6

「蝶子。蝶子、蝶子!」


 引き寄せると、蝶子の身体は驚くほど熱かった。アオは、汗を浮かべた蝶子の額に触れる。蝶子はよく熱を出して臥せったが、そのどれとも違っているように感じた。


「何をしたんですか、蝶子に」


 近くに立っていた高桐を睥睨すると、濡れ衣だといわんばかりに首をすくめられた。


「勝手にひとを悪者にするな。むしろ、何かしてもらっていたのはおまえのほうだと思うが。まあ、しかし」


 高桐は思案げに蝶子の顏をのぞきこむ。


「真野の大神の牙には毒があると言ったな。まさか蝶子も噛まれたのか」

「そんなはずは」


 言いかけて思い当たる。妻神の御足を返すときだ。真野の大神が御足ごと蝶子の両手を咥えていた。地面に力なく落ちた蝶子の手を取ると、確かに両手のひらには爛れたような傷があり、赤黒く変色し始めている。


「まずいな。真野の大神に噛まれたとなると話が違う。いくら女神の加護があるとはいえ、蝶子はただびとだからな」

「蝶子はどうなるんです」

「わからん。俺は一度神御寮に戻る。おまえはせいぜい、蝶子が死なないように祈りながら屋敷に運んでおけ」


 高桐は紙に戻っていた蝶子の『遣い』にふっと息を吹き込んだ。それは瞬く間に小鳥に転じて、蝶子が放ったときよりも力強い羽ばたきで北の空――神御寮の座す方角へ飛んで行った。


 *


「この役立たず!」


 駆けつけたウグイスが最初にしたことといえば、アオの頬をひっぱたくことだった。


「ウグイスは蝶から目を離さないでって言ったわよねえあんたに! それなのに、どうして!」

「まあまあ、ウグイス」


 梅の飾りをちりりんと鳴らして噛み付く童女のかむりをカササギ先生が撫でた。


「落ち着きなさい。蝶子くんを診るほうが先だろう」

「だって、先生」

「湯を沸かしてきなさい。アオくんは清潔な布を用意して」

「……はい」


 アオとともに半ば追い出されるていで部屋を出ると、ウグイスはふんと鼻を鳴らして竈がある一階のほうへ下りていた。

 蝶子を屋敷に連れ帰ったあと、ひとまずウグイスを呼んだ。アオにはほかに思いつくことがなかったためだ。夜の遅い時間にもかかわらず、ウグイスはカササギ先生を引っ張って、すぐに屋敷に駆けつけた。そして蝶子の様子を確認するなり、先ほどの張り手である。腫れた頬に指を触れさせてさすると、アオはかき集めた布の山を抱えて蝶子の寝室を開けた。寝台の前にはカササギ先生がいつもの猫背で座って、蝶子を診ている。


「蝶子は治りますか」

「アオくん」


 カササギ先生は目が悪く、ひとの気配にも疎い。アオが声をかけて初めて気付いた様子で、開いていた蝶子の襦袢を戻した。年齢に比して皺の多く刻まれた手のひらを蝶子の額に置く。


「これはいつもの発熱じゃあないね」

「真野の大神の毒を受けたそうです」

「毒ね。なるほど。神御寮へは?」

「高桐が行っています。御寮の宝庫に解毒薬があるのでは、と言っていましたが、まだ見つかっていないようです」


 あのあと、高桐からは一度『遣い』がやってきた。紙に転じたそれを開くと、解毒薬が見つからないので、真野の大神に関する残された文献をあたるとのことだった。


「そうか……。悪いが、僕たちはただの医者に過ぎない。神々の毒になってしまうと、専門外なのさ。いちおう、熱冷ましと痛み止めは煎じて飲ませたが」


 寝台に眠る蝶子は浅い呼吸を繰り返している。知らず、アオは手を伸ばして蝶子の頬に触れた。いつもよりずっと熱くなってしまった頬に指の背をあてる。


「どうにもならないんですか」

「先生! らしくないわよ、いつもウグイスが言ったって、先生のほうが諦めが悪くて患者にしがみつくのに」


 湯を沸かして戻ってきたウグイスが不服そうに唇を尖らせる。カササギ先生は肩をすくめて、ウグイスのかむりを撫でた。


「ウグイスの言い分はわかるよ。そりゃあ僕にとっても蝶子くんは子どもの頃から診ている家族みたいな子だもの。どうにかしたいけれど……」

「それじゃあ」


 言い募るウグイスに視線を落として、カササギ先生はさみしそうに微笑んだ。


「前にこういう患者さんを診たことがあるよ。その子もまた、神霊――化生斬りによって傷つけられた半身を抱えて泣いていた。どうにかできないかと思ったけれど、神霊は『あちら』に属するもので、その傷もまた『あちら』に属するものなんだ。『こちら』にあるものでは治すことができない。それだけがわかった」

