第23話 甘い

「で、レフェリーが言いたいのは多分この部分のことで...」

 上野にあるA研究所の会議室。佐々木は最初の論文の査読結果について瀬田と議論していた。瀬田はホワイトボードの前で査読結果の論点について整理している。今日の瀬田は薄い水色の半袖ブラウスに紺色のジーパンだ。佐々木はホワイトボードに一番近い椅子に座っている。

 佐々木と瀬田の共同研究の論文は、ある英文論文誌に投稿していた。論文はレフェリーと呼ばれる査読者によってその論文誌にふさわしいかどうか審査される。査読者レフェリーの人数は2、3人で、その審査の結果は編集者エディターからメールで送られてくる。佐々木達の論文の査読結果は三日ほど前に届いたので、それについて瀬田と議論しているところだった。

 瀬田と会うのは6月中旬のアメリカボストンでの国際会議以来だ。

 査読結果は、『ここに書いた質問とコメントにすべて対応できれば出版してもよい』だった。レフェリーの評価は良好で、悪くはない結果だと言える。

 TK大の津村教授のところに議論に行ってから、2週間が経っていた。

 あれから、佐々木の研究意欲はどん底になっていた。

 12時過ぎに研究室に行き、学食で一人昼ごはんを食べ、研究室では、自分の席でなんとなくネットをさまよい、ソーシャルネットワークサイトで他人の状況を眺める。夕方になるとカバンを持って学食へ夕ご飯を食べに行き、そのまま家に帰る。家でもネットをして、寝る。

 三日前に来た査読結果のメールは、中身を読まずに瀬田に転送した。

 瀬田からはすぐにメールの返信が来た。瀬田からのメールには『おめでとう。いい感じだね。次の金曜日に来られる? 議論して返信内容を考えよう』とあったので、『わかりました。行きます』とだけ返信し、今に至る。



 向いていないのだろうか。

 津村に出された問題は、物理学科図書室の固体物理学の本に載っていた。その導出過程を見ると、どうしてこれがわからなかったのだろう、と思えた。津村に出された問題は難しくはなかった。

『手計算の研究より、数値計算の方が向いている』

 津村に言われた瞬間は忘れることはできない。津村は少しため息をついて、そう言ったのだ。

 理論研究は、向いていないのだろうか。

 答えが分かっていれば、手元の数学的な道具を使って答えに到達できる自信はあった。その自信は、津村の理論が全く理解できずに打ち砕かれた。

 答えを知らない問題も、試行錯誤することできちんと答えにたどり着ける自信もあった。その自信は、津村に出された問題を咄嗟とっさに答えられずに打ち砕かれた。

 自分は結局、答えが分かっていて一度は解いたことがある問題しか、受験勉強の数学のような問題しか、解けないのだろうか。

 数値計算の方が向いている、というのは、どのような意味だろうか。

 解けない問題を機械に解いてもらわなければ。自分は研究はできないのだろうか。

 機械が解くなら、自分が研究する意味はあるのだろうか? それは誰でもできるのでは?

「佐々木さん? 佐々木さん? 聞いてますか?」

 この二週間ずっと考え続けてグルグルとしていた思考は、瀬田の声で断ち切られた。

 佐々木はいつの間にか腕を組んで俯いていた。顔を上げると、瀬田が書きかけの数式の前に心配そうに佐々木を見ている。

「あ、すいません」

 佐々木は頭を下げる。

「佐々木さん、メールの返信でも思ったけど、なんか疲れてる?」

「はい、そうですね。多分疲れていると思います」

「自分の体調なのに、多分、って、変ですね」

「変ですかね」

 瀬田はペンを持った手を顎にやって、少し首をかしげる。佐々木はその様子をぼうっと眺めていた。

「よしっ」

 瀬田はそう言ってペンのキャップを締め、ホワイトボードのペン置き場に置いた。

「佐々木さん、甘いもの食べに行きましょうっ。上野駅の近くに美味しいパフェを出すお店があるんだ」



 上野駅の駅前。巨大な歩道橋を歩いて降りた少し先の場所に、そのお店はあった。

 分かりくい小さな入り口。ぱっと見ではそこにお店があるとはわからない。よく見ると入り口の近くにボードが立てかけてあり、そこに『本日のパフェはハニーバニラ』と書いてある。

 瀬田と佐々木がいたA研究所からは徒歩で5分ほど。午後3時。空は雲ひとつなく、どこからかセミが大量に鳴いているのが聞こえる。アスファルトの上の空気は揺らめいており、蒸し暑い。

