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「蝶! 起きて! 蝶!」


 目を開くと、すぐ鼻先に梅飾りをつけたウグイスの顔が迫って、「うわっ」と蝶子は身を引いた。はずみに寝台の背もたれに頭をぶつけて、意識が再び混濁しかける。


「きゃああああ!? 蝶! 蝶、しっかり!」


 驚いたウグイスが蝶子の肩を揺する。こちらの身を案じてくれているのはわかるが、むしろ逆効果だ。


「はいはい、ウグイス。少し落ち着こうね。蝶子くんが死んでしまうよ」


 隣からのっそり現れたカササギ先生がウグイスの首根っこをつかんで、引き離した。


「でも、だって先生。蝶が」

「どうだい、蝶子くん。気分は?」

「……咽喉が渇きました」


 答える声は少しかすれていた。ウグイスが差し出した白湯を受け取って、蝶子は尋ねる。


「もしかしてわたし、また倒れたんですか」

「うん、また倒れてしまっていた。今回は三日かな」

「三日」

「ただ、いつものとは少し事情が違うようだ。倒れる前のことは覚えているかい?」

「うっすらとですが」


 瞼裏に、夜見世に現れた真野の大神の姿がよぎる。


(そうだ、途中で下御森神社が現れて、ヒルコとナンテンが……)


 そこではっとなって、蝶子は半身を起こした。


「アオは? アオはどうしました?」

「俺ならここですが」


 寝たきりだった身体は思いのほか弱っていたらしい。自力で起こしきれず傾きかけてしまった蝶子をアオの大きな腕が抱き止めた。真野の大神に食べられたはずの右腕ももとに戻っている。蝶子はアオの右腕に触れ、上着の袖をめくり上げた。色素の薄い、けれどしなやかな固さを持った男のひとの腕。傷痕のたぐいもない。蝶子はほっと息を吐き出した。


「よかった。もうどこも痛くない?」

「ええ。蝶子のおかげで」

「まったく蝶はお馬鹿さんだわ! 死にかけたのはどちらだと思っているの!」


 寝台に身を乗り出し、ウグイスが唇を尖らせた。とっさに意味がわからず、蝶子は瞬きをする。


「どちらって?」

「ほら、これだもの。先生、言ってやって」


 ウグイスに小突かれたカササギ先生が苦笑交じりに頬をかいた。


「君はね、蝶子くん。真野の大神に噛まれたときの毒のせいで、一晩生死をさまよったんだよ。女神の加護のおかげなのかな、夜明け方には毒はきれいになくなっていたようだけどね。そのあとも目を覚まさなかったのは、単に君の体力がなかったせいだね」


 穏やかに指摘され、蝶子は顔を赤面させた。神御寮の面々を相手には強気に出ることが多い蝶子であるが、カササギ先生には幼子の頃からお世話になり続けているせいで頭が上がらない。


「ほら、ここが噛み痕だ。わかるかい」


 蝶子の両手のひらを持ち上げて、カササギ先生が教えてくれる。腫れはすっかり引いていたが、大神の牙に皮膚を穿たれた痕は微かに残ってかさぶたを作っていた。


「一時は大変な騒ぎだったのよ。今回はもうだめなんじゃないかって、どうしようって……」


 話しているうちに気持ちがぶり返したらしい、ウグイスの眸がみるみる潤む。


「ごめん、ウグイス。もう大丈夫だから」


 目を赤くして俯いたウグイスのかむりを、蝶子はカササギ先生がいつもそうしているように緩くかき回した。髪の両端につけている梅飾りが少し傾いてしまっているのに気付いて、ついでに直してやる。


「それに、春虫を取り返すまでは、蝶子は意地でも死なないよ」

「春虫が戻って来ても、よ。蝶、約束して」

「わかったわかった」

「ウグイスは真剣に話しているの」

「うん、わかった」


 しかめ面をして差し出してきたウグイスの指先に蝶子は指を絡めた。

 ウグイスは、ひとの男とウグイス化生がまじわって生まれた半化生である。親たちはウグイスを捨てたらしい。はじめて出会ったとき、ウグイスは力の扱い方がわからず、手当たり次第に周囲の物を壊して泣くばかりの子どもだった。確か、神御寮に勤めたばかりの頃で、蝶子にとっては三度目の仕事だった。


『大丈夫だよ、ウグイス。蝶子がまた会いに行く』


 神御寮に保護されたあやかしは、御寮員による査定を受けたあと、危険の度合いによってその後の扱いが変わる。ウグイスの場合はさほど強い力を持っていなかったことや幼さを考慮して、しかるべき里親のもとへ預けられることになった。それがカササギ先生だ。


