の登庁が遅番でちょうどよかった。
裏路から神御寮のある大内裏まではそう離れていない。馬車は先に屋敷に返してしまっていたため、蝶子とアオは連れ立って表通りに出た。
「アオは屋敷のほうへ先に帰っていていいよ」
蝶子は言ったが、アオは少し顔をしかめたあと、ついてきた。
「いいの?」
「はい」
アオは無駄なことは一切喋らないし、蝶子も多弁なたちではないので、こういったときは自然と緩やかな沈黙を共有することが多い。夕風に黒髪を揺らしているアオをそっとうかがい、だけど、と蝶子は思った。
(だけど、アオはいつもより無口だ)
蝶子が目を覚ましてからというもの、アオはときどき考え込むように遠いほうを見つめていることが増えた。
(真野の大神を斬ったからだろうか)
考えると、蝶子の胸に一点の染みが広がった。じっとりと広がっていくそれを、唇を噛んで飲み込む。
「アオ」
蝶子は隣を歩く青年を仰いだ。
「なんですか」
「わたしに言いたいことはない?」
「蝶子?」
アオを仰いで、蝶子は少し背伸びをした。薄い唇に指を触れさせ、なぞるようにする。蝶子はアオに右手のかさぶたを破って血を啜られてもよいような、そんな気持ちがしていたのだけれど、アオは蝶子の小さな手のひらを何故かそっと握り締めてくれた。
手を繋いで歩き出す。蝶子は瞬きをして、アオを見つめた。それから、俯きがちにふわりと笑みをこぼして、少し体温の低い手のひらを握り返す。
(食べたくない)
そのとき、アオは祈るような気持ちで思っていた。
(蝶子を食べたくない)
昼下がりの大路に、重なり合ったふたつの短い影が伸びる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます