第19話 ポスター
アメリカボストンでの国際会議二日め。午前8時50分。佐々木は、ポスター会場に入ってすぐの場所に立っていた。
ポスター会場は広い部屋で、日本の小学校の体育館くらいのサイズはありそうだった。そこに、小さなボックスで区切られた企業の実験機器の宣伝ブースと、ボードが立ち並んだポスタースペースがある。ポスターを貼るボードが連なって3列に並んでいる。一つ一つのボードは、高さが180センチ、横幅が1メートルくらいだろうか。所々にテーブルが置かれており、そこには透明なカップに入った画鋲やプッシュピンが置かれている。発表者それぞれがそれらをとって、自分のポスターを貼っている。
佐々木は講演の冊子を開き、自分のポスター番号を確認する。それぞれのポスターボードの左上に番号が書かれた紙が貼ってあり、その番号がそれぞれのポスター番号となる。佐々木のポスタースペースは入り口から近いところだった。途中、テーブルから画鋲の入ったカップを手に取り、向かう。
佐々木が持っているのは、リュックだけで、どこにも大きな紙を丸めたものは見当たらない。
リュックを開け、A4サイズくらいのサイズの紙の束を取り出す。アメリカの紙なので、A4とは少しサイズが違うUSレターサイズだ。縦横比がA4とは少し違う。
一枚一枚の紙を、左上から順番に貼っていく。それぞれの四隅にプッシュピンを刺してとめる。綺麗に貼るために慎重に端を揃える。
佐々木は結局、ポスターサイズの紙を印刷することを諦めた。そして、クリスが提案した案をやることにした。
A0サイズのPDFファイルを作って、それを分割して、小さな紙で複数枚印刷したのだ。
最近のプリンターは縁ギリギリまで印刷できるので、仕上がりも悪くない。そして、あらかじめアメリカでとても普及しているUSレターサイズにPDFを分割しておけば、印刷ができるお店で普通の紙に印刷ができる。そして、そのようなお店には写真や書類を印刷するためのセルフサービスプリンターが置いてあるので、それを使うことで、その場ですぐに印刷できる。さらに良いことに、そもそも多くのホテルでは書類のプリントサービスをやっているので、印刷のお店に行く必要もなく、泊まっているホテルで印刷ができるのだった。
昨日は、国際会議の講演が全部終わった後、ホテルでポスターのデータをPDFに変換した。そして、ホテルの『ビジネスコーナー』でポスターを分割印刷。無事に、貼り合わせればA0サイズになる紙、を印刷することができた。
貼り終わった紙を少し離れたところから眺めてみる。
プッシュピンの数が多いが、それ以外は特に目立った変なところもなく、ちゃんとA0サイズのポスターになっている。
ポスターは縦長で、一番上に所属と名前、タイトルが書いてある。今回の講演の著者は、佐々木、瀬田、鵜堂、の順だ。右上には、T大学のロゴと、瀬田の所属する国立A研究所のロゴ、そして、文科省のグローバル卓越大学院のロゴ。ポスターの上部には新超伝導体の実験結果、真ん中には使った理論の詳細、下部には計算した結果と、その実験との比較。一番右下には、まとめ、がある。
午前9時から、あと5分でポスター講演の時間だ。佐々木の両隣の人はすでにポスターをすでにボードに貼ってある。所属を見る限り、左がロシア、右がインドだ。本人たちはいない。
ポスター講演の時間は2時間割り当てられている。そして、それぞれの発表者は前半か後半の1時間は自分のポスターの前に立っていなければならない。ポスター番号の偶数が前半の1時間、奇数が後半1時間を担当し、佐々木は偶数番号なので前半だ。佐々木の両隣の二人はきっと後半にやってくるのだろう。
9時となった。ポスター会場に徐々に人が集まり始める。
たいていの人は、様々に並んだポスターを眺めながら次々と移動していく。興味深いタイトルや、目を引くようなグラフや絵を見つけた時には立ち止まり、しばらく眺める。そして、特に聞くこともなければ次のポスターへと移動する。発表者は「こっちに来て聞いてほしい」と思いながら、その様子を眺めることになる。
佐々木はポスターの横に立ち、誰かが来るのを待った。
背の高いひょろっとした金髪の白人男性が立ち止まる。
質問をしたそうにこちらを見ている。
佐々木は、にこやかにその男を見る。
しばらくそのまま立ち止まった後、その男性は歩き去った。
今度はお腹が大きい白髪の男性が立ち止まる。その人は佐々木のポスターと佐々木を交互に眺める。
そして、その人は一歩前へと近づく。
「あなたのポスター?」
佐々木に向かって話しかけてきた。
「はい。そうです。何か質問ありますか?」
「いや、とりあえずこのポスターを説明してください」
「わかりました」
佐々木は英語で説明を始めた。
ポスター発表では、聞いてくる聴衆がどんなバックグラウンドを持っているか最初はわからない。そして、何に興味を持っているかわからない。ポスターの発表に時間の制限は特にないが、瀬田から、「まず3分で説明できるように練習しておいて。その3分の後、何か聞きたいことがある人はより突っ込んで質問してくるからね」と言われていた。
3分程度で簡単に説明を終わる。
その後、いくつか質問をされる。口頭発表の質疑応答と違って特に時間制限がないため、質問は質問者本人が納得するまで続けられることが多い。佐々木は時々、「ソーリー?」とか言いながら質問の意図を確認しつつ答えた。
