四章、遺児

1

 夢を見ていた。ひどく懐かしい夢だった。

 うっすら目を開くと、春虫が心配そうに寝台に腕を乗せてこちらをうかがっているのが見えた。その手が蝶子の手をきつく握り締めているのに気付き、ああずっと、蝶子が生と死の淵でうなされている間、こちら側に繋いでいてくれたのは春虫だったのだとわかった。


「起きた? 蝶子」


 身じろいだ春虫が幼い額を蝶子の額にくっつける。


「具合、わるい? 見世物は行けなそう?」

「ごめん、はるむし……」


 久しぶりに出した声はかすれて、自分のものではないようだ。

春虫は美しい男の子だった。双子の自分にもその美貌はあって然るべきなのに、まるで違う。日がな臥せってこもりきりの蝶子は、子どものくせに死人のような蒼白い膚をして、いつまでたっても痩せぎすのままだった。寝台の上で一日を過ごし、喋る相手といったら、使用人たちや窓辺の木々と虫たちくらい。そして、春虫。いつも自分を案じてくれるひとりきりの弟。蝶子にとって、この双子の弟は、世界のすべてといってよいくらい大きくてまぶしい存在だった。

手を握り締めてくれる春虫に、首を振る。


「蝶子は春虫と一緒に行けないの。りん子ちゃんに、連れていってもらって」

「いやだよ。蝶子と行くよ、ぼく」

「春虫」

「蝶子がよくなるまで行かないよ」


 双子の弟が頑固に意地を張ってくれることに薄暗い喜びを覚える。それを幼い蝶子は恥じた。弟をこの黴臭くて冷たい部屋に閉じ込めておいていいはずがないのに、蝶子はひとりでいることのさびしさから弟に手を伸ばしてしまう。


「春虫、だめ」


 健康な春虫が羨ましい。外を遊び回って、日の光をいっぱいに浴びて、周囲に愛される春虫が。それと比して醜く、陰鬱で、ひとを羨んでばかりいる自分が疎ましい。母様は命を差し出してまで、蝶子を生きながらえさせてくださったのに。


「春虫、だめ。行くの。蝶子は春虫と一緒は、いやなの」

「蝶子、どうして」


 自分の気持ちを伝えるには、蝶子の言葉はあまりにつたない。姉から手ひどい拒絶をされた春虫は、ひどく傷ついた様子で俯いた。


「蝶子はぼくが嫌いなの?」

「ちがうよ」

「ちがわない。蝶子はぼくが元気で、外で遊べるから、ぼくが嫌いなんだよ」

「はるむし……」


 薄暗い本心を見抜かれた気がして、蝶子は言いよどむ。それがたぶんよくなかった。


「蝶子はぼくが嫌いなんだ。だから、今も迎えにきてくれない。ぼくもりん子ちゃんも丸じいもクスコおばさんもみんな、蝶子を待っているのに。蝶子はぼくらを探す気なんてないんだ」

「ちがう、春虫。ちがう。ちがうの」


 幾度も首を振るのだけれど、春虫の姿はどんどんと遠のいてしまって、手を伸ばしても届かない。

 ――常野蝶子。

 別の声が蝶子を呼んだ。今度は寝台ではなく、塗り壁に囲まれた狭い部屋だった。蝶子はその部屋で椅子に座らされ、「ごりょうかん」と呼ばれる大人のひとたちに囲まれていた。


「これが、神隠しからひとり戻ってきた娘か」

「十歳でしたっけ。ずいぶんと幼いんですねえ……」

「春虫のほうには父親の才が引き継がれていたらしいが、何故姉のほうが」

「何故、春虫ではなく」


 「ごりょうかん」たちが口々に囁き合い、値踏みするように蝶子を見下ろす。恐ろしくて、蝶子は委縮したまま、肩をきつく抱きしめた。


(はるむし、来て)


 目を瞑り、蝶子は弟に呼びかける。


(りん子ちゃん。丸じい。クスコおばさん。とうさま。かあさま。誰か)

(誰か、たすけて)


 やがて、処分せよ、とひとりの「ごりょうかん」が主張し、いえいえお待ちなさい、と別の「ごりょうかん」がのんびりと取り成す。自分の命が、あちらへこちらへ転がされるのを蝶子は震えながら見ていた。

