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 演目『胡蝶』は舞手泣かせの一曲といわれる。

 春の野を戯れる胡蝶のごとく変調し、一定の拍を刻まない足さばきは、修練を積んだ舞手でさえも踏み外すほどで、かと思えば、ナンテンのように習ってすぐに感性のまま、舞筋をつかんでしまったりもする。


 とん、てん、しゃん、かぁらりん

 さぁらりん、さぁらりん


 鉦タタキの音が緩慢になり、最後にナンテンが扇を下げて舞台に額づくと、一時の静寂のあと、観覧席からは感嘆の吐息が漏れた。続いて、石楠花、獅子も舞う。すべての演目を終えると、舞殿に薄紙の捻りが次々飛んできた。

 『おヒネリ』と呼ばれる演者への祝儀である。普通は小銭や菓子などが包まれているだけだが、舞姫に関しては別の決まりごとがあった。白いおヒネリに混じって、いくつもの茜染めをした薄紅のおヒネリが飛んでくる。中に包まれているものはなく、ただ、十文だの、百文だのという値だけが走り書かれていた。数字は今晩の舞姫の買い値を意味する。いちばん高かったものが舞姫を褥に招くことができるのだ。


『おヒネリには、高桐のものをあらかじめ仕込んである』


 ナンテンに毒蜘蛛を渡したとき、蛙化生はついでとばかりにそう言った。


『高い値をつけておいてやるから、安心しろ』


 眉間の近くをかすめたおヒネリがあり、投げた方向を盗み見ると、くだんの蛙化生のヒルコが観客に混じってにやりと笑っていた。おヒネリの相場はたいてい決まっているから、それに多少上乗せして、高桐の名を書き、投げたのだろう。身に覚えがなくとも、記憶にないなどと騒ぎ立ててれば無粋だとひんしゅくを買うのがこういった席であり、実際、ナンテンと蛙化生はいつもこの手口で『御社様のお達し』を成し遂げてきた。


「高桐殿、千文!」


 ヒネリを開いた兎丸が顔を輝かせて告げる。

結構な額を乗せたな、とナンテンは肩をすくめたい気分になった。ヒルコに問いただせば、年始祝いの酒代よ、とナンテンに半分をせびってくるにちがいない。

 周囲に冷やかされた高桐は失笑しただけで、何も言わなかった。兎丸がほかのおヒネリを開くが、無論それほどの値をつけたヒネリがあるはずもない。茶番に飽き飽きする思いで、ナンテンは髪を結っていた樟の枝を抜き払った。花挿を捧げ持ち、舞台を降りようとする。その足元に、薄紅のヒネリがまた落ちた。


「なんだあ?」

 

 兎丸が眉をひそめる。すでにナンテンの買値は決まったあとで、さらにヒネリを投げるなど無粋極まりない。兎丸は憤慨した様子で、薄紅の紙をいさかか乱雑に開いた。


「なん……?」


 その兎丸の顔が青ざめる。おヒネリに鼻がつくほど顔を近付け、周囲を見回して、またおヒネリを見た。


「どうした、兎丸。豆鉄砲でもくらった顔をしているぞ。ヒネリに見たことがない値でも書かれていたか」


 宴主の高桐がからかうように尋ねると、ようやく我に返った様子で兎丸は口を開いた。


「金百……」

「金だと?」

「金百! つけたのは常野蝶子殿!」


 そのとき、観覧席の左方で甲高い悲鳴が上がった。

 ずんぐりとした巨体が舞殿のある石庭に落ちてきて、鞠のように跳ねる。その顔をみとめて、ナンテンはぎょっとする。蛙化生のヒルコだった。大口からげえげえと体液を吐き出したヒルコは、微かに震えると、人間から巨大な蛙の姿に戻った。たちまち観覧席から声が上がる。