『本当に? カササギさんのところへ行っても、またウグイスに会いに来てくれる?』

『行くよ。約束する』

『ぜったい。絶対よ、蝶』


 目にいっぱいの涙を湛え、小指を差し出してきたウグイスを蝶子は今でも覚えている。あのとき絡めた小さく温かな指先も。


「蝶子」


 窓硝子をこつんと叩いた『遣い』に気付いて、アオが鍵を開けた。アオの手の中にひゅるりと身を滑り込ませるや、小鳥が紙に返る。差し出されたそれを開くと、差出人には「神御寮」とあり、体調が回復次第、登庁する旨が記されていた。


 *


「いやはや、まったく君は遅刻の常習ですねえ、蝶子くん。我が神御寮の御寮官に三度『遣い』を送らせてやっと応じるとは。もしかして本当は御寮官より上の御身分だったりするのかねえ。どう思います、鳥野辺御寮官」


 登庁した蝶子を待っていたのは、蛇ノ井の嫌味極まりない口上だった。言い返したいのを飲み下して、申し訳ございません、とこうべを垂れる。目を覚ましてからあと、蝶子が己の足で立って歩けるまで回復するには、さらに三日がかかった。ここまでいくと、虚弱の己の身を嘆くよりほかない。


「まぁね、君が遅刻が大好きだっていうのはわかりましたよ。報告が遅いのもね」

「ですから、それについては」

「とはいえ、わたしらも一介の寮員を呼び出していちいち報告をさせているほど暇じゃあない。それはもちろんわかっているでしょう、蝶子くん」


 蛇ノ井は口端に載せていた笑みをおさめた。


「下御森神社は出て来ず、代わりに御足を取り返しにやってきたのは旧玉垣神社の祭神、真野の大神だった。そこで君たちは、その場にいた一般人を避難させ、害が及ぶ前にあらぶる真野の大神を仕留めた。よろしい。実に御寮員らしい行動です。ただし、わたしが聞きたいのは別のこと」

「別の……?」


 高桐あたりから事情については聴取済みらしい。あの日起きた一連の出来事を簡潔に説明し、蛇ノ井は洋皿に載った卵糖カステラに指を伸ばした。そのまま話を続けるのかと思いきや、卵糖をうまそうに咀嚼し始めてしまったため、息を吐いた鳥野辺が先を請け負う。


「任務の最中に、真野の大神の毒を受けたそうではないか。どうやって治した」

「定かではありませんが、皆さま知ってのとおり、わたしの身体は特異ですので」

「女神の加護を受けた血肉ですかあ。神霊、あやかしに対しては傷を癒す『妙薬』であり、食せば生気を養う『ごちそう』にもなる。解毒までできるだなんてずいぶんと便利ですねえ。そのわりに、体力を回復するのに三日もかかっているのが不思議ではありますけども」


 唇についたざらめを舐めて、にやにやと蛇ノ井が口を挟んだ。先ほど、あれだけ遅刻について嫌味を言っておきながら、事情は知っていたらしい。やっぱり食えない奴だと蝶子は内心舌打ちした。


「わたしの身体が虚弱なのは生まれつきです」

「そうさね、解毒はできたが、体力が尽きて死にかけるだなんて、君らしくて面白い。だけどもね、蝶子くん。君の血が本当に真野の大神級の毒に対しても耐性を持つのなら、大ごとですよ。いくらか小瓶に取って、神御寮の宝庫に置きたいくらい。便利だものねえ」

「どうぞご自由に。命じられればそうします」

「ふふん、健気なことを言ってくれるじゃありませんか」


 蛇ノ井は咽喉を鳴らして、卵糖をまた一切れ摘まんだ。


「まあ、その件は今日のところは置いておきましょう。ああ、君も食べます? 皆川商会からいただいた、特製の卵糖」

「蛇ノ井御寮官」


 蝶子が謹んで断りを入れる前に、鳥野辺が腰を浮かせた。


「世間話は終わりだ。亀山田御寮官、本日の議題を」

「え、えー、では本日の議題となりますが、えー」


 亀山田が次第を開いて、咳払いした。


「えー、今朝方入った情報によると、下御森神社が山門を閉ざしたとの由」

「山門を?」


 蝶子は眉をひそめた。

 西国のあやかしの本拠地である下御森神社と、人間による対あやかし専門機関である神御寮とは、過去の因縁や、あやかしの処遇をめぐり、水面下での対立状態にある。それでも、かつて両者の間で結ばれた相互不介入の協定は、表向き守られ続けていた。協定の中にはいくつかの義務条項があり、そのひとつが「下御森神社は山門を常時開門すべし」というものである。

 西の下御森山のふもとに位置する下御森神社は山門を閉じると、堅牢な砦ともなりうる地理的な特徴を持っている。ゆえに当時の御寮官が山門の開門を条項に入れたのだが、亀山田の言だと、今回下御森神社は神御寮への協議なしに勝手に山門を閉じたことになる。


