一章、予祝
1
とん、てん、しゃん、かぁらりん
さぁらりん、さぁらりん
年がひとつ明けた。
年初の儀で、小さな島国を総べる煌帝は今年を「
胡蝶は翅を模した薄布をつけて舞うひとり舞で、鉦タタキや笛フキの数も多いため、華やかで、もともと人気が高い。加えて今年は「菜虫化蝶」の年であるから、西都の金持ち華族は年の初めにこぞって蝶にまつわる宴を催したがるにちがいなかった。
金にせせこましく、あばただらけの醜男である兎丸は、座員に好かれてこそいなかったが、兎座の奏者は名うての者を多く抱えていたし、舞手はナンテンがつとめるのだから、華族が宴に呼ばないわけがない。宴に呼ばれれば、金はしこたま手に入る。
けれど、肝心の舞姫ナンテンの気は塞がっていた。
「あーあ」
ナンテンは化粧鏡の前で今日何度目かになるため息をつき、二階棚に置かれた虫かごへ目を向ける。竹ひごで粗く組まれた、いかにも露店などで売っている風の虫かごの中では赤子のこぶしほどの大きさがある蜘蛛がうずくまっていた。背に黄金の筋が入った、
「まったくあいつは、この兎座の舞姫をなんだと思ってやがる」
今晩、
蛙化生からもらった言伝――『「
よもや邸主の枕元ですやすや眠るだけの毒蜘蛛ではないので、翌朝は推して知るべしだ。『御社様のお達し』はこれが初めてでこそないものの、かたわらで眠る男が冷たくなっていくのを見ているのは毎度のことながらぞっとしない。蛙化生の持ってくる『御社様のお達し』は、相手の死を見届け、御社様に蜘蛛を返すところまで含まれているので仕方がなかったが、ナンテンはこの仕事があまり好きではなかった。
とん、てん、しゃん、かぁらりん
さぁらりん、さぁらりん
始まりを告げる囃子を聞きつけて、ナンテンは水に溶いた白粉を手に取った。蜘蛛をつづらに戻すと、手早く化粧などの準備を始める。
兎座は、西国を中心に回る芸座のひとつだ。普段は村々を渡り、見世物をして銭を稼いでいるのだが、年始や春例祭、秋の豊穣祭のときには華族の邸宅にも呼ばれて、予祝のための芸を披露する。華族相手は実入りがよいから、年始は年に数度といってよい稼ぎどきとなるのだった。特に、呼ばれたのが先帝と懇意にしていた高桐家とあっては、兎丸がことさら張り切るのもわかる。
(そう張り切ったところで、翌日には死者を出す、とんだ『予祝』だがね)
ナンテンは自嘲気味に口をすぼめると、化粧道具をしまって立ち上がった。
庭にしつらえられた舞台の周りでは、百はあろう篝火が燃やされており、宵であるのに昼のように明るい。とん、てん、しゃん、と打ち鳴らす鉦タタキの拍に合わせて踊り子が軽快な足取りで、かぶりを揺らす。『花笠』と呼ばれる、花をあしらった笠を掲げて踊る年明けにふさわしい演目だ。
庭に面した庇には出来合いの観覧席がもうけられ、宴主である高桐が踊り子の酌を受けていた。その顔を遠目にうかがって、ナンテンは舌打ちをした。高桐は三十路過ぎほどに見えたが、遠目でもそれとわかる美丈夫で、他の華族連中とちがって、どこか粗野な風すら感じる精悍な顔つきがまたいい。春めいた鶯色の直衣を纏った身体は、鍛えた鋼を感じさせた。
高桐新は、神御寮でも名の知れた御寮員である。
確かに、高桐の粗野さは、数多の修羅をくぐり抜けた者特有だ。
「嫌だねえ、好みの顔だったってのに」
とはいえ、毒蜘蛛を置くためには高桐の寝所にもぐりこむ必要があるわけで、こりゃあ少しは楽しめそうだ、とナンテンはぺろりと舌を出した。
「へえ、どの顔?」
「あれさ、あの中央に座っている奴」
「なんだ高桐か。今宵の舞姫に惚れられるなんて、あいつも隅におけないなあ」
一座の仲間の誰かかと思い、いつもの気安さで応じてしまってから、ナンテンははたとして、いつも間にか隣に立っていた小柄な人影を振り返る。
「……誰さ、あんた。ここは餓鬼が忍び込む場所じゃあないよ」
「あなたが今夜の舞姫さん?」
相手はナンテンの言葉を意に介した風もなく、別のことを尋ねた。
一見すると、まだ十五、六ほどの餓鬼だった。少年なのか、少女なのかわからない、中性的な顔立ちをしているが、着ているのは男物の渋紺の袷で、帯の結び方も当世の若衆流行りの椎の葉結びだった。吊り灯籠の明かりに照らされた膚はましろく、眸も黒というよりは淡い灰をしている。結い上げた髪には年の名を意識してか、蝶簪を挿していた。
「胡蝶を舞うのは、あたしだよ。あんた、さてはお呼ばれしたお客人のとこの子どもだろう」
「どうしてそう思うの?」
「そりゃあ、身なりがよいもの。あんたね、あたしと喋ってる暇があったら、あんたのところの親父に、ナンテンにいちばん高値のおヒネリを投げるよう言っておいておくれよ」
いかにも子ども然とした餓鬼を半ばからかうつもりで言ってやると、「じゃあ、考えておく」と相手はまんざらでもない様子でうなずいた。
「蝶子」
そのとき、俯き加減になっていた子どもの影から、長身の青年がまろび出た。人知れず、ナンテンは息をのむ。本当にまろび出たと言ってよいくらい、先ほどまで青年の気配がなかったのだ。青年は目を丸くするナンテンに無関心そうな一瞥をやると、「蝶子」ともう一度子どもを促した。
「行きましょう。高桐があなたを呼んでいます」
「高桐となんて顔を合わせ慣れているのだから、待たせておけばいいんだ。舞姫さん。今日は何を舞うの?」
「胡蝶さ。それに、石楠花と獅子も」
「胡蝶と石楠花と、獅子か」
蝶子、という名からすれば、おそらく少女のほうなのだろう。何故男物の袷を着ているのかはわからないが、そう思って見ると華奢な肩やほっそりした首筋は確かに少女らしい。
(うまそうな餓鬼だな)
胃の腑のあたりがうずいてきて、ナンテンはいけない、いけない、と舌を出した。
「蝶子」
「……わかったよ」
これ以上会話を続けても、青年の機嫌を損ねるだけだと思ったのだろう。蝶子は肩をすくめて、渋紺の袷を翻した。りん、と蝶子の動きに合わせて、微かな鈴音が立つ。椎の葉結びをした鼠茶の帯元にふたつの木鈴が結び付けられているのが見えた。
「邪魔をしてごめんね、舞姫さん。胡蝶、楽しみにしてる。それと石楠花と獅子も」
かたわらを通り過ぎたとき、ふわりと少女の首筋から淡い香が立ちのぼる。甘やかな花の――。ナンテンはつられて目を細め、そこで少女の背に立った青年が冷ややかな眼差しを自分に向けていることに気付いた。高桐とはまた異なる人形めいた美貌に湛えられているのは、ひそやかな警戒だ。
(まさか、ばれたか)
ナンテンは背筋を冷たくさせる。思わず目をそらし、次に顔を上げたとき、青年と少女は泡沫のようにナンテンの前から消えていた。
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