「化生だ!」

「化生が混ざっていたぞ!」

「皆の衆、落ち着け! 危険だ!」


 逃げ惑うひとびとに向け、高桐が制止をかける。

恐慌に陥りかけたその場を、鞘鳴りが一閃した。欄干からひらりと降り立った長身の影が、ヒルコめがけて刀を払う。篝火に半身が照らされたのは、先ほど蝶子とともに現れたあの青年だ。


「ひい!」

 

 ヒルコが巨体のわりには敏捷な動きで逃げ惑う。庭の隅まで追い詰められたヒルコは、己の丈の三倍ほどはある板塀に飛びついた。青年もまた、ためらいもなく、大蛙の丸い背中へ刀を投擲する。


「ヒルコ!」


 思わず、ナンテンは叫んでしまっていた。

 緑色の体液が噴き上がる。右脚ひとつを残して、ヒルコは消えていた。板塀の向こうで、湿った着地音が響く。ヒルコは持ち前の体力ですぐに立て直したらしい。てん、てん、と跳躍する音は次第に遠ざかっていった。


「逃げられましたね」


 青年が板塀に突き刺さった刀を抜くと、蛙化生の脚は砂のように崩れ去った。ヒルコの体液を払ってから、刀を黒鞘におさめて、青年が言った。


「追いますか、蝶子」

「いや、いい。どうせ、下御森(しものおもり)神社へ逃げ込むだろう。あそこはさすがに、わたしたちでも手出しができないよ」


 アオと呼ばれた青年に、小柄な少女がこたえる。観客たちが引けたせいで目に入ったが、そうでなければ、人ごみにすぐに埋もれてしまいそうな普通の少女である。確か、蝶子といったか。


(こりゃあ、風向きが悪くなってきたね)


 アオの持つ刀の鞘には、呪の書かれた布が結ばれている。ヒルコが恐れたことを考えると、ただの刀ではない。おそらく化生斬りと呼ばれる妖刀にちがいなかった。


(あたしもさっさと逃げるか)


 腰を浮かせたナンテンは、しかし、すぐ鼻先に突きつけられた切っ先に肩を跳ね上げた。


「この女。先ほど、蛙化生に向かってヒルコと叫びましたよ。仲間でしょうか」


 ナンテンは頬を歪める。まさか聞いている奴がいるとは思わなかった。


「し、知らないよ。聞き間違えじゃないのかい? お兄さん、怖いからその刀を外してくれよう」


 湿っぽく目元に手をあてがって泣いてみせたが、アオと呼ばれた青年は眸を眇めただけだ。諦めて、ナンテンは縋る相手を変えることにする。


「蝶子ちゃん! 助けておくれよ。あたしは死にたくないよう」

「蝶子。取り合う必要はありません。嘘泣きです」


 刃をあてがわれた首筋から血が滲む。やっぱり化生斬りだ、とナンテンはおののいた。普通の刀ごときでは、ナンテンの固い身体にそうそう傷などつけられないはずなのに。

 ナンテンは唇を噛み締めた。


「――兎丸さん。それで、わたしのおヒネリはいくらだった?」


 蝶子は不意に場違いなことを訊いた。

 未だ腰を抜かしている兎丸の手から薄紅のヒネリを取り上げて、高桐のほうへ示す。


「金百。どうかな、高桐。舞姫さんは今晩わたしが買い上げても?」

「まったくおまえたちは。呼ばれた宴でもおとなしくできないのか」

「ごめんね。性分なんだ」


 苦笑して、蝶子はきざはしを降りた。


「アオ、刀をおさめて」

「ですが」

「ひとまずわたしの言うことを聞きなさい。高桐のお客様が怖がっているじゃないか」


 蝶子が軽く腕に触れると、アオはひとつ息をついて従った。刀を鞘に納める音を聞いて、ナンテンは膝からくずおれる。その腕を蝶子がつかんで支えた。


「それじゃあ、ナンテン。今晩は常野蝶子があなたを買ったよ」

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