第17話 ボストン
佐々木は朝の2時に目が覚めた。時差ぼけのせいなのか、目が覚めてしまった。さすがに外は真っ暗だ。
寝ようとしても、なかなか寝られない。
結局、目をつぶってはみたもののなかなか寝られず、時々うとうとするくらいしか眠れないまま、朝となった。
しょうがないのでシャワーを浴びて着替え、朝食を食べにホテルのロビーへ向かう。
ロビー階の奥にあるレストランへ。朝食の券を受付の黒人のおばさんに渡す。
テーブルと椅子がたくさん並んでおり、壁の方には食べ物が並んでいる。ホテルの朝食はビュッフェ形式だった。
コーンフレークのような上から牛乳をかけそうなものの種類は多かったが、それ以外のおかずの種類はそんなに多くなかった。白い陶器製のお皿を持って適当に自分で取って食べる形式だった。
ベーコンとポテトとスクランブルエッグ、ソーセージとパン。そしてオレンジジュース。佐々木はお皿に適当に盛り付けて、空いている席に向かう。
去年参加した札幌での秋の物理学会では、ビジネスホテルの朝食は『北海道の旬の食材を使用しました』みたいな雰囲気で野菜も料理も美味しかったが、ここはアメリカだ。内海は、アメリカではとりあえずカリカリベーコンを食べておけば良い、と言っていた。内海は普段はあまりしゃべらないが、海外出張は好きらしく、出国前の佐々木に色々教えてくれたのだった。
ロストバゲッジ。
思い出すだけでぐったりしてくる。空港では連絡先にメールアドレスも書いたが、特に何も連絡はない。今日荷物は届きそうになさそうだ。今日の国際会議の昼休みの時間を狙って、ポスターが印刷できそうな場所に行くしかない。
しかし、そんな都合の良い場所はあるのだろうか?
右手でスクランブルエッグにケチャップをかけてフォークでぐるぐるとかき混ぜ続けながら、左手でオレンジジュースを一気飲みした。
せっかくアメリカまで来たのに、発表ができなかったら大変なことだ。
「はあ」
「あ、佐々木さん」
佐々木がため息をついていると、瀬田の声が聞こえた。振り向いてみると、確かに瀬田だった。白い皿の上にさらにコーンフレークの皿とフルーツの皿を乗せ、そして隙間にオレンジジュースのコップも器用に乗せながら、佐々木の方へ歩いてくる。赤い上着にジーパン姿だ。
「ここ、いい?」
そう聞きながら、瀬田は佐々木の向かいの席に座った。
「同じホテルだったんだねえ」
瀬田はそう言うと、ニコニコしながらコーンフレークを食べ始めた。
「どうしたの? なんか疲れた顔をしているね?」
「はい。実は問題があって」
「どうしたの?」
「ポスターを入れてた筒が、ロストバゲッジで無くなってしまいました」
「えー!?」
瀬田は大きな声を出した。周りの朝食客が何事だろうとこちらを見た。それに気がついた瀬田は口元に手をやって、「ゴメンナサイ」と言う。
「ポスターセッションの日って、いつ?今日?」
「いえ、明日です」
「明日かー。荷物届くの待ってても、来ないかもしれないわね」
「ええ、そうなんです。だから、どうしようかな、と」
瀬田はコーンフレークをあっという間に食べ終わり、カットされたリンゴを食べ始める。
「それは、まずいわね...。どうすればいいか、一緒に考えよ。私も共同研究者だし。多分、大丈夫。発表できない、ということにはならないわ」
そう言って瀬田は、右手のフォークにメロンを刺したまま、微笑んだ。
朝食後、一人でホテルを出る。瀬田はまだ準備が終わっていないらしく、後から行くそうだ。
ボストンのバスや地下鉄は通称
超伝導の国際会議は大きな会議場で開かれていて、そこにはレッドラインという地下鉄を使えばたどり着くはずだ。
天気は良い。目の前には大きな広場のボストンコモンがある。ベンチに座って新聞を読んでいる人や、のんびりと会話をしている白人老夫婦がいる。
