第22話 議論
佐々木は、TK大の最寄駅の地下鉄の改札を出た。
朝9時前。駅前には多くの人が歩いている。ベビーカーを引いた親子連れや、年配の方。そして、TK大の学生と思われる人たち。
7月末。計算がうまくいかなくなってから2週間以上が経っている。外はうだるように暑い。
学生達はリュックを背負っていたり肩掛けのカバンを持って歩いている。一人で黙々と歩く人と、2、3人で固まって歩いている人たちがいる。
色の濃いシャツを着た人が多い。色の濃いシャツを着ている人のうち、チェック柄のシャツを着ている人の割合が高い。
佐々木は駅そばの信号を渡ると、すぐにTK大のキャンパスに内に入った。近くの警備員詰所のようなところの隣には、大きな構内案内図がある。佐々木はその看板から理学部の建物を探す。
研究がうまく進まなくなってから、佐々木はまだ瀬田に相談していない。今日は、佐々木が暗黙の仮定に気がついた先行研究が引用している論文の著者に会う予定だ。佐々木が自分の研究に使おうとしていた理論は、この著者が最初に提案したもので、日本人だった。例の先行研究の著者はイギリス人教授で、佐々木はメールをしてみたのだが、メールでのやり取りがうまくかみ合わなかった。佐々木は、メールの文面が悪く相手の気分を害してしまったのかもしれない、としばらく落ち込んだ。
今日会う著者の津村光太郎は、東京都の西側にあるTK大の教授だった。佐々木が事前に調べたところ、50代だった。『あなたの理論について聞きたいことがあるので、訪問しても良いでしょうか』と聞くと、『来ても構いませんよ』という返事が返ってきた。佐々木は鵜堂研の先輩たちに津村のことを聞いてみたが、皆あまりよく知らなかった。鵜堂研で超伝導をやっているのは佐々木だけ。超伝導の分野ではよく名前の知られている教授だが、他の人たちは知らなかったようだ。
キャンパスの中をしばらく歩く。
建物はどれもどっしりとしている。普通のビルのような建物の他に、パイプなどが飛び出ている建物もある。工場のようだ。『液体窒素』と書かれた巨大タンクなどがある。
佐々木はスマートフォンの地図で方角を調べながら、理学部の津村のいる建物を探した。
ガラスの多い建物を見つける。ここに物理学科の先生方がいるらしい。時計を見ると、約束の時間の5分前だった。ちょうどいい時間だ。
佐々木は、ドアをくぐり中に入る。
「初めまして。T大博士課程1年の佐々木透です」
「初めまして。津村です」
佐々木は津村教授の部屋にいた。
部屋はきれいに整頓されている。ドア側の右手には、秘書と思われる女性がパソコンの前で何かの作業をしていた。佐々木が入ってきた時、佐々木の方を一瞬見たが、その後すぐに作業へと戻っていた。
津村はスーツを着ており、ネクタイもしっかりと締めていた。髪の色はロマンスグレー。人間工学でよく考えられていそうな、頭当てのついた高級そうな黒い椅子に座っている。
「今日の要件は、2008年の私の論文についての質問だったね。セミナー室へ行こうか」
津村は立ち上がり、ドアへと向かった。佐々木もそれについて歩く。
津村の背は高い。180センチ以上はあるようだ。きっちりと着こなしたスーツで、きびきびと廊下を歩く。
廊下の左右には、それぞれの研究室の研究がポスターやパネルで表示されている。液体窒素の小さな容器を運ぶ人とすれ違った。
津村が右手の部屋のドアを開けたので、続いて入る。ここがセミナー室らしい。左側にホワイトボードが3枚あり、所々に観葉植物が置かれている。中央のホワイトボードの前にはプロジェクターが置かれている。天井を見るとスクリーンが下りてくるようになっていた。
「一時間ほどなら時間を取ることができますよ。私の理論に私の研究室以外の学生が興味を持ってくれるのはとても嬉しいことだ」
津村が腕時計を見て言う。
佐々木はリュックを近くにあった椅子に置き、印刷しておいた津村の論文を取り出す。
「ありがとうございます。メールでもお伝えしていましたように、この論文の...」
30分後。
「これによって、理論の背景にある種の対称性が存在することがわかります。したがって、この対称性を破らない範囲での摂動をすることが可能で...」
佐々木は冷や汗を垂らしながら、ホワイトボードの前で立っていた。内心では唸っている。津村は、ホワイトボードの前で佐々木に向かって議論している。すでに3枚のホワイトボードは数式で埋め尽くされ、津村は次の議論をするために最初の議論の数式を消している。
難しすぎて、わからない。
佐々木は、自分では津村の理論をわかっているつもりだった。