 瀬田がやたら熱心に勧めるので、佐々木は議論を切り上げてこちらにやってきた。

 店の中はクーラーが効いていて、涼しい。中は小さな喫茶店といった雰囲気で、木製のテーブルが3台ほど。天井では木製のプロペラが回っている。

 瀬田は慣れた様子で窓際の席に向かい、座った。佐々木は瀬田の反対側の席に座る。他の客はいないようだ。

 エプロン姿の店員がやってきて、水を置いていった。

 瀬田はメニューを真剣を眺めている。佐々木の分のメニューも手元にあったが、瀬田の真剣さが面白かったので佐々木はその様子を眺めていた。

 瀬田は小さく頷くと、店員を呼んだ。

「アイスコーヒーと、本日のパフェをひとつ」

「あ、僕も同じく、アイスコーヒーと本日のパフェでお願いします」

「アイスコーヒーと本日のパフェ、二つずつですね。しばらくお待ち下さい」

 店員はぺこりとお辞儀をして去っていく。

「佐々木さん、ここのパフェは本当に美味しいんですよ。甘いものを食べて糖分を補給して、元気出しましょう」

「はあ...」

 すぐにアイスコーヒーが二つ運ばれてきた。



 瀬田とレフェリーへの対応について議論していると、パフェがやってきた。バニラアイスの上にクリームが乗り、その上にオレンジやチェリーなどの果物が乗っている。そして蜂蜜がたっぷりとかかっている。

「いただきます」

 瀬田がそう言って食べ始めた。佐々木も食べる。蜂蜜とクリームでとても甘いと思いきや、意外と甘さ控えめで、とても美味しい。

 しばらく、二人で無言で食べ続けた。

 


「で、佐々木さんは、何に悩んでるんですか?」

「え?」

 瀬田が唐突に言ったので、佐々木は思わず変な声が出てしまった。

「今日の議論中、時々ぼうっとしていたよね。どうしたの?」

「ええと...」

「新しくやっている研究がうまくいっていないとか?」

「はい...」

「一人でやってみたい、と言っていた研究の件?」

 瀬田はオレンジをスプーンですくい、口に入れる。

「はい。ちょっと問題がありまして...」

「それは、純粋に研究の進捗の問題?」

「ええと...」

「なんとなく、今日の佐々木さんは自信がないような気がするのだけれど、何か自信がなくなるようなことがありました?」

「はい...」

「もし言えるような話だったら、誰かに言った方が楽になるかもしれないですよー。私でよければ、聞きますよ?」

 瀬田は真剣な顔で佐々木を見ている。

 佐々木は、瀬田に頼らずに自力で研究を遂行しようと思っていた。ここで頼ったら、結局自力で何もできていないことになるのではないか。

 しかし、自力でどうにもこうにもいかなくなっていることは確かだ。もうすでに、漫然とした研究室生活を二週間も過ごしてしまっている。このままでは、同じようにずっと過ごしてしまう可能性が高い。

「ええとですね、この前、TK大の津村教授のところへ議論をしに行ったのですが...」




「...というわけで、悩んでいます」

 佐々木が話している間、瀬田はパフェを食べる手を止めて、一通り聞いてくれた。

「瀬田さん、『手計算の研究より、数値計算の方が向いている』、というのは、どのような意味なのでしょうか。僕は研究に向いていないのでしょうか」

「うーん、言葉通りの意味なんじゃないかなあ」

 瀬田はパフェの底にあるクリームをスプーンですくって、食べた。

「言葉通り?」

「手計算の研究よりも数値計算による研究の方が向いていると思う、というのは、ただの津村さんの意見だと思う。確かにすぐにその三つのグラフを描くことができなかったのは良くなかったかもしれないけれど、それだけで相手の才能なんて断定できないでしょう? しかも初めて会ったばかりで。その時津村さんがそう思った、以上のことはないと思うけどな」

「はあ」

「確かに、手計算の研究と数値計算の研究のどちらが向いているか、という話はあるけれども。手計算だけが研究じゃないから、どちらに向いていようが研究をすればいい話な気がするわ」

「でも、数値計算の研究って、誰でもできる感じがして、数値計算に向いているって言われるのって、それって、言われた通りのプログラムが書けそう、みたいな感じがして、嫌です」

「うーん、それはちょっと違うと思うな」

 瀬田はスプーンを動かしていた手を止めて、佐々木を見る。

「佐々木さん、数値計算の研究は誰でもできるわけじゃないよ。試行錯誤しながら、正しい結果を導き出すという意味で、手計算の研究と全く同じ。数値計算には数値計算の技やコツや向き不向きがある。けれど、それは手計算に劣るわけじゃないと思うけどな私は」

