第21話 導出

 7月初旬。佐々木は院生室で、計算用紙の前で腕組みをしていた。パソコンの液晶モニターにはたくさんのタブが開かれたインターネットブラウザが表示されている。キーボードはモニターの奥へと押し込まれていて、スペースが確保されている。そのスペースには紙が積み上がっている。計算用紙として使っている紙はA4サイズで、右下にT大学理学部物理学科という文字が入っている。この紙は大学院生が使える備品室に大量にあり、理論系研究室にとってはなくてはならない道具だ。

 佐々木の目の前にはまだ何も書かれていない計算用紙、右と左には数式で埋め尽くされた20枚以上の紙がバラバラに散らかっている。

 全部佐々木が今日書いたものだ。

 午後8時。夕食は昼間に買っておいたおにぎり二つで済ませた。朝10時に院生室に着いてから、もう10時間経っている。外出は昼に購買に行っておにぎりを4つ買って戻ってきた30分位で、それ以外の時間はずっと院生室にいる。ほとんど座ったままで、立ったのはトイレの時とコーヒーを入れた時だけだ。昼食も夕食も自分の席で食べた。

 今週は、研究の計算が進んでいない。


 アメリカボストンでの国際会議は残りの日程も無事に終わり、帰りはトラブルなく日本に帰ってきた。

 ポスターバズーカは、結局三日目にホテルに届けられた。発表日は二日目だったので、待っていたら間に合わなかった。クリスのポスター分割印刷作戦のおかげで、無事に初の国際会議ポスター発表を乗り切ることができた。

 もう必要なくなったポスターは一度も取り出さないまま、空港で帰りの便で預けた。そして今度はちゃんと成田で出てきた。

 瀬田との共同研究は修士論文としてまとまり、英語論文も投稿することができた。論文はまだ投稿中で、結果はわからない。

 以前は毎週一回は瀬田のいるA研究所で議論していたが、今はしていない。瀬田が、「博士課程の間に自分で研究テーマを見つけられるようにならなければならないとね。とりあえず色々とやってみたら」と言ったので、現在佐々木は試行錯誤をしていた。

 佐々木は、この前の国際会議で聞いた実験グループの話が面白かったので、それを説明するような理論を作ろうとしている。

 しかし、行き詰まっている。

 2Bの鉛筆を鉛筆削りで削りながら、周りに散らばっている計算用紙を眺めた。


 論文を投稿してからそろそろ一ヶ月が経つので、もうそろそろ査読結果が返ってくるはずだ。

 理系の研究者の研究プロセスは、研究し、その成果をまとめ、英語で論文を書き、それを論文誌に掲載されることで完結する。実験や計算だけをして、国内の研究会や国際会議で発表するだけでは、ほとんど研究業績にならない。論文が英語論文誌に掲載されるためには、査読と呼ばれる、同分野の研究者の匿名の審査を通り抜けなければならない。論文を書いていない研究者は、引退しているのとほぼ同義だ。大学の先生が、講義や卒業論文や修士論文の指導はしても論文を書かないのであれば、その先生はすでに研究をやめているとみなされる場合がある。どんなにテレビに出たり著書を書いても、第三者審査である査読を経ていない研究成果は、何の根拠もないものとして扱われる。

 そのため、佐々木は、『研究のプロセスを完成できる』ことを示すために、査読付きの論文を論文誌に掲載させなければならない。それができて初めて、研究者社会での運転免許である、博士号、を取得できる。

 T大理学部物理学科では、博士号取得のために必要な論文数というものはないが、他の多くの大学では最低必要本数が設定されている。その場合は、博士課程の3年間の間に規定以上の本数の論文を掲載させなければ、博士号を取れない。規定の本数は大学にもよるが、大抵2本、多いところで4本くらいだ。なお、T大理学部物理学科で本数の規定がないのは、「私たちT大教授が博士号取得にふさわしいかどうか判断すればいいのであって、他の権威は必要ない」という事ではないか、と院生たちの間では囁かれている。

 佐々木は、博士課程在学中に2本だと本当に最低限という感じがするので、もう少し出したいと考えている。もちろん、論文は数だけが大事なわけではなく質が大事なことは佐々木もよくわかっているが、生産性が高いことは悪いことではないはずだ。

 ということで、現在2本目の論文にするための研究をしている。が、行き詰まっている。



「おとといまでは良かったんですよ。計算もいい感じに進んでいて、このまま最後まで計算しきれるかなーと思っていたんです」

「なるほど」

 午後9時。佐々木は院生室でコーヒーを飲みながら、内海と話をしていた。佐々木が朝来た時には内海はすでにこの院生室で黙々と研究をしていて、そして今もこの部屋にいる。佐々木は大分ぐったりしてきたので、一緒にコーヒー飲みませんか僕が入れますので、と内海を誘ったのだった。

