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 途中灯籠の灯りが消えた参道で何度か躓きそうになりながら舞殿へ続く鳥居をくぐる。再び押し寄せてきた腐臭に顔をしかめ、今や本殿の葺き屋根よりも大きくなった真野の大神の影を蝶子は仰いだ。


「真野の大神」


 しかし蝶子の呼びかけは、大神には届かなかったようだ。大神の足が地を蹴ったはずみに風が吹きすさび、蝶子は石畳に顔から転んだ。舞殿の屋根と梁の一部が折れ、うずくまる蝶子めがけて落ちてくる。


「――っ!」


 頭を抱えてぎゅっと目を瞑ると、横から腕をつかまれ、身体を引っ張られた。直後、蝶子がうずくまっていた場所に梁が落下し、半身を打たれた大神がうわんと呻いた。


「アオ」

「戻ってくるのが早くないですか」

「藤尾さんに任せられたから。状況は?」

「芳しくはありません」


 よく見れば、アオの上着はところどころが破け、襯衣の端に血が伝っている。


「真野の大神は温厚な山神であったと聞きますが。あらぶる神と化しましたね」

「さっき、神御寮へ遣いを飛ばした。まったく、大神が出てくるだなんて聞いていないよ」


 あやかしとあらぶる神々とでは、力の差は段近いだ。かつて神御寮に勤めていた蝶子の父親は、荒神のしずめに失敗して命を落とした。神御寮でも、荒神を相手取るときは、小隊を組むのが普通だ。


「でも今は『普通』なんて言ってられないね」


 蝶子は苦く笑った。


「わたしが真野の大神を捕まえる。アオは常野丸で首を狙って」

「……できますか?」

「女神に加護を乞うてみる」


 肩をすくめ、蝶子は刀印を組む。

 神御寮に勤める者はその仕事柄、総じて神霊に対する護身法を習うが、蝶子のそれは習い始めて五年に満たないこともあって未熟だ。できるか、とアオが案じたのはそのためだ。


(だけど、やるしかない)


 蝶子は深く息を吐き、壊した屋根の下敷きとなって身じろぐ大神を見据える。先ほどのようなアオと大神の一対一の斬り合いになってしまうと、蝶子の力では大神の速さについていけず、捕えきれない。身体を起こせずにいる今が好機と言えた。


 臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前

『臨む兵、闘う者、皆、陣列べて、前に在り』


 印を切ると、浮かび上がった結界が大神の右足を捕えようと蠢いた。だが、一寸早くに大神が大きく身体を跳ね上げさせたため外れる。――否。まだ結界の端が引っかかっている。間をおかず、蝶子は同様の九字を繰り返した。右足は外したが、代わりに尾を捕える。大神が雄たけびを上げた。前足を振り上げた大神の懐にもぐりこみ、アオが常野丸を薙ぐ。一閃。それは、きれいな弧を描いて、真野の大神の首を斬り落としたかのように見えた。


「アオ!」


 しかし、直後細い悲鳴を上げたのは、蝶子のほうだった。

 ちぎれた片腕が地面に落ちる。見間違えようもない、アオの腕だった。大神は落ちたアオの腕に握られていた常野丸に鼻先を近付け、それをアオの腕ごと砕いて食べた。


「なん――」


 それまで蝶子の目には影そのもののように映っていた真野の大神は、常野丸を飲み込むや、みるみる山犬らしい姿に変容し、血に塗れた鋭い犬歯をむき出しにする。


「アオ、アオ!」

「蝶子」


 真野の大神が次に目を向けたのは、かたわらに跪くアオだった。右腕を噛みちぎられたせいで、まだうまく立てずにいる。噴き出した血液がしとど地面を濡らして、アオ自身をも赤黒く染めていた。


「こちらに来てはだめですよ、蝶子。下がって」

「アオ」

「俺なら、平気です」


 どこからそんな自信が出てくるんだとなじってやりたかったが、咽喉が引き攣っているせいで声にならない。


「臨……」


 蝶子は今一度、九字を切ろうとした。けれど、先ほどと同じように唱えているはずなのに、ひとつの結界も形にならない。捕えられないのとは違う。集中が乱れているせいで、結界を作ることすらできていないのだ。


(この、やくたたず!)


 無茶苦茶に組んだ印のせいでよろけて地面に手をつく。泣き出しそうになるのを蝶子は唇を噛んでこらえた。真野の大神の目が細まり、こちらに対する優位を悟ってか、じっとりと舌なめずりをする。大神を仰ぐアオの眸は例によって感情が薄い。

 食われたらそれでよいとでも思っているのか。

 悔しくて、蝶子はこぶしを握った。


(させるか! させるか! させるか!!)


