5
広間を出て、降りてきた階段とは異なる廊下を走る。前を走る子どもよりもよっぽど早く息が上がってしまって、蝶子は胸を押さえた。膝からくずおれそうになったのを子どもの細腕が支える。
「おねえさん、大丈夫ですか?」
「ごめん。もとから、ひよわなんだ。大丈夫」
小さな手に引かれて、空き部屋に入る。光源は外に並んだ洋灯だけのため、中は暗い。蝶子は座り込んで、仮面を取った。ついでに、きつい襟の釦もいくつか外してしまう。淑女としてははしたないが、相手は女児であるようだから、まあよいかと思った。壁に背を預けてしばらく静かにしていると、呼気は徐々におさまってきた。
「助けてくれて、ありがとうございました」
「ううん。わたしも、助かった。よく怒られるんだ、おまえは考えなしの鉄砲玉だって」
「一緒にいたお兄様に?」
「見てたの?」
「お姉さんは、とても目を惹きますから」
美丈夫と噂される高桐ならともかく、蝶子のほうが目を惹くというのはどういうことだろう。不思議に思ったが、ひとまず別のことを尋ねた。
「あなたは?」
「わたくし?」
「ひとりで来たの? 家のひとは?」
「親は……」
仮面をつけたまま、少女はためらう風に視線を下方へ落とした。
「親はもういないんです。今日は御付の者が一緒に来てくれました」
「そうか。じゃあ一緒だ」
「一緒?」
「わたしも、両親がいないんだ。弟とも離れ離れになってしまって。今は友人と一緒に暮らしている」
アオのことを友人と言ってよいかはわからなかったけれど、それ以外にたとえる言葉もなく、蝶子は説明した。そうでしたの、とうなずく少女の声が、先ほどよりも少し和らいだことに気付く。
「おねえさんのお名前を聞いてもよろしくて?」
「蝶」
「蝶。私は白(ハク)と申します」
お互いに苗字は名乗らない。ここはそういった場所だからだ。
「蝶は、おいくつ?」
「十五」
「何をしているひと?」
「うーん、普段はお掃除やお祈りかな」
苦笑して、蝶子は白を見つけた。
「白は? 普段は何をしているの?」
「わたくしは……」
ゆるりと首を傾けた白が不意に頬を抑える。
「白?」
「ごめんなさい、平気。くすりが、きれた、だけ、」
途切れ途切れに言って、白はうずくまった。額に脂汗が浮いている。抱き寄せると、小さな身体が小刻みに震えているのがわかった。
「大丈夫? おつきのひとは?」
「たぶん、もうすぐ……」
「――シロ様」
折よく戸口から男の声がかかった。逆光になっているせいで顔はよく見えないが、雰囲気からすると、白の御付のひとだろう。
「白の家のひと? 白の具合が悪そうなんだ」
「こちらへ」
短くうなずいて、男は白の身体を抱き上げた。その腕が、ナンテンと似た木肌を宿していることに蝶子は気付いたが、目を細めただけで指摘はしなかった。男もまた、一時うかがうように蝶子を見つめる。
「シロ様がお世話になりました」
深々と頭を下げて、男が立ち上がる。蝶子の二倍近くはあろう巨体をかがめて扉をくぐる。ぺたん、ぺたん、と次第に遠ざかっていく足音を蝶子は見送った。
「蝶子」
やがて現れた高桐は、何故か襟を少し乱していた。またいつもの女癖が出たのかと呆れた顔をする蝶子に、「馬鹿。いちおう仕事だ」とむっとしたように鼻を鳴らす。
「おまえこそ、見ないと思ったら何をしていたんだ」
「別に、少し女の子を介抱していただけ。それで? 何か見つかったのか」
「ああ。見ろ」
高桐は胸から三角包に取り出し、蝶子の手の上に乗せた。開くと、洋灯の薄明りにも白い粉がきらきらと光っているのが見て取れる。問いかけるような視線を投げた蝶子に、「夢見草だ」と高桐が告げた。夢見草は、十数年前に西欧から大量に輸入され、都市を中心に流行した。だが中毒性が高く、身体を壊す者が次々に現れたため、今は禁じられて久しい。