 内海は院生室の真ん中にある一人用ソファに座って、足を組んでコーヒーを飲んでいる。

「そして、昨日、先行研究の論文の式の一つ、多分自明だからって自分で導出してなかった式があるのを思い出して、一応やっておかなきゃってその数式の導出をしていました」

「うん」

「その式が、微妙に導出できなかったんです。惜しいんですよ。ある項が絶妙にキャンセルして消えると思っていたのに、絶妙にキャンセルしなくて少し余計な項が残っちゃうんですよ。いろんなやり方でやってみたんですが、微妙に残るんです」

「なるほど」

「そして、今朝、気づいたんです。この数式のキャンセルする項、自分の式変形でも『先行研究でも無いんだから』と無視していたことに。そして、自分の式変形でその項を無視していいかどうかは、キャンセルする条件を知らないままではわからない」

「それはそうだ」

「それで慌てて今日の昼過ぎまで先行研究の式を導出していました。そして、それはうまくいきました」

「それはよかった」

「そして式が導出できるようになった結果、その式が成り立つための物理的な仮定をはっきり理解しました。先行研究の式が成り立っているのは、著者が書いていない暗黙の仮定が入っていたからでした。そして、その仮定は今回の対象としている超伝導体では明らかに成り立っていなくて、自分の理論ではその式変形が使えないことがわかりました」

「あらあら」

 内海は言葉少ないが、コーヒーを飲みながら佐々木の話を真剣に聞いてくれている。

「で、昼におにぎりを買いに行って、おにぎりを食べながら最初から慎重に自分の計算を追い直しました。そしたら、全然ダメだってわかったんです。先行研究で使ってた式変形を無意識に使っていたので、使っちゃいけない仮定を無意識に使っていることになっていて、全部パーです」

「パー」

「パーです。で、夕ご飯としておにぎりを食べて、また最初から導出を開始したのですが、先行研究の式変形が使えないために難易度が跳ね上がりまして」

「なるほど」

 佐々木はコーヒーを飲み干す。

「どうやって前に進んでいいかわからない感じです。道が何もなくて、どの試行錯誤も全部崖に落ちるルートって感じです」

「それは大変だ。瀬田さんに相談してみたらどうだい」

 内海はそう言いながらコーヒーを飲み終わり、立ち上がる。部屋の隅にある流しでコーヒーカップを洗い始めた。

「自分でやってみます!と言った手前、まだ言いづらいんですよね。元々はめどがたってから言おうと思っていたのですが。ほぼ計算がパーになったので、まだしばらくは相談できない気がします」

 内海はコーヒーカップを洗い終わり、布巾でカップを拭いている。佐々木も流しに向かい、マグカップの水洗いを始める。

「今日丸一日無駄にしたって感じです。ぐったりですよ」

「まあ、今のうちにその仮定の存在に気がつけたのは良かったんじゃないか? これに気がつくのが論文を書き始めた後だったり、投稿した後だったり、査読者に指摘されたり、だったら、もっと辛いだろうし」

「確かにそれだと辛くて吐いてしまいそうです」

 佐々木も洗ったマグカップを布巾で拭く。拭いたカップは佐々木の机の上に置く。

 大きく背伸びをしてから、2Bの鉛筆を持ち、本棚に無造作に積み上がっている新しい計算用紙の束を取り出し、計算用紙を一枚はがす。右上に今日の日付と、数字の24を書く。今日の24枚目、という意味だ。

「前から思っていたけど、佐々木君は鉛筆なんだねえ」

 佐々木が振り向くと、内海が佐々木のすぐ後ろに立っていた。

「『紙と鉛筆での研究』、って言うならやっぱりシャーペンじゃなくて鉛筆かなーと思いまして。最初は百均の鉛筆を使ってみたのですが、全然ダメでした。最近は、一本100円の日本製の鉛筆を使っています。線が太いし書き味もいいし積分記号∫が書きやすいですよ」

「なるほど。僕は博士課程に入ってからは万年筆を使っているよ。ちょっと高いけど、書き味が独特で、これはこれで数式が書きやすいんだ」

「万年筆も憧れます。でも、高いですよねえ」

「そうだねえ。でも、一本100円の鉛筆も、高いでしょ」

「そうですね」

 二人して笑った。



 午後11時。

 佐々木はまだ院生室にいる。あれからさらに3枚ほど計算用紙を消費したが、一向に計算のめどが立たない。佐々木は『これのめどが立つまでは帰らない』、と考えていたが、このままだと徹夜になってしまう。

 そして、たとえ徹夜をしたとしても、めどが立つかはわからない。

 理論研究で使う計算は、小中高の数学のように、教わったやり方を使って試行錯誤していればいつかは解けると問題とは違う。

 そもそも、それが人間に解けるかも、わからない。

 それは、多分解けるだろうという希望的観測のもと、思いつく限りのありったけのアイディアを突っ込んで少しずつ前に進んだ先に、もしかしたら解けるかもしれない、という性質のものだ。そして、使っている仮定を間違えてしまうと、佐々木のこの二、三日のように、すべて無駄パーになってしまう。

 コーヒーを飲みすぎたのか、少し胃が痛い気がする。

 内海は15分ほど前に、帰った。

 佐々木は、家に帰りながら考えることにした。



 家に着き、着替えて布団の中でも考え続けた。

 夢にも数式が出てきた。



(続く)

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