「真野の大神!」


 視界端に転がる『それ』に蝶子は気付いた。取り縋るように拾い上げた『それ』を大神めがけて投げつける。大神はひらりとかぶりを振ってよけたが、蝶子の声は聞こえていたらしい。立ち上がった蝶子へ鼻先を向け、忌々しげに目を細めた。


『それを返せ、娘』


 蝶子が腕に抱いているのは、真野の大神が言っていた妻神たる山犬の足だった。先ほど大神に投げつけたのは、御足がおさめられていた檻のほうだ。


「ええ、返します、真野の大神。あなたがこれ以上、この場を荒らさないと約束くださるのなら」

『奇異なことを言う。玉垣の地はもとはわたしのおさめる地ぞ』

「ならば、なおのこと。この土地を血によって穢すのはあなたのご意思ではないはず」

『先に穢したのは誰ぞ。荒らしたのは誰ぞ!』


 真野の大神の目には、長く手入れがなかったせいで朽ち果てた本殿、魚の死に絶えた小川、鉄道の吐く煙で病となった木々が映っている。憂いを帯びた両目で見据えられると、蝶子はそこに立つことすら苦しくなった。危うく座り込みそうになるのをこらえて、真野の大神を見上げる。


「それでもわたしはあなたがひとを襲う限り、あなたを阻まなければなりません」


 蝶子を見下ろす大神の目は硝子玉のようで、感情が読めない。しかし蝶子は引かなかった。大神はしばらく蝶子の腕の中にある妻神の御足を見つめていたが、呼気をひとつ吐き出すと、蝶子の背丈ほどの大きさに変じた。


『おまえには微かだが、娘のにおいがする』

「それは常野の祭神――『はじまりの女神』のことでしょうか?」

『女神……あの娘!』


 叫んだ大神が妻の足ごと蝶子の手を咥えた。鋭い犬歯が皮膚を破る感覚があり、蝶子は眉根を寄せた。焼けつくような激痛が走る。蝶子の血液を啜って、真野の大神は満足げにうなずいた。


『ああ、やはり。娘だった。これは娘の血肉ぞ。近頃見ないと思えば、こんなところにいたのか』

「ききたいことが……」


 立っていられなくなり、蝶子は真野の大神に手を差し出したままその場にしゃがみ込んだ。視界が真っ赤に染まり、意識が途切れかかる。しかしその意識を紙一重で繋いでいるのもまた、大神に咥えられた手から伝わる痛みなのだった。蝶子はぎりりと奥歯を噛んで、呻きを飲み込んだ。


「ききたいことが、あります」

『なにをだ? わたしの娘のよりしろよ』

「『はじまりの男神』をわたしは探しているのです。わたしの弟たちは、『あちら』に行ったまま、帰ってくることができないでいる。『あちら』と『こちら』を繋ぐ『はじまりの男神』の力が必要なのです。あなたなら、かの男神の行方を知っているんじゃありませんか」

『はじまりの男神とは、娘のつがいである男神のことか』

「その男神です」

『その男神なら、死んだ』


 山犬がようやっと口を開く。解放された手を引き寄せたが、大神の唾液と蝶子自身の血液にまみれて、ひどいありさまだった。


「死んだ?」

『五年前、男神は最後に残った神々を『あちら』へ渡らせた。男神はあれを最後の御渡りだと言った。ゆえ、もう帰ることはあるまい。だが安心しろ、娘のよりしろよ。かの神の一部はまだ、この地にある。『あちら』への扉を開くことも、ともしたら叶うやもしれん』

「それはどういう……」


 話しているさなか、空を裂く鋭い音が蝶子の耳を打った。直後、蝶子の前にたたずんでいた大神の身体が揺らいで、どう、と倒れる。


「真野の大神?」


 蝶子はかたわらに倒れ伏した大神の身体に駆け寄った。矢を射られたらしい。見慣れない形をした矢羽が大神の首に刺さっていた。だが奇妙なのは傷口の断面だ。赤い血肉はみるみる黒ずみ、腐り落ちていく。先ほどとは比べようのない腐臭が立ち込め、蝶子は呻いた。


(ちにく)


 肉塊がさざめいた。まるで肉塊そのものが意思を持った生き物のように蝶子の足首を捕えて、這い上がる。蝶子は尻もちをついた。


(めがみのちにく)


「……いや」


 肉塊を払おうとするが、反対に手にこびりつき、そこからまた這い上がってくる。


(ちにく、にく、にく!)


「来ないで、いやだ!」

「蝶子」


 這い上がるそれに飲み込まれる前に、大きな腕が蝶子を引き寄せた。


「アオ、アオ」


 片方だけの腕に蝶子は子どものようにしがみつく。蝶子の膚を這う肉塊は、アオの血液に触れるそばから消滅していく。一度大きく跳ねた肉塊に向けて、アオは左だけで組んだ九字を放った。肉塊が動きを止めた隙に、柄にわずかに残っていた常野丸の刀身で中央を穿つ。真野の大神の肉塊は、何度か痙攣を繰り返したが、やがて動きを止め、さらさらと崩れ去った。片腕だけでそれを見送るアオの横顔に一時、果敢ない表情が浮かんで消える。化生狩りの終わりの一瞬だけ、アオはときどき痛ましげな顔をした。ひとが何かを悼むときと同じ顔だと蝶子は思う。


「……平気ですか」

「九字」


 こちらをのぞきこんできたアオに蝶子が呟いたのは、別のことだった。ああ、と爛れた左手を見つめてアオが片頬を歪める。


「蝶子の真似をしました。やっぱりあまり、俺には向かなかったようですけど」

「神霊を祓うためのものだもの。アオには無茶だよ……」

「蝶子のほうが無茶ですよ」


 蝶子の爛れた両手を見つめて、アオは言った。だが、ふと別のものに気付いた様子で、蝶子を連れて横に飛びのく。ひゅん、と先ほど真野の大神が射られる寸前、耳を打ったものと同じ音が鳴る。背後の柱の残骸に飛んできた矢が刺さった。


「よーう。お久しぶりだな、おふたかた」

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