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「春虫。はるむし、いないの?」


 蝶子は首から提げた守り鈴を鳴らした。

 その日、蝶子が目を覚ますと、いつもはお薬の時間に決まって起こしに来てくれるクスコおばさんも、お赤飯を炊いていた丸じいも、蝶子の長い髪をくしけずり、着替えをさせてくれるりん子ちゃんも、みんないなくなっていた。


「ねえ、誰もいないの?」


 蝶子は仕方なく襦袢を結び直し、寝台から降りた。しばらく臥せっていたせいで足元がふらついたため、そばに立てかけていた杖を取る。この時期、決まって臥せってしまう蝶子のために、春虫とりん子ちゃんが用意してくれた特注の杖だった。寝台に寝たきりになると、蝶子の細い足はすぐに歩く力をなくしてしまう。


「春虫。りん子ちゃん。クスコおばさん」


 部屋を出て、廊下をさまよい歩く。窓帷(カーテン)は開いていたが、そこから見える空は、しろじろとした灰色で、今にも雪がちらつきそうだった。螺旋を描く大階段を、ことん、ことんと蝶子は不器用に杖を使って降りた。屋敷の踊り場に鎮座する振り子時計は夕方の五時過ぎを指している。


「丸じい?」


 いつもなら丸じいの鼻歌が聞こえるはずの一階の厨房にも人気はない。使い古したまな板にはお祝い用の青魚が出しっぱなしにされていて、触れてみると、すっかり鱗の表面が乾いていた。

 丸じいが大切な食材を出しっぱなしにしてどこかへ行ってしまったことなど今まで一度だってない。蝶子の幼い胸に、一筋の不安がよぎった。つまり、虚弱な蝶子に嫌気が射して、皆がいなくなってしまったのではないかという不安だ。


(ちがうもの。きっとみんなで、できたばかりの『ひゃっかてん』にお出かけにいったんだ。春虫は何度も行こうって言っていたし、りん子ちゃんにねだって連れて行ってもらったに決まってる)


 生来の虚弱から、十歳になっても引っ込み思案が治らない蝶子とちがって、春虫は新しいもの、珍しいものが大好きで、数年前西都にできた『百貨店』が東都にもやってくるのを知るや、行きたい、と目を輝かせていた。


(だけど、春虫は、最初は蝶子と行くんだって約束してくれた)


 春虫の双子の姉である蝶子はといえば、冬から春へと移り変わるこの時期は毎年体調を崩して、ひどいときにはひと月以上寝たきりになる。寝台に腰かけた春虫は少しつまらなそうではあったけれど、一緒に出かける日を待ってくれていたのだった。


「春虫。どこにいるの? どうして隠れているの?」


 泣き出しそうになってしまって、蝶子は唇を引き結ぶ。

 常野は、古くから常野山の裾野一帯をおさめる大屋敷だ。端から扉を開けて見ていったが、春虫はおろか、クスコおばさんや丸じい、りん子ちゃん、ほかにもたくさんいるはずの使用人たちすら、ひとりも見当たらなかった。屋敷を端から端まで歩き、最初に降りてきた大階段に戻る頃には、蝶子の息は上がっていた。


「本当に誰もいないの……?」


 その場に座り込みそうになって、初めて正面にたたずむ外扉の存在に気付く。蝶子は幼い頃から屋敷にこもりきりで、春虫のように使用人の子どもたちと庭をかけずり回って遊んだ記憶がほとんどない。常野神社への月のお参り以外で外出したこともなかったから、『お外』はひとりでは行けない、隔たれた場所のように思っていた。


(でも、確かめないと。わたしは春虫のおねえさんなんだもの)


 意を決して、蝶子は銀色のノブを回した。

 扉を開くと、とたんに冬の外気が頬を刺す。昨晩降った雪が玄関に面した庭に薄く積もり、石英に似た輝きを放っている。


「春虫いないの? いるなら、返事して」


 雪の庭に人影はなかったが、並ぶ姥桜の下に小さなものが落ちているのを見つけた。


「春虫」


 蝶子と対になっている、春虫の守り鈴だった。亡くなった母親が唯一遺してくれたもので、藍と紅花を重ねて染めた組み紐に通され、木のごつごつした表面には不思議な文様が描かれている。守り鈴が落ちているということは、春虫は確かにここにいたのだ。


「はる……」


 ひゅう、と混ざった微かな呼気に気付いて、蝶子は口をつぐんだ。姥桜の下の影になったあたりから、何ものかが蝶子を見つめている。視線の気配は感じるのに、しかし、そのものに「目」はなかった。


(けしょう)