 家に帰りたいと思った。ここは怖くて、落ち着かなかった。


「――蝶子ちゃん!」


 景色がまた飛んで、気付けば蝶子は藤尾に抱きすくめられていた。まだ十五歳の、春虫の許嫁だった頃の藤尾だ。


「よかったね、蝶子ちゃんは戻ってこれたのね。よかった」


(でも、藤尾さんが大好きな春虫はいなくなってしまったの)


 自分を抱く藤尾の腕の強さに、息が潰れそうになる。


(蝶子が戻ってきてしまったの。誰も望んでいないのに。蝶子のほうが戻ってきてしまったの)


 嗚咽する藤尾の背に回そうとした手が空をつかむ。どうしてだろう。春虫がいなくなってしまったのに、大好きな片割れがいなくなってしまったというのに、蝶子は泣くことも叫ぶこともできなかった。


「いいですか、蝶子くん。神御寮は、君を生かすことに決めました」


 景色がまた変わり、先ほど蝶子の処遇を話し合っていた「ごりょうかん」のうちのひとりが蝶子の前に立った。あまり見慣れない洋物の襯衣シャツに葡萄酒色の領帯ネクタイを結んだ蛇ノ井は、ぼんやりとたたずむ蝶子の胸に細い指を突き付けた。


「ただし、ひとつ条件が」

「じょうけん……?」

「君が名付けたかの化生。まったく手に負えなくてねえ、この蛇ノ井の言うことすら聞きません。ゆえに君があれを従えなさい」

「わたしが?」

「もちろん名前は、覚えているんだろう?」


 蛇ノ井はひょろ長い背をかがめ、蝶子の虚ろな目をのぞきこむ。改めて見つめると、蛇ノ井の眸は淡く金色がかっていて、その深淵に飲み込まれてしまいそうだった。


「蝶子くん。さだめは己の力で開いてごらん、ってヤツです」


 片目を瞑った蛇ノ井がひらひらと手を振る。蝶子は看守に連れられるまま、神御寮の最深部――あやかしたちが捕えられている地下牢へと下っていった。階段を下るごとに強くなる腐臭があたりを充満している。これがあやかしのにおいなのだと、蝶子は教えられるまでもなくわかった。格子の嵌められた牢には結界の呪符がいくつも貼られて、中のものを外に出さないようにしている。


(にく、めがみのちにく)


 さざめくような唸り声がして、蝶子は立ち止まる。格子の先の暗闇に金の双眸が輝いていた。


「いけません、目を合わせては。魅入られる」


 看守の手が蝶子の腕を引いた。代わりに狩衣の袂から、呪符を一枚取り出す。しっ、と短く息を吐き出すと、看守は格子の間からするりと滲み出した影に向けて呪符を飛ばした。悲鳴が上がり、影が格子の中へ引き上げていく。


「あなたも御寮員なの?」

「いいえ。護身法を身につけているだけです。でないと、ここの看守は務まりませんので。――こちらへ」


 促された先にあったのは、ほかよりも新しい呪符が貼られた牢だった。やはり腐臭が漏れ出している。看守はそれ以上の説明はせず、横にのいて、蝶子に正面を譲った。


「アオ……?」


 格子の間からのぞきこむと、手燭の明かりが当たった場所に、傷ついた背中が横たわっているのが見えた。けれど、蝶子の記憶にある青虫化生とは違い、ひとのかたちをしている。暴れ回ったあとなのだろうか、床や壁には血がこびりつき、男のひとの両手足には鉄枷が嵌められていた。こちらに気付いた男のひとが頭をもたげると、じゃらん、と金属の嫌な音が鳴った。


「アオ?」


 目の前の男のひとが誰だかわからなくなってしまって、蝶子は尋ねる。土壁に背をもたせたまま、アオが視線だけを蝶子のほうへやった。感情の薄い、獣の目。


(ヒモジイ……イタイ……)

(カナシイ。カナシイ)


 けれど、眇められたアオの目が語る苦痛を、蝶子は不思議と感じ取ることができた。床に投げ出されたアオの手におそるおそる触れる。重ねた手はひとのかたちをしていたけれど、生まれたての幼子のように小さく震えている。ああアオだ、と思う。わたしが見つけた青虫さんだ。


「おいで、アオ」


 そして蝶子はアオの手を引き寄せた。

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