質問に答えていると、他の人たちが集まってきた。
ポスター発表では、面白そうな発表に人が群がり、そうでないところには全然人が来ない、ということがよくある。人が群がっているということは面白そうな発表なのだろう、と、人がいるとさらに集まってくる、という好循環が生まれる。
佐々木のポスターの前には、今質問している人以外に、5人ほど集まっている。その5人は質問をせずにポスターを眺めたり、最初の人とのやり取りを聞いている。
最初の一人が「ありがとう」と言って去った。
集まっていた5人のうちの一人が、別の質問をし始める。
午前11時。佐々木は自分のポスターボードの前で座っていた。
結局、最初の一人が質問し始めてからひっきりなしに聴衆がやってきた、ずっと説明していた。自分の担当の1時間が過ぎても人がいたので、そのまま立って説明していた。そのせいで、他のポスターは見られなかった。まあ、結局自分のポスター講演がうまくできたので、良いとしよう、と佐々木は思った。
ずっとしゃべり続けたので少し喉が枯れている気がする。
ずっと英語だったので、頭がぼうっとしている。
佐々木の英語はお世辞にもいいとは言えない。聞き取りもそんなにうまくなく、相手に何度も聞き返してしまうレベルだった。しかし、質問をしに来たどの人もそんなことは気にしていないようだった。彼らは佐々木の研究内容を聞きに来ているのであって、佐々木とおしゃべりをしに来ているわけではない。
もっと英会話を勉強しよう、と佐々木は決意した。
「お疲れ様〜」
遠くからリュックを背負った瀬田がやってきた。手を振っている。佐々木も力なく手を振る。
「しかし、クリスのおかげでなんとかなってよかったねー」
「はい。とても助かりました」
「今日の夜、クリスと一緒に夕ご飯に行かない? 美味しい
「わかりました。僕が行ってもいいんですか?」
「もちろん。多分クリスと私と佐々木さんと、後もう一人ドイツの時の同僚がいるかも。四人でちょうどいいでしょう」
「わかりました」
佐々木は立ち上がり、ポスターを剥がし始める。瀬田も手伝ってくれた。結構な枚数があるが、二人でやればそれなりに早く終わる。
「佐々木さん、お昼どうするの?」
「何も考えていませんでした」
「じゃあ、一緒に行きましょう。歩いてすぐのところに、美味しいシーフードレストランがあるの。ボストンといえばシーフード。行きましょう」
「わかりました。午後の講演まで余裕ありますしね」
剥がした紙の束を整理してリュックに入れ、たくさん使ったプッシュピンを元の場所に戻す。
瀬田について、そのまま会場の外に出た。
シーフードレストランは、本当にすぐ近くにあった。歩いて数分のところだった。
中に入ってみると、たくさんの人が待っていた。受付の近くにいた店員に聞いてみると、予約がない場合は1時間待ちらしい。そんなに待っていると午後の公園が始まってしまう。仕方がないので、外に出ることにした。瀬田は肩を落とし本当に残念そうな顔をしている。
お店の外に出て、日本から買ってきたガイドブックを開く。瀬田が横から本を覗き込む。佐々木達がいる場所からすぐの駅から地下鉄に乗って数駅行けば、ボストンで有名なクインシーマーケットというものがあるらしい。そこには、パンを入れ物にしたクラムチャウダーや、ロブスターロールなどが売っているらしい。それらの店はテイクアウトなのでそんなに時間がかからないだろうと予想できた。ボストンは結構な本数の地下鉄が走っているので、行って食べて帰ってきても午後の講演に間に合いそうだった。ロブスターロール、を見つけた時には、瀬田は佐々木が見てわかるほど気持ちが盛り上がっているようだった。
「よし、このクインシーマーケットに行って、さっと買って、パッと食べましょう!」
瀬田が急いで歩く後を、佐々木は追いかける形になった。
クインシーマーケットで、佐々木はパン容器付きクラムチャウダー、瀬田はロブスターロールを食べていた。
クインシーマーケットはボストン中心にある古い建物で、入り口は古代ローマ時代のような円柱を並べてある。中を入るとフードコートになっており、ロブスターロールのお店とクラムチャウダーのお店は異なるお店だった。二人でそれぞれ注文したものを受け取った後、建物中央の食事スペースのテーブルに座った。
佐々木が食べているクラムチャウダーは、硬めの丸いパンの真ん中を大きくくり抜き、その空いた場所にたっぷりのクラムチャウダーが入っている。シチューのような味で、食べると濃厚な貝の味がする。一緒にもらったオイスタークラッカーを入れると、サクサクのクラッカーがしっとりとクラムチャウダーを吸い柔らかくなる。オイスタークラッカーにはオイスター成分は入っていないそうだが、入れるとその硬さと塩味がクラムチャウダーのアクセントになり、とても美味しかった。
瀬田はロブスターロールを一心不乱としか言いようのない熱心さで食べていた。
「ふう。ロブスターロール、とても美味しいよ。味見する?」
「いえ、いいです」
そう言って瀬田が端っこを切って渡そうとする。しかし佐々木は断った。女性とそういうことをするのはあまりにも慣れていないため、断るしかできなかった。
午後の講演の開始時間がだんだんと近づいてきていたので、二人ともほとんど何もしゃべらずに、黙々と食べていた。
(続く)
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