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「何を見ているんだい?」


 綿飴売りと二、三会話をして戻ろうとしたとき、頭上から声をかけられた。その蓮っ葉な口調には覚えがある。樹上に腰かけた女を見つけて、蝶子は瞬きをした。


「ナンテン」

「何笑っているんだい。気味が悪いったら。しかしあんた、本当に神御寮の人間だったんだね」

「どうしてそう思うの?」

「あんたが御所の北門から入るところを見ていた。あやかしよけの封じがあるせいで、中までは入れていないがね。北門って言ったら神御寮だろう」

「つけてたんだ?」

「悪いか」

「いいや」


 ナンテンのことはアオが見つけていたので、蝶子にとっても驚くところではなかった。ただ、わざわざそれを言ってくるナンテンが面白いと思う。まるで蝶子に、おまえの身元は知られているから気を付けろと忠告しに来たようだ。


「案外、義理堅いひとなのかな」

「なんだって?」

「ううん、何でも。ナンテンこそ、御寮名簿に名前を見つけたよ。六海のほうでは、芸能の神様として祀られているのだってね」

「昔の話さ。今じゃ、六海でもあたしを祀る神社はない。あたしへ祈りにやってくる民もね。まあ、いいのさ。あたしだって六海の土地を離れて自由にやってる」


 さっぱりとした後腐れのなさで言って、ナンテンは身を起こした。枝に腕を絡めてこちらに顔を近づける。赤い唇からは、ナンテンのさやかな香りがした。


「神御寮がどういうつもりかは知らないが。あたしらの邪魔をするんじゃないよ。蝶子」

「そういうわけにもいかない。御貴神の御足ひとつで済むならお返しするけれど、ひとを襲うようなら、わたしもあなたがたを斬る」

「ふふん、御足ね。あんたらの腹は読めてるよ。まったく、それで済めばいいけどねえ」

「どういう意味?」

「知ーらない。あんたに何でも教えてやるほど、ナンテンは親切じゃあないのさ。声をかけたのはあんたがぼんやりしているのを見つけて、からかってやりたかっただけ。ねえ、蝶子」


 ナンテンの細枝を思わせる指先が蝶子の顎にかかった。ひんやりしたそれは顎から首筋にかけてをすっとなぞる。


「あんたはどうしてこんなにおいしそうな香りがするんだろう?」

「――蝶子」


 腕を強く引き寄せられ、蝶子は我に返る。アオだった。気付いて樹上へと視線を戻せば、そこには誰もいない。赤い唇からくゆるさやかな南天の香りも消え失せていた。瞬きを繰り返した蝶子を、アオはいつもの表情の薄い顔つきで、それでもじっと見つめた。


「誰と話していたんです?」

「いや……、何でもない」


 首を振ると、アオの大きな手のひらが蝶子の額にそっと触れた。目元すら覆い隠してしまえそうなそれに睫毛を震わせると、手がのいて、今度は額に額が触れる。アオは長身をかがめて、しばらく考え込むように額と額を擦り合わせていた。蝶子は呆けた顔でそれを見つめたあと、吹き出してしまう。


「アオ。ウグイスに入れ千恵されたでしょう」

「蝶子をもっと気遣えと。蝶子は俺とちがって、すぐに熱を出すし、倒れるので、いちいち考えていたら面倒くさいと返しておきましたけど」

「ウグイス、怒っただろうなあ」

「ええ」


 淡泊にアオがうなずくので、蝶子はあてがわれたアオの額を自分の額で小突いた。


「行くよ、アオ。夜見世が始まってしまう」


 アオは若干不服そうな顔をしたが、蝶子が促すと黙ってそれに従った。

舞殿では、前座にあたる予祝芸が早くも始まっていた。鉦タタキの外れた音に合わせて、仮面をつけた男女が軽快な拍子を踏む。わざと外したりよろけたりする男女に、客が笑い声と野次を飛ばした。


「綿飴屋の店主に聞いたけれど、最近このあたりで獣みたいな足跡を何度か見かけたらしい」


 綿飴を藤尾に渡して、蝶子も観覧席の後方に加わる。観覧席といっても、高桐の屋敷にしつらえられていたものとは異なり、舞殿の前に筵を敷いた程度の簡易なものだ。少し高くなったこの場所からは、全体を見渡せる。

ありがとう、と綿飴を受け取った藤尾がくすりと微笑んだ。


「抜け目がないね、蝶子ちゃん。話を聞いて回っていたの?」

「少しだけね。今回は時間がなくって、調べものもあまりできなかったし。神御寮はどうしてこう、いつも唐突に話を寄越してくるんだろう」


 蛇ノ井のにやにやとした面を思い出して、蝶子は毒づく。実際のところ、正面立ってぶつかる鳥野辺より、何を考えているのかわからない蛇ノ井のほうが蝶子は好かなかった。蛇ノ井のおかげで、アオも蝶子も処分されずに済んだのはわかっているが、『観察』というのはそのまま蝶子の味方になるという意味ではない。むしろ、蛇ノ井の意向ひとつで害ありと判断される可能性もあるのだった。


「兄さんは気まぐれものだからねえ」


 苦笑気味の藤尾に気付いて、あ、と蝶子は首をすくめる。似ている兄妹ではないので忘れそうになるが、蛇ノ井は藤尾の兄なのだ。


「ごめん」

「いいわよ。御足の出展を止めることはできなかったの?」

「一度掛け合ったけど、あやかしを狩るのが神御寮の仕事だろうと突っぱねられたらしい。確かに、御足は今日の夜見世の目玉のひとつであるし、出るかもわからないあやかしのために差し控えろというのも難しいんだろうね」


 亀山田の弱り切った顔を思い出して、蝶子は肩をすくめた。

 『神の不在』の見解を新政府が出して以来、神御寮の発言力もまた急速に衰えている。見解が出された背景には、煌帝や神御寮をはじめとした旧勢力を排除したいという新政府の思惑があったのだと聞く。五十年前の政変で、政権は煌帝が治める西都から、新興華族の集う東都に移った。煌帝は今や名ばかりのお飾りに過ぎない。蝶子はあまり認めたくはなかったが、神御寮がかろうじて御所の北に構えていられるのは、新政府の官僚と渡り合う蛇ノ井の手腕あってのことだ。


「そういえば、この神社に祀られていたのは、真野の大神らしいね。『はじまりの男神』のつがいたる女神の父神だって、兄さんから聞いたけれど」

「わたしも書司で調べていて知った。以前は玉垣山一帯をおさめていたらしい」


 記録によれば、真野の大神が最後に姿を現したのは三十年以上前。こちらに残した地神の妻神いとおしさに渡りを拒んだと伝えられ、玉垣神社には真野の大神とともに妻神も祀られていた。残念ながら、玉垣神社は廃社となって久しいため、それ以上の情報は集めることができなかったが。


「蝶子。来ました」


 それまで黙って予祝芸を見つめていたアオが、組んでいた腕を解いた。踊りをしていた猿面の一座が下がり、舞殿の中央に木で作られた檻がふたりがかりで運ばれてくる。

 ききききききききき……

 檻の内側から、金属を爪で引っ掻くような耳障りな鳴き声が聞こえて、蝶子は目を眇めた。

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