蝶々と青虫

序章、神隠し

1

 幼い頃、弟の春虫はるむしがこの中つ国の秘密を明かすようにそっと教えてくれた。


「かみかくし?」


 瞬きをした蝶子に、春虫は蝶子とうりふたつの顔に無邪気な笑みを載せて、「そうだよ」とうなずく。季節柄、身体を起こせないでいる蝶子の額に手を置いて、春虫は寝台の端に軽く腰掛けた。


神御寮かみごりょうの書庫でひいおばあさまの名前を見つけたんだ。常野とこのからよそへ嫁ぐ前日にさらわれてしまったのだって」

「なにに?」

「庭のくすのき」


 春虫の淡灰の眸に、謎めいた光が閃いた。


「くすのき」


 蝶子は寝台の置かれた窓辺から、外の庭を見やる。もう三百年は生きている大くすのきは姥桜たちにまじって、風に青緑の葉を揺らしている。


「……ほんとうに?」


 蝶子は顔を蒼白にして、春虫を振り返った。一時目を合わせたのち、春虫が勢いよく吹き出す。


「蝶子。ひどい顔をしているよ。蝶子こそ、神隠しにあってしまいそう」

「もう、からかったのね。春虫」


 蝶子は頬を膨らませたが、けらけらと笑うばかりで春虫のほうはこたえない。一年前に六海の地で死んだ父親のあとを継ぎ、神御寮で働き出した春虫は登庁用の指袴をつけていた。赤い袖括りの緒を翻して、春虫は蝶子の髪に絡んだ花びらをつまむ。


「庭のくすのきはたぶん、ひいおばあさまに恋をしていたんだろう」

「春虫?」

「おいで、と化生けしょうが言う。行くよ、とひとがこたえる。化生の声にこたえてはいけないよ、蝶子。ひいおばあさまのように、こちらに帰れなくなってしまうから」


 それでは、ひいおばあさまは化生の呼声にこたえたというのだろうか。

 首を傾げた蝶子から春虫の指が離れ、つまんでいた花びらがくるくると絨毯の敷かれた床に落ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る