 瀬田はスプーンをテーブルに置く。

「手計算と数値計算は、どっちが上、というものはないと思う。そりゃあ、手計算だけで問題が解けたら、楽しいよ? 手計算でしか見えなかった理論の構造が分かったりして、より深く理解できるかもしれない。でも、数値計算だって、手計算ではどうやっても解けない問題の答えが見つかったり、それが自分の予想を超えた面白いものだったりするよ。結局、『解ければよかろうなのだ』だよ佐々木さん」

「え? よかろう?」

「いや、なんでもないです。佐々木さんが気になっている超伝導体の、気になる実験結果があるわけでしょう。それがなぜそうなるのか、それはミステリーの犯人探しのようなもので。ミステリーでは、どんな手段を使っても犯人を特定できればいいわけで。手計算を使おうが数値計算を使おうが、どちらでも構わないと思わない?」

 瀬田はパフェの容器の縁についていたクリームをスプーンで削ぐようにとって、口に入れた。

「佐々木さん、津村さんの理論はわからなかったかもしれないけど、その手前の理論まではわかっているんでしょう?」

「はい、多分...」

「なら、数値計算をしよう。わかっているところまでの理論から、数値計算で微分方程式を解いて、津村さんの論文の結果と比較するんだ。そこでうまく結果を再現できたら、次は佐々木さんがやりたかった超伝導体の研究に入ればいい。数値計算でうまいこと結果が出たら、それで十分だよ」

「十分でしょうか...」

「十分だよ。だって、実験家は、理論家が出してきた結果が手計算で得られたか数値計算で得られたかなんて気にしないもの。ちゃんともっともらしい結果と、もっともらしい説明があれば、それでいいの」

「はい」

「あと、佐々木さんは三つのグラフをその場で描けなかったことを随分と気にしていたようだけど、あれも、そんなに気にしなくていいんだよ?」

「え、そうなんですか?」

「ええ。理論家には二種類の人がいて、一つは、頭の回転が良くすぐに本質を見抜くようなタイプ。みんなこのタイプに憧れるけど、本質を見抜くためには蓄積された知見も必要だし、生まれ持った才能も必要で、そう簡単にはこのタイプになれない。努力する天才タイプ。もう一つは、頭の回転は必ずしも人よりも良くはないけれど、じっくりと進んで深く考え、後ろに草の根一本も残さないタイプ。ブルドーザータイプ。研究は試験問題を解くのとは違って時間無制限だから、素早く解かなくてもじっくりと深く考えることで正解にたどり着いたっていい。私はこっちのタイプかな」

 瀬田は微笑んだ。

「三つのグラフを素早く描く能力は、そりゃああればいいけれども、普段の研究には時間制限はないんだから、解けなくても気にする必要はないんだよ。物理の理論の研究をやろうとするような人はみんな、ある程度頭が良くて努力もしているわけだけど、頭が一番いい人が一番いい研究をするわけじゃない」

「はい」

 それは佐々木も気づいていた。T大の大学院生の中にも、頭良いけれど研究のセンスがない人がいる。

「手計算の研究は、難しい。だけど、研究は難しければ難しいほど価値があるわけじゃ、ない。T大の大学院生は難しいものに挑戦する傾向があるけど、難しい問題を解くことがいい研究となるとは限らない。意味と価値がなきゃ」

「はい」

「だから、数値計算を蔑む必要なんて、全くないんだよ」

「そうですね」

「と、いうことで、佐々木さん、数値計算をやりましょう。一回やって、自分に向いているか、確かめてみましょう?」

 瀬田は氷が溶けきって薄まった残りのアイスコーヒーを飲み干した。

「じゃあ、今からA研究所に戻って、佐々木さんのノートパソコンで数値計算の環境作りをやってしまいましょう」

「はい」

 佐々木も少し残っていたアイスコーヒーを飲んだ。氷が溶けたせいで薄かったが、これはこれでいい気がした。

 二人で席を立ち、レジの前へ。

「あ、私が誘ったんだし、私が払うよ」

 瀬田はそう言って、財布を取り出そうとしていた佐々木の手を止めた。



 A研究所の会議室に戻った後、佐々木は瀬田から数値計算の基本的なことをいろいろと教えてもらった。

 数式の前で延々と唸り続けて何の進捗も出せないよりも、書けば書くほど行数が増えていく数値計算のプログラムを書く方が、今の佐々木にとって、良かった。

 いつも通り瀬田と最寄りのファミリーレストランで夕食を食べた帰り道、佐々木は気持ちが随分楽になっていることに気がついた。



 

(続く)

 

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