「えー、下御森神社から今のところ使者はありませんが、えー、当方はこれを事実上の協定破棄と捉えており……」

「斥候に下御森神社周辺を探らせているところだ。煌帝にも念のため、六海の離宮に移ってもらっている」

「以前もこういったことはあったんですか」

「何度かな」


 尋ねた蝶子に、鳥野辺は渋面でうなずいた。


「下御森の一種の威嚇行為だ。協定破棄をちらつかせて、こちらに飲める程度の要求を突きつける。神御寮だとて、あやかしを仕切る下御森神社を正面から敵に回すわけにはいかんから、そのたび腹の探り合いという奴だ」


 その腹の探り合いの真っ最中なのだろう。鳥野辺は疲れ切った風に息をついた。舌鋒がいつもより心なし柔らかなのは、蝶子へまで苛立ちを回す余裕がないのか、単に真野の大神の毒で生死をさまよった蝶子に多少なりとも同情をしているのか。いつもは、蝶子の言うことは頭ごなしに否定してかかる鳥野辺であるが、妙に人情味のある一面も、他方で持ち合わせていた。


「高桐がすでに報告したかもしれませんが、旧玉垣神社には下御森神社のヒルコとナンテンが現れました。何でも、真野の大神の妻神の御足を夜見世に出したのは下御森神社であるとか。……『はじまりの男神』を探しているとも、言っていました」


 あとの情報は出すべきか、正直悩んだ。けれど、蝶子の持っている手札はあまりに少ない。あえて話して、御寮官の反応をうかがってみるとかという心持ちになった。


「何故、下御森神社が男神を探すのでしょうか」


 御足については、ヒルコに言われたときにはぴんと来なかったが、今はおおかた察しがついている。真野の大神の妻神は、「はじまりの男神」の母神でもあるのだ。真野の大神を書司で調べていたとき、見かけた系図に載っていた。

 ヒルコの口ぶりから察するに、おそらく夜見世に真野の大神の妻神の御足を出すことで、男神をおびき出せると考えたのだろう。結果として、現れたのは真野の大神のほうであったのだが、そう考えれば、あらぶる神と化した真野の大神をナンテンが迷わず射たのも説明がつく。最初から真野の大神は下御森神社にとっての目的ではなかったのだろう。


「何故かの神が『はじまりの男神』と呼ばれるのか、蝶子くんは考えたことがあるかい?」

「女神の『つがい』と聞きました」

「そのとおり。君に加護を与えた女神と、『はじまりの男神』は二神でひとつ、表裏一体。女神はこちらに属するものの命を育み、『はじまりの男神』はあちらに属するものの命を総べる。下御森神社の目的はわからないがねえ、『はじまりの男神』はそれだけ強い力を持っているってことさ。強い力を持つ神のもとには、その力を借りたいと願う者たちが集まる。ちょうど蝶子くんが春虫くんたちを取り返したいようにね」


 蝶子は口をつぐんだ。春虫たちを取り戻すため、蝶子もまた「はじまりの男神」を探しているという話は、蛇ノ井にしたことはない。けれど、その金色がかった眸は蝶子の思惑程度は御見通しであるようだった。


「つまり、『はじまりの男神』の何らかの力を下御森もまた求めていると?」

「と、わたしらは推測している。そして、わたしたち神御寮は、これを阻止しなければならない」

「何故です?」

「五十年前、『はじまりの男神』が神々を連れてあちらへの御渡りをしたときには、御所周辺の十町がともに持っていかれた。伝承のとおり、かの神もあちらへ渡ったのなら構わない。しかしまだこちらに残っているのだとしたら、かの神の存在は大いなる脅威だ」


 即効狩らねばなるまい、と鳥野辺は頬を歪めて断じる。


「……ですが」

「ですが、なんだ? 弟ひとりを取り戻すために、西都の人間を危険にさらす気か。いいか、この際だから言うぞ。いい加減子どもじみた駄々をこねるのはよせ。春虫は失踪した。もう、帰ってはこない」


 蝶子は咽喉を突いて出そうになったいくつもの言葉を必死に飲み下した。組み合わせた手をぎゅっと握り締める。


「はるむしは……」


 うわ言のような声が漏れたが、結局蝶子は続けなかった。眉根をきゅっと寄せ、俯いた蝶子を一瞥し、「え、えー」と亀山田が空咳をする。


「本日の議題はこれまでと、えー」

「おい、亀山田御寮官。勝手に……」


 声を荒げた鳥野辺に、「まあまあ、よいじゃあありませんか」と蛇ノ井がひとりのんびりと卵糖を摘まむ。議題の書かれた紙を閉じながら、亀山田のいつもは眠たげな目がちらりと蝶子をうかがうのがわかった。あまつさえ御寮官に気を遣わせたのか、と気付いて、蝶子は頬を染める。それから、静かに退出の意を告げた。

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