3

 蝶子の一日は、朝五時に始まる。

 鶏が鳴く前に目を覚ますと、まず禊ぎをしたあと、襦袢に白衣を纏い、紅花で染めた緋色の袴をつける。後ろで一本にまとめた黒髪を水引で結び、屋敷の奥に設けられている女神を祭神とする社の扉を開けて、朝の拝礼を済ました。そのあと、参道や手水舎などを掃き清めていく。今日は、神御寮の登庁日ではないので、いつもより念入りに、溜まった落ち葉などを掃き出す。

 政府の出した「神の不在の見解」後、官弊社は瞬く間に廃され、それ以外の諸社も次々に廃れていったが、特に西国では未だに家の祭神を祀る風習が残っている。神御寮の御寮員においては、蝶子をはじめ神職を兼ねている者も多く、その向きが強かった。

 信仰は畏れだと、鳥野辺は時折口にする。

 あらぶる荒神やあやかしを狩る神御寮は、一方で神霊の力を畏れている。彼らの気を鎮めるために、朝夕拝礼を欠かさず、舞を奉納し、神饌を供す。


『何が『神の不在の見解』だ。地揺れや洪水のひとつもおさめられぬ人畜生の分際で』


 忌々しげに吐き捨てる鳥野辺に、蝶子も共感を抱かないわけではない。しかし、そうした心情とはうらはらに旧玉垣神社を初めとした由緒ある諸社が退廃に向かっているのもまた事実なのだ。


「蝶。ちょーお!」


 箒で落ち葉をまとめていると、目の前で小さな手を振られた。髪の両脇に梅飾りをつけた童女、ウグイスである。


「ああ、ごめん。来てたんだ?」

「ええ、いつまでたっても蝶が戻ってこないから、こちらに来てしまったわ。掃除なんて、青虫化生に任せておけばいいのに」

「アオは使用人じゃないし、ここを守るのはわたしの仕事だよ」


 神御寮の仕事もそうだが、常野神社の神職についてもまた五年前に家と一緒に蝶子が継いでいる。むしろ表向きの本業はこちらといってよい。氏子がほとんどいなくなってしまった今となっては、朝夕の拝礼や神饌の供え、掃除以外にすることはあまりなかったが。

 ウグイスは少女に似つかない嘆息をした。


「蝶の堅物につける薬が欲しいわ。今度カササギ先生に頼んでおこうかしら」

「お願いしたいな。わたしも、堅物な上司がいて困ってるんだ」


 鳥野辺の顔を思い浮かべながら苦笑し、蝶子はウグイスを招いて屋敷に戻った。


「真野の大神の毒も、もう残ってはいないようね」


 診察のあと、ウグイスは蝶子の手のひらを触って言った。かさぶたももうずいぶん薄くなって、今ではどこを怪我したかもわからない。くつろげていた衿を直して、「痛みもないよ」と蝶子はうなずいた。


「本当に何だったのかしらね。女神の加護なのか、真野の大神の毒自体が弱かったのか。蝶もよくわからないのでしょ?」

「女神にはたぶん、そういった力はないと思うけど……」


 女神は確かに、母の願いを聞き届け、幼い蝶子の命を長らえさせた。ただそれだけのことだと蝶子は思っている。蝶子の生来の虚弱は加護をもってしても変わることはなく、これまでも何度となく死線をさまよった。この歳まで生きてこられたのはむしろ、カササギ先生やウグイスのおかげだ。


「蝶」


 静かな声に呼ばれて、蝶子は手元に落としていた視線を上げる。蝶子の手を握るウグイスは真剣な眼差しでこちらを見つめていた。


「何かあったの? 御寮官に何か言われた?」

「どうしてそう思うんだ?」

「蝶が無駄にちゃきちゃきと掃除をしているときは、たいてい落ち込んでいたり、悩んでいたりするときだからよ」


 緑褐色の眸を細めて、ウグイスが言う。ずっと妹分だと思っていた少女に、思わぬことを言い当てられてしまい、蝶子は瞬きをした。


「心配性だなあウグイスは」

「蝶の専属医ですからね」

「だいじょうぶ」

「蝶」

「大丈夫だよ、ウグイス。蝶子はまだやれる」


 目をそらさずに告げると、蝶、と少し痛ましげな顔をしてウグイスは目を伏せた。


「明日また来るわね」


 事情を聞かずに、それだけを言ってくれるウグイスは優しい子だと蝶子は思う。

 次の患者の家に回らなければならないウグイスは、早々に屋敷を出た。小さな身の丈に合わない風呂敷包みを背負った背中を見送って、ごめんウグイス、と蝶子は呟いた。


(ウグイスにはいつも心配ばかりさせている)


 蝶子の虚弱は生来のものである。女神の加護を受けているとはいえ、おそらく普通の人間と同じように生きることはできないだろう。ウグイスはそれを嘆いてくれる。悲しみ、どうにかできないかとあがいてくれている。それが蝶子にはたまらなくうれしくもあり、切なくもあるのだった。

 二階の私室に戻る途中、陽当たりのよい窓辺に腰かけ、うとうととまどろんでいるアオを見つけた。青虫化生が本性であるアオは、緑陰や木漏れ日の落ちる場所を好み、神御寮の仕事がないときはそういった場所で日がな休んでいる。アオ自身から聞いたことはないが、ほどよく暖かく、風通しのよい、樹のそばがアオはいちばん落ち着くのだろう。


「アオ」


 そっと呼んでみたが、アオの伏せられた睫毛は微かにも動かない。


「アオ。寝ちゃった?」


 柔らかな陽の射す窓辺にかがんで、蝶子はアオを見つめた。アオにも雑務を手伝わせればいいのに、とウグイスをときどき口を尖らせて言うが、蝶子は本当に、アオはそんなことはしなくてよいのだと思っている。アオは、青虫化生だ。なのに、化生の本性をねじまげて蝶子の手足となり、働いてくれている。


(だから、それ以上をする必要なんかない)


そう願いながら、己の目的のためにアオに化生斬りをさせる欺瞞を、蝶子はよくわかっている。わかっているが、蝶子の一部は祈らずにはいられない。


(もう化生斬りをすることはない)

(ないんだ。アオ)


 春虫たちを取り戻すにははじまりの男神を探すことが必要で、そのために、神御寮の御寮員として生きる覚悟を蝶子はとっくの昔に決めたはずなのに。


『弟ひとりを取り戻すために、西都の人間を危険にさらす気か』


 鳥野辺の言葉が、定めたはずの蝶子の胸をかき乱す。


(わたしだって、もうやめたい)

(アオにこんなことをさせるのは、もうやめてしまいたい)


 気付けば、子どものようにアオの肩に額を擦ってしまっていた。アオは化生らしく警戒心が強いけれど、不思議と蝶子だけはそばにいても目を覚ましたりしない。細く開いた窓から、そよそよと常緑の葉のにおいがくゆってきて、蝶子は赤く腫らした目を細めた。アオのひとより少し低い体温に包まれて、つかの間眠りに落ちる。

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