3

 檻の中で鳴いているものは、蝶子が知るどんな生き物ともちがっていた。嘴と翼は鳥を思わせるが、鳴き声は猿めいており、格子の隙間から突き出された足は山犬のようで固い毛に覆われている。


「まさかあやかし……?」

「――いや、たぶんちがう」


 しばらく檻を注視したあと、蝶子は首を振った。


「動物の死骸だよ。鳥と山犬をつぎはぎしたんだと思う。近くに傀儡師がいるのが見える? 傀儡芸のひとつだ」


 よくよく目を凝らせば、檻にぴったり寄り添うようにして黒子の男が立っているのがわかる。おそらく、動物の死骸を剥製にして縫い合わせたものを糸か何かで操っているのだろう。檻から突き出た銀灰の足を見つめて、蝶子は眉根を寄せた。


「あれがたぶん、『御足』だ。アオ」

「ええ」


 刀の柄に手をかけ、アオが周囲に視線を走らせる。旧玉垣神社には事前に何度かアオと足を運び、襲撃路を絞り込んでいた。旧玉垣神社は背面に玉垣山がそびえるため、自由に動ける場所はさほど多くない。ひとびとの前で御足を取り返すのだとすれば、舞殿の裏手へ身をひそめる他なかった。


「……いませんね」


 すばやくあたりをうかがったアオが呟く。表の人出に対し、舞殿の裏手には人影ひとつ見当たらない。付近の木陰も同様だった。拍子抜けする思いで、蝶子は舞台を仰ぐ。


「でも、それならどうしてナンテンは……」


 独白のさなか、不意に強い腐臭が押し寄せて、蝶子は口元を押さえた。


「蝶子?」

「においが……」


 かがんだアオが背に触れる。その袖をきつく握り、異臭について伝えようとするが、その前に吐き気がこみ上げてきた。ひとびとの歓声が耳鳴りとなってこめかみを刺し、ひといきれと寒気が混じってひどい気分だ。縋るような思いでぎゅっとアオの襯衣を握り締めていると、近くの篝火の炎が小さく爆ぜた。いつの間にか舞殿がすっぽりと巨大な影に覆われているのに気付いて、蝶子は息をのむ。


「いる」

「蝶子?」

「何かいる」


 朽ちた本殿の前に、巨大な何者かの足が降り立ったのを蝶子は感じた。『それ』が深く息を吸い込む。ひとびとの熱、ひといきれ、炎、そういったものに『それ』は引き寄せられるらしい。遅れて気付いたアオが『それ』を見上げた。


『なんとなげかわしい』


 と、そのものは言った。黒い眸は傀儡師に操られる屍に向けられている。そのものは山犬に似た頭を振って、息をついた。


『我が妻は死したか。かつてはこの地を治めたこの大神の妻であったにもかかわらず、死したのち、皮をへずられ、足を斬られ、鳥畜生ごときと縫い合わせられ、なんと嘆かわしきことよ』


 大地から直接身体に響く声は、悲嘆にくれるようでもあり、激しい怒りに打ち震えているようにも聞こえる。


「真野の大神ですか」


 アオが低く問うた。蝶子は真野の大神と呼ばれたもののすべてを見切ることはできない。かろうじて目に映せたのは、炎に照らされて落ちた巨大な影と、固い毛に覆われた山犬の足だけである。真野の大神は嗤った。