「まさか密輸……?」
「だろうな。まあそんなのは、神御寮の管轄外だ。都察院あたりに任せておけばいい。問題は、取引相手さ」
「見つけたのか」
「ああ。皆川商会の御令嬢を誘惑したら、ぺろりと吐いた。夢見草の大得意先っていうのが、何でも下御森神社なのだと。夢見草には痛みを和らげる効能がある。おそらく下御森の『御社様』は何らかの病にかかっているんじゃないか?」
蝶子は手の上に乗せた三角包に顔を近づける。微かに饐えたにおいは、あの女児――白からくゆったものと同じだった。
*
ヒルコは走っていた。蛙化生であるヒルコの走り方は駆けるというよりは飛ぶというものに近い。それでなくても、歓喜と興奮のあまり、跳ねて踊り出したい気分である。自然、鼻歌を口ずさみながら、ヒルコは下御森神社の石段を数段飛ばしで駆けあがり、「御社様、御社様!」と御社様の御座所である奥宮にたどりつく前から連呼して、中へと転がり込んだ。
「御社様! やりました、やりましたぜ! 俺あ、やりました! 見つけたんだ!」
本殿の中を跳ねて、宙返りをし、「やりました!」と何度も叫ぶ。ヒルコは崇拝する御社様に褒められたくてたまらなかった。
「騒がしい。御社様は、先ほどお帰りになったばかりだ」
御社様の両脇に並んだ半神半獣の八部衆がぴしゃりとヒルコを叱りつける。しかしヒルコはひるまなかった。歓喜はヒルコの身体を隅々まで満たし、跳ねてでもいないと、八部衆であっても頭から丸のみしてしまいそうだ。
「ヒルコよ」
先ほど帰った、というのは真らしい。いつもの小袖に袴の姿とは異なる洋装をした御社様が、ヒルコを見下ろした。頬を撫でた御社様に、側付の樟化生が白湯と夢見草を渡す。御社様は忌々しげな顔をしたのち、それらを飲み下した。御社様の右半身は、常時鋭い痛みを発しているため、夢見草を使い痛覚を鈍らせて、かろうじて座することができるのだ。
「夜見世の件は、ナンテンから聞きました。現れたのは真野の大神のほうだったそうではありませんか」
「おうよ、御社様」
「よもや、それをわたくしに伝えにきたわけではないでしょう」
「ちがう、ちがう。真野の大神のことなんか、どうだっていい」
早く先を話したくて仕方がない。宙返りしながら苛々と言って、ヒルコは中央に座す御社様の前にぴょん、と着地した。
「俺あ、見つけた。見つけましたぜ、御社様。あなたの呪われた右半身を戻す方法を。『はじまりの男神』さ。『はじまりの男神』だよ。俺あ、鼻が利くからね。隠れていたが、やっとぴんときた。はじまりの男神を見つけたのさ!」
思い出すと、涎が滴り落ちる。胡乱げな顔をしていた八部衆が一様に息をのむのがわかった。気分がよい。ヒルコは舌なめずりをして、自分が唯一丸のみをするにはもったいないと思っている御社様――白の前で事の次第を語り始めた。
*
「カササギ先生」
片付けをしているさなか、不意に思い出すことがあって、ウグイスは梅飾りのついたかむりをことんと傾げた。
「そういえば、以前先生の仰っていた『先生もどうにもできなかった患者さん』って」
「ああ、よく覚えていたね、ウグイス」
猫背の先生は、ウグイスの緑褐色の髪をいつものように撫ぜて悲しそうに微笑んだ。
「化生斬りに母親ごと傷つけられた子でね。僕にもこればっかりはどうにもできなかった。彼女はまだ赤子であったのに」
「その子は今?」
尋ねたウグイスに、カササギ先生は静かに目を伏せた。
「今は、下御森神社にいるはずだよ」
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