「先生の役立たず」

「おやまあ、僕まで言われてしまったな」


 カササギ先生は苦笑した。


「アオくん。蝶子くんは女神の加護を受けているんだろう。それはこういったとき、作用しないのかい」

「無理だと思います。おそらくは」


 蝶子の火ぶくれのようになってしまった両手を見れば明らかだった。蝶子はその手でアオを癒したが、自分のこととなるとそうはいかないらしい。加護ひとつですべてどうにかできるなら、虚弱体質でたびたび発熱する必要だってないはずだ。


「そうか……」


 気落ちした様子で、カササギ先生は息を吐き出した。ウグイスが声を上げて泣きじゃくり始めてしまったので、「こらこら」と叱ったが、その声にも覇気はない。

 薬をいくつか取りに戻るついでに、知り合いの医者にも声をかけてみると言ってカササギ先生は一度屋敷から下がった。泣き疲れて眠ってしまったウグイスを客人用の褥に転がして、アオは蝶子の寝室に戻る。出し放しになっていた椅子に腰かけると、寝台に頬杖をついて蝶子を見つめる。紅潮した頬は、今は反対に血の気が引いて青みを帯びていた。繰り返される呼吸は小さく、頼りない。

 思えば、『かのじょ』は昔からそうだった。

『かのじょ』は他の人間たちに比べても、ひときわひよわで脆く、ほんのささいなことですぐに熱を出して死にかけた。記憶にある『かのじょ』はたいてい寝台の上に横たわっていて、それをアオはいつも遠い場所から眺めていたのだ。

頬に指を触れさせていると、むずがるそぶりを蝶子がしたので、カササギ先生が置いていった解熱用の薬実を歯で砕いて、ぬるま湯とともに開かせた口に流し込んだ。弱々しく吐き出そうとするので、唇を合わせて押し返す。甘い体液が舌に触れる。溺れそうだ、とアオは思った。


(たべたい)


 蝶子はきっと知らないだろう。


(たべたい)


 かたちを保てないほど憔悴しきった自分を背に庇って、彼女が手を握ったあのとき。傷つき毒に侵された蝶子の血肉を啜って、アオはかろうじてかたちを保っていたのだと。アオを案じる蝶子の手を握り返しながら、その体液を啜って、血肉を食べて、飢えを満たしていたじぶんが、どうしてだろう、アオはかなしい、と思った。

 蝶子はいつも、アオに血肉を与えてくれる。飢えは青虫化生の業で、この地に存在する以上、生き物の血肉を啜らねばアオはかたちを保つことができない。それはごく自然の営みで、疑問に思うことなどなかったのに。


(蝶子がためらいなく、差し出すから)

(いつもためらいなく、差し出してくるから)


 アオは寝台に投げ出された蝶子の手をすくい上げると、爛れた傷口にそっと唇を触れさせた。瞼裏にナンテン化生を癒したときの蝶子の姿がよぎった。同じように熱を持った傷口に口付けると、とくん、とくんと弱く脈打つ蝶子の心音が聞こえた。小さな身体の隅々に流れる血の内側に沈み込む気がして、目を瞑る。


「――蝶子」


 次に目を開けたとき、握り締めた蝶子の手のひらは人肌のぬくもりに戻り、爛れていた傷は薄い痕だけを残して消え去っていた。


 *


 その晩、高桐は神御寮の書司で一晩を明かした。宝庫の司に蝶子の解毒薬を求めたところ、そのようなものはないと首を横に振ったので、腹を立てて、ならば己で探してやるわ、と書司にこもった。高桐は昔からすぐに意地になってしまうからよくない。

 創世の二神と呼ばれた女神や男神に比べると、真野の大神を記した文献は少なく、牙や毒の話ともなるとさらに皆無といってよい。痛んできたこめかみを押して、文机に積んだ別の本を開く。手燭を持って藤尾が顔を出したのは、夜明けにも近い時間だった。


