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「蝶子! 起きろ!」


 耳朶を引っ張られ、突如大声で怒鳴られる。驚いてアオの肩からずり落ちそうになったのを、背中に回された腕が支えた。見れば、いつの間にかアオは起きていて、目の前には高桐が立っている。しかも、いつもの狩衣の仕事着ではない、燕尾の正装だ。


「やっと起きたな、蝶子。いったい俺に何度呼ばせるんだ」

「……おまえ、いつ来たんだ? あとその恰好、何?」

「ついさっきだよ。戸を叩いても誰も出んから、窓から忍び込んだ。ああ、いいところに気付いたな」


 いいところ、というのは恰好の話らしい。何故か自慢げに胸を張り、高桐は胸から招待状らしい封筒を差し出した。宛先は、虫ノ井子爵とあり、差出人名には皆川商会と書いてある。微かに覚えがあって、蝶子は眉をひそめる。


『皆川商会からいただいた、特製の卵糖』


 細い指先がざらめのついた卵糖を摘まむ姿を思い出して、「あ」と呟いた。それに、虫ノ井という宛先。


「まさか、蛇ノ井御寮官?」

「そうだ。虫ノ井ってのは、御寮官の餌まき用の偽名さ。皆川商会は、あやかしとも取引のある会社でな。ひそかに調査を進めていたんだが、そこで今日の夜会にお招きを受けたというわけさ」

「それで、おまえが?」

「ああ。何でも、人間だけでなく西国のあやかしたちも、『あるもの』を求めてやってくるらしい。たとえば、下御森神社とかな」

「下御森がか」


 とたんに、蝶子は表情を鋭くする。


「……高桐、」

「来るか、蝶子」


 まさしく申し出ようと思っていたことを先に言われて、蝶子は目を瞠る。こちらの考えることなど御見通しだという顔で高桐は肩をすくめ、蝶子の手首を恭しげに取った。


「ただし俺の許嫁としてだ、『蝶ちゃん』。それでいいってんなら」

「行く」


 うなずいた蝶子に、「そう来なくちゃな」と高桐は愉快そうに口端を上げた。


 *


 皆川商会は、五十年前に開かれた港を中心に活動し、西欧諸国との貿易によって巨利を得たいわゆる新興華族だ。かつての世襲制度が徐々に変容する中、皆川をはじめとした富でもって家名を買う華族も増えた。


「それにしても、御寮官の嗅覚は相変わらずだね」

「まったくだ。おそらく『虫ノ井』だけじゃないぞ、あの方が網を張っているのは。百の偽名があると言われても俺は驚かんね」


 肩をすくめた高桐は、瓦斯灯のほのかな明かりを受けた蝶子を見つめて、咽喉を鳴らした。


「悪くないぞ、蝶子。ちんちくりんが、よく化けてる」

「ちんちくりんが余計だよ」

「褒めているんだからいいじゃないか」


 蝶子は今、高桐の正装に合わせた西欧風の礼装(ドレス)を着ている。行く、とうなずいたとたん、高桐に引っ張られ、大路の貸し衣装屋に連れて行かれたのだった。妙齢の女性には少し乳や尻のあたりが足りませんねえ、と恰幅のよい店主に失礼なことを言われて、結局少女用の礼装を渡された。当世流行りの長洋袴スカート輪骨パニエでふんわり膨らませたもので、手首までを覆い隠す袖や首をぴったりと覆う襟が普段狩衣や小袖しか着ない蝶子には煩わしい。


「腰が苦しい。あと、下がひらひらして逆に歩きづらい」

「文句ばっかりだな、おまえは」


 失笑して、高桐が招待状を門衛に見せる。皆川商会の印を確認した門衛は、中へふたりを案内した。招待状で入れるのは二名までだったため、今日はアオは置いてきていた。案内役の老爺について、階段を下っていく。夜会は地下で催されているらしく、いかにもきなくさいな、と高桐が呟いた。


「……新さん。そういえば、この間は、ありがとう」


 『虫ノ井』名義で入っている以上、高桐をそのまま呼ぶわけにはいかないので、名前のほうを蝶子は呼んだ。


「この間?」

「薬を探してくれたって、ウグイスから聞いた」

「結局見つけられなかったがな。さすがにあれは肝が冷えた」


 頬を歪めて、高桐が呟いた。


「なあ、蝶子。いい加減、おまえ俺のところに嫁に来ないか」


 案内役の老爺が離れたのを見取って、高桐が囁いた。


「何を突然」

「突然じゃあないさ。親もうるさいと言っていたろう。今回の件でよくわかった。さっさとおまえを娶ってしまったほうが、俺の気は数倍楽だ」

「高桐は、わたしが好きなわけではないでしょう」


 蝶子はすげなく苦笑する。無論、家と家の間の婚姻である。個人の感情は入る余地がない話であるが、蝶子が言ったのは急ぐ必要がないという意味である。蝶子を娶らなければ、高桐も今までどおりあちこちの姫君の間を渡り歩いていられる。


「好きだよ」


 てらいもなく高桐は言った。


「……それは女として?」

「どうだろう。蝶子はまだ女ではないようだから」


 高桐の手のひらが蝶子の頬に触れる。幼馴染だからこそ許されるあけすけな物言いに、蝶子はそれでも少し頬を赤らめた。幼い頃から臥せりがちで、外で遊ぶことも少なった蝶子は同年代の少女より小柄で、十五になってもまだ初潮を迎えず、少女とも少年ともつかない身体つきをしている。高桐との結婚が進まないのも、蝶子の体質が一因にあった。