『わたしの名を呼ぶ者がまだこの玉垣の地におったとは。名を呼ばれたのは数十年ぶりだ』

「真野の大神」


 アオの腕を支えにして立ち上がり、蝶子は言った。


「わたしは常野蝶子と申す者。常野を総べる女神に加護を受けた、常野の血を引く者です。饗応もせず、貴神の土地を荒らし、お詫び申し上げます」

『常野の娘か』


 影は鼻を鳴らしたらしかった。


『話はよい。道を譲れ』

「いいえ、譲ることはできません。今宵はこのままお引き下がりいただきたいのです。わたしたちもまた、この場をこれ以上は荒らしません」

『ならぬ』


 真野の大神は首を振った。


『我が妻がそこにおる。皮をへずられ、足を斬られ、鳥畜生ごときと縫い合わせられた哀れな妻よ。妻は返してもらおう』

「後日、わたしがお返しいたします」

『ならぬ。今返してもらおう』

「話を聞いてください、真野の大神」

『――ならぬ!』


 真野の大神の足が地を蹴った。舞殿を照らしていた篝火の明かりが消え、屍を操る傀儡師へぬらりと光る牙が迫った。それを刀が受け止める。アオだ。


「蝶子。行ってください。俺が引きつけます」


 刀身を砕きかねない真野の大神の牙に頬を歪めて、アオが言った。


『こざかしい。青虫ごときがわたしに刃向かうと? こうべを垂れ、助力するが筋だろう』

「あいにくと、俺の主人は蝶子なので」


 アオは刀身をぐっと引き寄せ、真野の大神の咽喉を突いた。血液がぱっと噴き上がり、唸り声が上がる。がむしゃらにかぶりを振る真野の大神から常野丸を引き抜いて、アオはいったん距離を取った。慣れた所作で刀身を振って、纏わりついた血肉を払う。


「アオ!」


 何とか身を起こした蝶子は、舞殿に立つアオの背に向かって声を張り上げた。


「四半刻の半分」


 逃げ惑う観客を見据え、蝶子は言った。


「それでいい。食い止めろ」

「わかりました」

「……死ぬんじゃないよ」

「ええ」


 アオは薄くわらった。

 青虫化生は、本来穏やかで、争いを好まない気性のあやかしである。それなのに、常野丸を繰るアオはしなやかな獣のようだった。蝶子を守るために、蝶子が言うとおりに、アオは化生の身でありながら、化生斬りを振るう。そんなことをさせたいわけではないのに。


(だけど、今はそんな感傷に浸る暇はない)


「だめだ、山に向かっては!」


 刀を構えたアオに背を向け、蝶子は恐慌に陥っている群衆のほうへ走った。人波に流されてしまいそうになりながら何とか抜け、玉垣山の方角へ走り出そうとしていたひとびとの前に立つ。


「わたしは神御寮に所属する常野蝶子と申す者です。あやかしの保護は、わたしたち神御寮が請け負いました。あなたがたは南の石段から神社の外に逃げてください」


 今日は神御寮の正装もしてきていない。年嵩の男たちは、蝶子の姿を見て面食らった顔をしたが、「案内します」と有無を言わせぬ口調で告げると、引き返してくれた。


「蝶子ちゃん、無事?」


 境内に残った者を引き立たせて、南の階段へ促していると、前方から藤尾が息を弾ませて戻ってきた。どうやら先に誘導をしてくれていたらしい。


「階段の端は凍っているわ、気を付けて! 駆けないで、ゆっくり!」


 蝶子に代わって、藤尾がよく通る声でひとびとを南階段へ導いていく。


「ありがとう、藤尾さん」

「これくらいの仕事はするわよ。アオくんは?」

「残って、真野の大神を引き止めてる」


 いつしか旧玉垣神社本殿の上には厚い灰色の雲が立ち込め、雷鳴が轟いていた。


 ならぬ、ならぬ、ならぬ! 


 大神の怒りの激しさに地が割れるようだ。


「藤尾さん、ごめん。あとは任せていい?」

「蝶子ちゃん?」


 避難はおおかた終わり、あとは最後の一陣を連れて階段を下りるだけだ。本殿の方向を見据える蝶子の腕をつかんで、藤尾が首を振った。


「危険よ。ひとの身であらぶる神と対峙するのは。まして蝶子ちゃんは……」

「でも、アオがまだ残っているんだ」


 断じると、藤尾は困った風に眉をひそめた。ごめんね、ともう一度言って、藤尾の手を振り払う。蛇ノ井の妹とはいえ、御寮員でない藤尾に誘導をほとんど任せてしまったのは素直に申し訳ないと思っていた。でも、助かった。思ったよりも早く、アオのもとに戻れる。


「必ずふたりで帰るから」

「だめよ、蝶子ちゃん!」


 取りすがろうとした藤尾から離れ、蝶子は参道へきびすを返す。

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