 一見すると、大きな芋虫のように見える。老年の姥桜に劣らない巨体を大木の根元に横たえ、開いた口は蝶子をうかがっている。先ほど感じた呼気は、ここから発せられていたらしい。すぅ、すぅ、とせわしなく空気が行き来して、芋虫の盛り上がった背中がわずかに上下する。

 蝶子は息をのんだ。芋虫の背に深い傷が走っていたのだ。息をするだけでも痛むのか、芋虫は身体を小刻みに震わせ、むずがるように丸めた。やがて力尽きた様子で地面に突っ伏す。身じろぎをやめた身体におそるおそる近付くと、溢れ出した体液の発する腐臭がひどくなった。


「あなた、怪我をしているの?」


 かたわらにしゃがみこんで、尋ねる。ふつうに考えれば、悲鳴を上げて逃げ出してもおかしくないはずなのに、蝶子にはこの芋虫がさほど恐ろしいもののようには思えなかった。蝶子は『化生』を見たことはないけれど、数年前に死んだ父親ははぐれ化生を保護する神御寮という国家機関に勤めており、またアルキ巫女の生まれであった母は、出会った化生の話をたくさん残してくれたので、まったく知らないもののようには思えなかった。


「あなた、春虫たちを見た?」


 思いついて尋ねてみたが、芋虫化生はじっとうずくまるばかりで蝶子の言葉を理解した風ではない。きっと答えるだけの元気もないのだと気付いて、蝶子は自分を恥じ、芋虫化生をのぞきこんだ。


「もう大丈夫だよ。高桐(たかぎり)にいさんを呼んでくるね。蝶子はよくわからないけれど、楽浪にいさんならきっとどうにかしてくれると思うから」


 歳の離れた幼馴染のことを話し、蝶子は化生を励ました。化生はさしたる反応も見せず、ただ傷ついた背を上下させている。もしかしたら言葉が通じていないのかもしれないと思って、蝶子はそっと芋虫の前脚に手を伸ばした。臥せったとき、春虫やりん子ちゃんがしてくれるように手を握ってやれば、芋虫も安心するだろうと思ったのだ。けれど、小さく不格好な脚に触れるや、巨体が大きく跳ねて、蝶子の手を噛んだ。固い歯が皮膚に食い込む。蝶子は悲鳴を上げた。


(ヒモジイ……ヒモジイ……)


 赤子が弱々しく泣くような声が化生の呼気に混じって伝わってくる。


(ヒモジイ……)


 目はおろか、顔を持たない芋虫化生がどんな表情をしているのかは蝶子にもわからない。化生は蝶子を食べようと思いついたのかもしれないが、そうするにはあまりに噛む力が弱く、蝶子の皮膚から流れた血を啜るくらいしかできずにいる。少し啜ってはまた吐き出し、怯えた風に啜ってこようとする化生を蝶子は瞬きもせずに見つめていた。


「おなかがすいて、くるしいの?」


 何故かこのとき、次にするべきことが蝶子には誰に教わったわけでもないのにわかった。もう声を発する力もなくなったのか、芋虫はしゃぶっていた蝶子の手を離し、雪の解けかけた草むらに頭を横たえる。体液にまみれた芋虫の表面がうっすらと発光し、大地に溶けるかのように輪郭を崩し始めた。たまらず、蝶子は芋虫の頭にすがりつく。


「だめ。死んでしまってはだめ」


 蝶子は芋虫の開いた口に、自ら手を差し出した。手のひらを伝った血ががらんどうの口腔に吸い込まれる。こたえてはいけないよ、と春虫の声が脳裏でやんわりと制止をかけた。化生の声にこたえてはいけない。蝶子。


「死んでしまうのはいやなの。『アオ』!」


 その名を口にしたとたん、薄れかけた芋虫の身体に血が通い、膚がつやつやと精気を帯びて、内側の鼓動が強く脈打ち始めるのを蝶子は聞いた。代わりに、蝶子の身体からは急に力が抜けてしまって、立っていることもままならず、草むらに倒れ込む。頬に触れる雪の冷たさに目を細めると、細い腕が蝶子の身体を抱え上げるのがわかった。先ほどまでの小さくて不格好な前脚ではない。それは二本の、ひとのかたちの腕をしていた。


 *


 例大祭に近い春分の頃である。

 常野家の若き当主であった春虫、使用人たちが一度に失踪する事件が東都をつかの間賑わせた。木の花神社の巫女姫に尋ねたところ、現にはいないようだと首を振ったため、これは化生の仕業か神隠しでは、とまことしやかに囁かれた。彼らの行方はよう知れず、たったひとり生き残った少女は春虫の失踪から一年後、常野の家督と位を継いで、神御寮のある西都へ移る。

 常野蝶子。

 あやかし憑きの少女御寮員、とひとは呼ぶ。

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