第18話 時差ぼけ

 コーヒーショップのドアをくぐる。

 外からはよくわからなかったが、中には人がたくさんいた。特に並んでいるわけではなく、何かを待っているように立っている。

 カウンターの方を見ると、店員の後ろの壁にはコーヒーのメニューがあった。いろいろなコーヒーのメニューがある。値段が横に三つ並んでいるのは、多分大中小だろう。ラージとかスモールではなく、TallトールとかGrandeグランデとか書いてある。

 注文する場所を探す。

 人が大勢待っている場所は、どうやら出来上がったコーヒーを渡す場所にようだ。名前が呼ばれて、それを受け取る人がいる。ということは、ここは注文の場所じゃない。

 奥を見てみると、テーブルと椅子が並んでおり、そのあたりに列があるのがわかった。佐々木はその列に並ぶ。

 列の先は、カウンターで、店員がいる。ここでいいのだろう。カウンターの近くにはガラスケースがあり、そこにはサンドイッチのようなものが並んでいた。あの中のどれかが手に入ればいい。

 佐々木の番になる。細めの金髪の白人女性だ。

「本日のコーヒーと、そこのサンドイッチをください」

 佐々木は肉が挟まったサンドイッチを指差した。

「どのサンドイッチ?コーヒーのサイズは?」

「えっと、これで。コーヒーはグランデでお願いします」

「どれ?」

 佐々木はガラスケースを指差しているが、店員はよくわかってくれない。

「これ?」

 店員があるサンドイッチの皿を持つ。しかしそれには肉が入っていない。多分野菜とチーズのみのサンドイッチだ。店員は少しうんざりした顔をしているように見える。

「じゃあ、これをお願いします」

 佐々木は妥協し、そのサンドイッチにした。

「名前は?」

「え?」

 佐々木は急に名前を聞かれてたじろいだ。なぜこの人が自分の名前を聞くのだろう。

「名前は?」

「あ、Toruトールです。」

「スペルは?」

「Toru」

 会計を済ます。店員が「あっち」と指をさすので、そちらへ向かう。そこは入った時に最初に見た人がたくさんいるところだった。黒人のお兄さんが、次々と名前を呼んでは客に渡している。コーヒーをシャカシャカ振りながら手の中で一回転させたり、器用だ。

 しばらく待つと、「トー?」と言われたので、コーヒーとサンドイッチを手に取った。

 空いている席に座り、サンドイッチを食べる。もう午後の講演は始まっている時間だ。急いで食べないといけない。

 サンドイッチには、やはり肉が入っていなかった。トマトとチーズと、緑色の葉が入っている。肉が欲しかった。



 食べ終わった後、急いで会議場に戻った。

 受付でもらった会議の概要集の最初の数ページを開き、行きたいセッションの場所を確認、受付近くの大きな会場案内図を見て、急いで会場に向かう。

 会場の扉は閉まっていたので、ゆっくり開く。

 部屋は薄暗く、前方だけに明かりがついている。講演者が身振り手振りをしながら話している。佐々木は空いている席を探し、そっと一番後ろの席に座った。

 前方のスクリーンには実験結果のような図が入ったスライドが映し出されている。講演は確か理論の講演だったので、まだイントロダクションの途中ということだろう。概要集の該当ページを開き、ボールペンを片手に、話に集中し始める。



 眠い。午後1時半。午後の一人目の講演が終わった。日本時間だと午前2時半。時差ぼけがきつい。

 次の講演者が前に立つ。金髪で背が高い。前髪が後退しているが、顔を見た感じ若そうだ。所属は、ドイツの国立研究所のようだ。タイトルを見る限り理論の話。

 青いTシャツにジーパンだ。Tシャツをよく見ると、中央に「ワタシハブツリ、チョットデキル」と日本語が書いてある。その下に小さな文字で英語が書かれている。

 講演が始まった。

 わかりやすいイントロダクションだ。佐々木が瀬田と共同研究していた超伝導体に近い超伝導体の気がする。

 理論の説明。すっきりとしたスライドで、式も多すぎない。不必要にアニメーションが多いわけでもない。とてもわかりやすい。

 佐々木はメモを取りながら、その講演を聴いた。


 講演者の講演が終わり、質疑応答時間に入った。

 前の方の人が手を挙げて質問をしている。

 佐々木は一つ、講演の内容で気になっていたことがあった。質問してみたい。

 質問内容をあらかじめ英語で考え、それを何度も心の中で繰り返す。物理学以外の分野の研究会では、「A大学のBです。とても面白い講演ありがとうございました」などと言うらしいが、物理の世界ではそのようなものはいらない。物理の研究会では質問者は自己紹介しない。質問者の立場などはどうでもいい。ただ、質問文を言うだけだ。と、以前猪俣から聞いたことがある。だから若い佐々木が質問しても、何の問題もないはずだ。