「まあいい。早く大人になれ、蝶子。おまえは今はちんちくりんだが、美しくなるぞ。母君もそうだったから」


 高桐はくしゃくしゃと子どもにそうするように蝶子の髪をかき回す。そうすると、許嫁というよりやっぱり幼馴染の『高桐にいさん』という気がしてきてしまうのが高桐の奇妙さだった。蝶子の目から見ても美丈夫で、御寮員としての力もあり、家柄だって高い。数多の姫君との間に浮き名を流しつつも、何故かひとところにとどまらないのが高桐というひとだった。

 蝶子が思うに、高桐はやさしいのだ。良くも悪くも、大勢に対して。おそらく、先日の御寮会議で伝えられた内容は、高桐の耳にも入ったにちがいなかった。嫁だのなんだのというのは、高桐なりの気遣いだ。蝶子が望むなら、神御寮をやめたってよいという。――だから。


「ありがとう、高桐。でも蝶子はまだやれるよ」


 朝ウグイスに言ったのを同じ言葉を蝶子は繰り返す。強がりには違いなかったが、今度はもう少し覚悟の座った言い方ができたと思う。


「虫ノ井様、こちらです」


 案内役の老爺に促されて、顔を上げる。階段の先に広がっていたのは、百人以上は入れるだろうという大広間だった。洋灯がそこかしこに灯っているため、昼間のように明るい。


「どうぞ、これを」


 老爺が差し出した紙製の仮面を手に取る。中にすでに集まったひとびとも皆、顔を半分ほど覆う仮面をつけていた。これでは声を聞かなければ、誰かもわからないだろう。同時にあやかしが混じっていても、すぐには判別がしづらい。


「つけるつけないはお客様のご自由ですが、当方で責は負いかねますので」

「ああ、わかった」


 うなずいた高桐が仮面の紐を後ろで結んだ。仮面をつけると、視界が急に狭まった気がして、蝶子は眉根を寄せた。


「蝶子は、左から当たれ。さりげなく、会話に加われよ」

「高桐もね」

「馬鹿言え。俺はこれでも西国の貴公子と呼ばれてるんだ」


 自慢しているのかわからないことを言い、高桐は飲み物を探すふりをして、奥のほうへ向かった。残された蝶子は所在なさげなそぶりを見せてから、近くで固まる女性たちに、「こんばんは」と言った。あらあら、と女たちがさざめき笑う。


「お兄様に置いて行かれてしまったの?」

「ええ、兄は飲み物を取りに行くと言って」


 ほら、やっぱり許嫁には見えないじゃないか。

 内心で苦笑して、蝶子は女性に話を合わせる。


「兄さまにおねだりをして、はじめて連れて来てもらったんです。とても楽しみで」

「へーえ。はじめてがここなんて、あなたのお兄様も粋ねえ」

「今日はどんなことがあるんです?」


 無知さを武器に、突っ込んで尋ねてみる。


「どんなこと、ねえ」


 女たちは顔を見合わせて、くすくすと笑った。それから、小首を傾げた蝶子にそっと囁く。


「楽しいわよ。夢が見られる」

「ふうん……?」


 曖昧にうなずいて、蝶子は差し出された杯を手に取った。先日の真野の大神の毒のこともあるので、警戒をして口をつける。それがまた、初心な少女だと思われたらしい、女たちがますます笑い転げた。試しに飲んでみたが、ただの葡萄酒に思えた。といっても、酒には強くないので、早々に水に替えてしまう。


「ご存じですこと? 港と都を繋ぐ鉄道が、次は東の山を越えるんですって」

「山を? どうやって繋げるというんです?」

「穴をあけるんですって。夫が申しておりました」


 女たちの間で交わされる他愛もない会話を蝶子は周囲に気を配しながら聞く。

 照明が落とされた室内では、緩やかな弦楽器の演奏が流れ、それに合わせて男女が円舞を踊っている。蝶子は虚弱な体質もあって、幼い頃からあまりこういった席に出たことはないものの、よく聞く夜会と何ら変わったところはない。あやかしらしき者がいくつか紛れているのがわかったが、今のところ害意は見て取れなかった。


(珍しく、御寮官の勘も外れたか)


 考えながら水に口をつけていると、踊る男女の向こうで小さな影が動いたのが見えた。洋装をして仮面をつけているが、身の丈から考えるとまだ子どもだ。


(こんなところに、どうして子どもが)


つい気になって、蝶子は水を湛えた杯を置く。


「いてえな!」


 そのとき、子どもが横から飛び出した男にぶつかった。よろけて尻もちをついた子どもに、男は仮面越しにもわかる据わった目を向けて、「どけよ」と子どもの横っ腹を蹴りつけようとする。その顔に水がかかる。蝶子だった。


「すいません。手が滑りました」

「ああ?」


 男の目がぎろりと剣呑さを帯びる。口から吐き出される独特の饐えた臭いに、蝶子は顔をしかめた。


「てめえ、ふざけるな。わざとだろう!」


 翻った男の手を危ういところでよける。蝶子でもそれができたのは、単に男の動きが鈍く、足取りも乱れていたためだ。男がよろめいたはずみに、「こっち」と長洋袴の裾を引かれる。尻もちをついていた子どもだった。囁きにも似た声にうなずき、蝶子は子どもと連れ立ってきびすを返した。

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