5
狙撃手はもはや隠れてはいなかった。
本殿のそばに生えた樟から滑り下り、ヒルコが姿を現す。年明けの予祝の宴で、高桐邸に紛れ込んでいた蛙化生だ。隣には矢をつがえたナンテンもいる。
「下御森神社」
「覚えていてくれてうれしいぜ。あのとき、そこの青虫化生にはいいようにされて、腹が立っていたんだ」
「どうして、真野の大神を討った。下御森神社は、真野の妻神の御足を取り返しに来たんじゃなかったのか」
言いながら、今回ばかりは蛇ノ井の見立ても外れたらしいと蝶子は確信した。夜見世に出された御足は、確かに真野の大神の妻神のものだった。ただし、御足を取り返しにやってきたのは下御森神社ではなく、夫たる真野の大神のほうだった。
それでは、下御森神社は? 何を狙ってここに来ていたのか。
『それで済めばいいけどねえ』
見世物が始まる前に、ナンテンは樟の上でそう笑っていた。
「まさか、最初から?」
「神御寮は鈍くていけねえな。下御森神社は、西国の芸座を取り仕切っている。旧玉垣神社の夜見世とてしかり。今宵の見世物で、真野の妻神の御足を出すよう命じたのは、下御森の『御社様』さ」
「真野の大神を呼び寄せていたと? 何故?」
「何故! もちろん、おまえと同じさ。『御社様』もまた、『はじまりの男神』を探している」
「下御森神社も……?」
そこで、蝶子は自分を支えていたアオの腕が解けたことに気付いた。
「アオ?」
「あーあ! ほら、言わんこっちゃねえ!」
ヒルコがけたけたと笑い出す。地にうずくまったアオの肩は青虫の血肉があらわになって、周囲に血液とも体液ともつかないものを広げていた。
「恐ろしいねえ、真野の大神の毒牙は。執念深いったらありゃしねえ」
「アオ!」
変化が解けかけている。半ば形を崩し、短い前脚のひとつに変わりつつある手を蝶子は握り締めた。アオの手はいつもよりずっと小さくなって震えている。化生にとって、真の姿を見られることは、生命を脅かされるに等しい恐ろしいことなのだ。蝶子はヒルコとナンテンからアオを背に隠すようにした。
「真野の大神は、『はじまりの男神』は死んだと言っていた。わたしたちに用はないはずだよ、ヒルコ」
「ほおお、勇ましいねえ、蝶子。こないだ見たときは細っこくて、男か女かもわからない餓鬼だったが、そうして強がっていると可愛く見えないこともない」
かかか、とヒルコは大口を開けて笑った。
「見たところ、うまそうな血肉をしているじゃないか、お嬢ちゃん。少し食べさせろよ」
ヒルコは黄色く濁った眸を爛々と光らせ、蝶子に顔を近づけた。とっさに九字を切ろうとしたが、警戒したヒルコが手首をつかむ。
「おっと。下手くそな九字を飛ばされちゃあ敵わねえ」
「離せ!」
「悪いな、そういう台詞はことさらそそられるんだ」
そのとき、微動だにしなかったアオが半ば化生となった姿でヒルコを威嚇した。ヒルコは大柄な体躯のわりに俊敏な動きで顔と手を引いたが、アオから滴り落ちた体液を浴びた服の裾は、瞬く間に腐り落ちて霧散する。
「こわやこわや。躾のなっていねえ化生はこれだから嫌になる。だが、これではっきりしたな。さっきまでほとんど動けなかった青虫化生が、おまえが手を握ったとたん、少なからず力を取り戻した。あやかしに命を与える女神の力だ。何よりおまえからはあの女神のにおいがぷんぷんする。おい、ナンテン。ちょうどいい。青虫化生を射ろ」
「なっ」
眉をひそめた蝶子に、ヒルコは下卑た笑いを浮かべた。
「どこまで治せるのか見てみたい。『御社様』に報告せにゃあならんからな。青虫化生が死にかけたら、もっともっと、血肉を与えるだろう?」
「ヒルコ!」