「どう、高桐くん。見つかりそう?」

「なんだ、藤尾。こんな夜更けに」


 夜這いか、と軽口を叩けば、藤尾は紅を刷かなくても赤々とした唇を歪めて、「夜這う相手は選びますから、安心して」と微笑んだ。相変わらず美人だが、高桐などでは手が負えない凄みがある。神御寮は、あやかしに対する人間側の最大の砦ともいえる。ゆえに昼夜問わず門衛が置かれ、たとえ御寮員の肉親であっても、たやすく中に入ることは許されないが、蛇ノ井の実妹である藤尾は唯一の例外といってよかった。


「真野の大神のことはわかったの?」

「いいや、さっぱりだ。蝶子の奴め。余計な手を煩わせやがって」

「そうやって悪態をつく。大事な婚約者でしょう」

「おまえらの代わりにあてがわれただけだがな」


 苦笑気味に一瞥をやると、藤尾は肩をすくめた。

 藤尾は常野春虫の許嫁だった。もう五年前のことだ。春虫はこのときすでに常野の家督を継いでいたし、藤尾の兄の蛇ノ井は当時御寮官筆頭に着いたばかりで、家柄としても申し分ない。五歳の差こそあったが、仲睦まじい姉弟のようだったと高桐も覚えている。


『春虫くん以外の縁談などいりません』


 普段はおっとりとした少女があのときばかりは、周囲を驚かせるほどきっぱりと言った。以来、藤尾は許嫁の喪に服すように黒に近い滅紫の袷を着ている。失踪から一年後、春虫の戸籍上の扱いは死亡となったため、藤尾との婚約も自然に解消された。代わりに蝶子と高桐の婚約が取り付けられたのであるが、藤尾が未だ滅紫の袷を脱がないことを考えると、春虫を諦めてはいないのだろう。


「ひとつ、気になることがあったの」


 深夜の書司には高桐たち以外にひとはなく、書棚の並んだ部屋は静まり返っている。「なんだ」と高桐が問えば、藤尾はそれでも注意深く声をひそめた。


「アオくんのことよ。私は避難の誘導に回ったから、真野の大神のことはあまり見られなかったのだけれど……」


 蝶子の御寮員としての能力は幼子同然といってよい。神御寮に異変を告げる『遣い』を先に飛ばしたのは、藤尾のほうだった。鳥野辺の「監視」は結果として、本人の意図とは外れた功を奏した。おそらく蝶子だけでは、あの場はおさめられなかったろう。


「アオくんの体液に触れるや、真野の大神の骸は崩れ去って消えたわ」

「消えた?」

「ええ。まるで『あちら』に還されたように。どういうことだろう。青虫化生は、特に力を持たない短命なあやかしよ。そうでなくても、大神相手に働きかける力を化生が持つはずがないのに……」

「見間違いじゃないのか。蝶子から聞いたことはないぞ。それに、アオひとりで大神級をどうにかできるっていうんなら、最初から苦戦はしないだろう」

「そうね、私も気のせいかと思った。でも、気になってさっきもう一度旧玉垣神社に行ってみたの」

「おい藤尾」


 いくら蛇ノ井の妹とはいえ、妙齢の女性である。供もつけずにいったのか、と呆れたが、続けられた藤尾の言葉にはさらに眉根を寄せることになった。


「消えていたわ」

「消えていた?」

「ちょうど本殿から舞殿にかけての梁の残骸、玉砂利や筵、一座が落としていった面に、それから真野の大神の骸もすべて。『神隠し』にあってしまったのよ」

「どういうことだ?」


 長く神御寮に勤める高桐であっても、そんな怪異は聞いたことがない。


「ねえ、高桐くん。蝶子ちゃんはいったい、五年前に『何』を降ろしてしまったのだろう。あいつは青虫化生の顔をした『何』なのかしら……」


 藤尾を見つめて、高桐は顎をさする。急に神御寮に吹き付ける夜風が強くなった気がした。好きものの性分がある高桐は、藤尾の肩に手を伸ばしかけたが、そのとき書司の格子から滑り込んだ『遣い』がひらりと開いた本の上に着地した。くだんのアオが放ったものらしい。そこには、蝶子の容態が回復した旨が簡素に走り書かれていた。

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