今回津村に聞きに来たのは、津村の理論の要点を自分なりに整理した結果を聞いてもらい、この論文で仮定していることを全て明らかにすることだった。この論文についてよく理解することで、さらなる拡張のためには何をすればいいか、自分が今取り扱っている超伝導体ではどのようにするのが良いか、がわかるだろう、と考えていた。津村に共同研究のお願いをしているわけではないので、理論の拡張については今回は話さないつもりだった。
2008年の津村の論文はよく読み、理解もしていたつもりだった。しかし、それはただのつもりだったことが、わかってしまった。佐々木は、津村の論文で引用されているすべての論文を理解していたわけでは当然なかった。そして、津村の論文ではある先行研究で得られた知見が背景として使われていた。佐々木は論文の字面だけを追っかけていただけで、本文の何気ない前提条件の記述について深く考えていなかった。
「で、ここの項なんですが...。佐々木さん?」
「は、はい」
「ちょっとぼうっとしていますか?大丈夫ですか?この部分、わかりにくいでしょうか」
津村が数式を書く手を止めて佐々木に聞いた。
「い、いえ。あ、はい。ちょっとわからないです」
佐々木がそう言うと、津村はホワイトボードマーカーを置き、ホワイトボードのすぐそばの椅子に座った。
「うーん、ここがわからない、となると...。えっと、では、ちょっとやり方を変えますね。佐々木さん、ペン持ってもらえますか?」
「あ、はい」
佐々木はホワイトボードの下のトレイのような部分においてあるペンを手に取った。
「佐々木さん、あなたの前提知識がどのくらいあるか知りたいので、正方格子の最近接ホッピングを持つ強束縛模型の電子の状態密度のエネルギー依存性のグラフのプロットをしてもらえますか?」
「あ、はい」
『強束縛模型の電子の状態密度のエネルギー依存性』なら佐々木もよく知っている。ホワイトボードに向かって描き始めた。
「ええと、1次元、2次元、3次元の順番で三つ書いてもらえますか?」
佐々木が描いている途中で、津村が言う。それを聞いて、佐々木の手が止まる。
三つ?
佐々木が知っているのは3次元の結果だけだ。その他の次元については、覚えていない。
「佐々木さん、覚えていないようでしたら、そのままここのホワイトボードを使って導出してしまって構いませんからね」
25分後。
佐々木はホワイトボードの前で四苦八苦していた。
津村から言われた三つのグラフは、まだ描けていなかった。
津村は、腕を組みながらその様子を見ている。テーブルにはコーヒーカップがある。佐々木が数式と格闘している間に、いつの間にかコーヒーを淹れて戻ってきたようだ。
「佐々木さん、この三つのグラフをすぐに導出して描けないのは、ちょっと問題ですね」
「はい、すいません」
「鵜堂さんのところの学生さんは皆優秀だから、と思って、今日は不明な点がないように厳密に議論しましたが、この感じだと、半分も理解できていなかったのではないですか?」
そう言って、津村はコーヒーカップに口をつける。佐々木はペンを持ったまま、津村を見ていた。冷や汗なのか何なのか、佐々木は汗をかいていた。
「はい、すいません」
「この理論を拡張して研究をしたい、とメールでは言っていましたね」
津村はカップをテーブルに置く。
「はい...」
「佐々木さん、君は、このような手計算の研究より、数値計算の方が向いているんじゃないかな?」
そう言いながら、津村は腕時計を見る。
「お、そろそろ時間だ。私は次の用事があるので、行かないといけない」
「は、はい」
「今日は来てくれてありがとう。ホワイトボードはそのままで大丈夫だ。鵜堂さんによろしくと言っておいてください」
「は、はい」
そして津村は椅子から立ち上がり、もう一度腕時計を見てから、セミナー室を立ち去った。
佐々木は津村のスーツの後ろ姿を呆然と見ていた。
ホワイトボードには、二つしかグラフがなかった。
最寄駅への帰り道。
佐々木は気分を落としたまま歩いていた。
ここ2週間全く進捗がない。
津村との議論も、有意義なものにはならなかった。
いや、有意義ではあったのかな、と佐々木は思う。自分の能力のなさがはっきりしたのかもしれない。
雨が降ってきた。
佐々木はリュックから折りたたみ傘を取り出そうとしたが、リュックの中に傘はなかった。
仕方がないので、リュックを頭の上に乗せて歩く。
修士課程の間は、佐々木はずっと瀬田に頼りきりだった。
今回の新しい研究では、瀬田に頼らず自力でなんとかするつもりだった。
しかし、自分がわかっていないことが、わかってしまった。
「どうすれば...」
佐々木は雨の中、つぶやいた。
雨はどんどん強くなっていき、最寄の地下鉄の駅の入り口に来た頃には、土砂降りになっていた。
(続く)
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