下劣にもほどがある。唇を噛んだ蝶子の背に、ナンテンがつがえた矢を向ける。本当にアオを射る気のようだった。冷ややかに眇められたナンテンの目は、だってあたしは先に忠告したよ、とでも言いたげだった。蝶子はアオの前脚をきつく握り締めて、傷ついた身体を背に庇う。
「おい、ナンテン!」
だが、つがえた矢が放たれる段になって、ヒルコが妙に焦った声を上げる。
「やめろ、下ろせ! 下ろせ!」
「はあ?」
大仰に顔をしかめたナンテンもまた、何かに気付いた様子で弓を下ろす。樟の枝にかけたナンテンの細足に蔦のようなものが絡みついているのが蝶子にも見えた。
「また会ったな、ご両人」
笑みを含んだ声が前方から投げられる。夜闇に颯爽と現れた男をみとめて、蝶子は呆れた。
「俺の顔は覚えているか? うん? そこの蝶子に舞姫をかすめ取られた憐れな邸主さ」
「高桐」
呟いた蝶子に、遅くなったな、と高桐は肩をすくめた。
「蝶子の放つ『遣い』はさっぱり使い物にならん。主人と体力が同じなのかな。途中でへばって倒れていたぞ」
力なく翼を落とした小鳥を袂から引き出して、高桐が喉を鳴らす。『遣い』の小鳥は、蝶子を見届けると安心したように震えて紙に返った。
「けっ、好かんな」
ヒルコがあばただらけの顔を歪める。
「御寮にゃ、何十の同志を殺されたかわからん。おまえも、やぁな臭いがするぞ。化生殺しの腐臭だ」
「ひとを害さなければ、こちらとて刃を振るったりはしないさ。だが、今日は俺もあちこち引き回されて機嫌が悪いから、手加減できずに蛙のできそこないを斬ってしまうかもしれんな」
「なんだと?」
できそこない、と言われたヒルコはこめかみに青筋を立てた。両者の間に緊張が張りつめる。しかし、高桐の腰に佩かれた刀を一瞥したと思うや、けっ、とつまらなそうに舌打ちをして、ヒルコが身を引いた。
「神斬りの刀に斬られるのはごめんだ。ナンテン!」
「わぁかってるよ」
ナンテンが弓を離すと、足に絡みついていた蔦が自然とほどける。
「行くぞ!」
吐き捨て、ヒルコが跳躍した。それを追って樟から飛び降りたナンテンと一瞬目が合う。だが言葉を交わすことはないまま、ふたつの影は連れ立って、玉垣山の作る深い夜闇に消えた。
「また、下御森か」
ふたつの影を見送り、高桐が嘆息する。
「蛇ノ井御寮官に言われてこちらに向かっておいてよかった。おまえの『遣い』は本当に役立たずだぞ。どうにかしろ」
「わかってるよ」
蝶子はアオの前脚を何度かさすったが、先ほどよりもどんどん冷たくなって、今は小さく震えるのを繰り返すばかりだ。
「高桐、短刀を持ってる? 常野丸は現のものはろくに斬れないんだ」
「あ? ああ」
高桐が寄越した短刀を受け取り、蝶子は刀身を己の腕に突き立てた。傷口から血が伝って、アオの血肉がのぞく傷口に落ちる。前脚をさすると、それはゆっくりとひとの指の形をかたどって、蝶子の手を握り返してきた。
「蝶子」
咎めるような声で高桐が呼ぶ。しかし蝶子は聞かなかったふりをした。
「ひとの血肉の味を化生に教えてはならない」
「アオが傷つくのをただ見ていろというの」
「俺ならそうするさ」
高桐の手が蝶子から短刀を取り上げようとする。身をよじろうとした蝶子は、不意に強い眩暈に襲われ、刀を自ら取り落とした。
「蝶子? おい、」
気付けば、蝶子はアオのかたわらに倒れ伏していた。いつ、どのようにして倒れたのか、それすらも定かではない。急に全身から血の気が引き始めたのがわかる。蝶子は背を震わせ、浅い呼吸を繰り返した。
ちょうこ。ちょうこ。
誰かが自分を呼んでいる気がする。
ちょうこ。ちょうこ。ちょうこ。
さまざまな声が大きくなったり小さくなったりしながら通り過ぎたが、誰の声なのかすらもよくわからず、やがて蝶子の意識は深淵に落ちた。
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