 もし、これ以上手が挙がらなかったら、手を挙げてみたい、と佐々木は待っていた。

 ちょうど静寂になった。座長が手を挙げている人を探している。

 佐々木は、ゆっくりと手を挙げた。

 座長が気づき、腕と身振りで佐々木を示した。聴衆たちと講演者が一斉に佐々木の方を見る。左手を膝の上に置き、上げていた右手を下げる。これまでの質問者は皆座ったまま質問していたので、佐々木も座ったまま話す。

「あの、二つ前くらいのスライドのグラフなのですが、低温の温度依存性は何で決まっているのですか?」

 佐々木の質問を講演者は真面目に聞いている。

「これはですね...」

 講演者は丁寧に回答してくれた。佐々木もその回答に満足し、「ありがとうございます」と言った。

 座長が次の質問者を探し始めた。佐々木は緊張が終わりほっと息をついた。

 質問者はもういなかったようで、座長は聴衆に拍手を促し、拍手が起きる。そして、その人の講演が終わった。

 そしてそこで佐々木は気がついた。

 慌てて時計を見る。午後2時2分。

 しまった。

 125ドル払えば今日中にポスター印刷をしてくれるところが、2時までなら今日中に印刷できる、と言っていたのをすっかり忘れていた。コーヒーショップに寄ったり面白い講演を聴いたりしている間に、佐々木の頭からすっかり抜け落ちてしまっていたのだ。時差ぼけのせいもあったかもしれない。

 今行って、交渉して、125ドル払ってポスターを間に合わせるか? それは可能なのだろうか? そもそも自分の英語力で交渉はできるのだろうか?

 しかし、お店までは走っても10分以上かかりそうだ。

 次の講演者がスライドをスクリーンに映して話し始めた。

 ああどうしよう、いろいろ考えているうちに時間が過ぎていく。



 午後3時。あれから二つの講演者が発表して、20分間のコーヒーブレイクとなった。物理学者はコーヒーが好きらしく、終わった瞬間にぞろぞろと部屋を出て行く。部屋の外に設置されている無料コーヒーサーバーが目当てだろう。午前中もたくさんの人がコーヒーに群がっていた。

 佐々木は、同じ場所に座ったままだった。

「佐々木さん、ポスターの件、なんとかなりそう?」

 そこに瀬田が声をかける。どうやら同じ部屋にいたようだ。佐々木の右隣の椅子に腰を下ろした。

「それが、ポスターを印刷してくれるようなところが全然なくて」

「え、そうなの?」

「いや、正確に言えば、今日中にポスターを印刷してくれるところが全然ないんです。一箇所あったんですが、2時までに頼めば一枚125ドルで夕方にできると言われていたのですが、悩んでいるうちにその時間を過ぎてしまって。ああ、どうしよう」

「お、何の話をしているんだい?」

 佐々木と瀬田が話している時、英語で話しかけられた。声の方を見ると、先ほど佐々木が質問したドイツ人の講演者だった。大きな黒いリュックを肩にかけている。

「ああ、クリス。こんにちは。ちょっと彼にトラブルが発生しててね、その話をしてたんだ」

 瀬田が立ち上がり、そのドイツ人に挨拶をした。どうやら二人は知り合いらしい。

「なるほど。さっきは質問してくれてありがとう。初めまして」

 そう言ってドイツ人は握手のためか手を伸ばす。佐々木は立ち上がり、握手をした。背が高い。190センチ以上はありそうだ。

「初めまして。トオル・ササキと言います。先ほどは質問に回答してくれてありがとうございました」

「ササキさんは最近の私の共同研究者なの。ササキさん、クリスは、私がドイツでポスドクをしていた時の同僚よ」

 瀬田が言う。

 クリスは佐々木の左隣に腰を下ろし、脚を組んだ。

「それで、何のトラブルが起きているって?」

「それがね、クリス、彼、明日ポスター発表なんだけど、行きのU航空の飛行機で、ポスターの筒がロストバゲッジしちゃったの」

「おお、それは大変なトラブルだ。その様子だと、まだポスターは用意できていないようだね」

「はい、実は...」

 佐々木はクリスにこれまでのことについて話した。クリスはそれを頷きながら聞いている。一通り話すと、クリスは組んでいた脚を組み替えてから話し始める。

「なるほど。大きな一つの紙に印刷したいけれど、今日中に間に合うような印刷所がない。ということだね」

「はい、そうなんです」

「それなら、私にいい考えがあるよ。今何も策がないのなら、試す価値はあると思う」

 そう言って、クリスは佐々木と瀬田に向かってにやりと笑った。



(続く)

 


 



 

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