朝の人通りは多い。多くの人がコーヒーショップのカップを手に持っている。右側通行の道に気をつけながら、横断歩道を渡り、地下へ降りる。構内は日本より薄暗い。チケットの自販機の前に立つ。いまいち買い方がわからない。空港から市内へ行く場合には無料で乗れたので、昨日はチケットを買っていなかった。
蛍光の色のジャケットを着た黒人が多分係員か駅員なんだろうなと思いつつも、聞いて答えてくれた言葉がわからなかったらどうしようという気持ちが出てしまい、聞けなかった。
5分以上試行錯誤して、なんとか買うことができた。
ホームに地下鉄がやってくる。
地下鉄の窓には色が付いているのか、日本よりも薄暗い印象があった。治安は良いと聞いていたので、それを信じて乗り込んだ。
会場に到着。たくさんの物理学者っぽい人たちが歩いている。瀬田が言った通り、日本物理学会に来ている物理学者と雰囲気が似ている。スーツを着ている人はほとんどいない。Tシャツにジーパンが多い。佐々木もジーパンとTシャツで来ている。日本と少しだけ違うのは、登山でもするのかと思うくらいやたらと大きなリュックを背負った人が時々見られるくらい。あとはなんとなく歩き方も似ている。
入り口近くの受付で名前を言って、首からかけるネームプレートと、講演概要の載った冊子を受け取る。
A0サイズのポスターが印刷できる場所を受付で聞こうかとても悩んだが、準備ができていない人、と思われるのが嫌だったので、聞けなかった。英語が通じなかったらどうしよう、聞き取れなかったらどうしよう、と思ってためらってしまうのは良くないとわかっているけれども、なかなか人に話しかけられない。
今回の国際会議は、同時進行は六つほどで、佐々木は興味のある講演がありそうなセッションが開催される部屋へ向かった。
部屋の中央にはプロジェクター用のスクリーンがあり、木製の演台がその横に置かれている。テーブルはなく、それぞれの椅子がたくさん並んでいる。それぞれの椅子から個人用の筆記用の台が出てくるタイプだ。
講演開始5分前。それなりに人がいる。一番後ろの席に座り、ノートPCを開く。会場の
日本だとよくA0とかA4とかAサイズの紙を使うが、アメリカではこの規格はあまり使われていない。しかも、センチメートルではなくて、インチだ。つまり、そもそも印刷するポスターのサイズがよくわからなかった。
講演が始まる。一度ノートPCの蓋を閉める。最初の人の講演は招待講演らしく、30分話すらしい。背が高くお腹が大きな金髪の白人男性だ。所属はアメリカの大学。アメリカ人かどうかはわからない。ロシア人かもしれないし、ドイツ人かもしれない。
英語での講演が始まった。佐々木にはまだどの国がどんな訛りかはわからない。しかし、香港からの留学生のジョンが話す英語とは大分違っていた。ジョンの英語は慣れるまで大変だったが、慣れた後は比較的簡単に聞き取れた。
講演概要集の余白にメモをする。
10分後、だんだん眠くなってきた。少し分野が違うせいか、イントロダクションのスライドの後はよくわからなくなった。
「?」
気がつくと、すでに30分時間が経っていた。最初の講演者の講演は終わり、質疑応答の時間に入っている。佐々木は寝てしまっていた。
お昼休み。ぞろぞろと物理学者たちが移動している。きっとどこかに昼ご飯を食べに行くのだろう。ポスター印刷、結局ネットで調べても、印刷してもらいたいサイズを印刷してもらえるかどうか、という点ではよくわからなかった。結局、直接行って、できるかどうか聞いてみるしかない。そして、今日中に間に合わせたいという要望を通さなければ、明日のポスター発表に間に合わない。それらを英語で言わなければいけない、ということが、佐々木にとってプレッシャーだった。
しかし、やらなければ発表できない。やるしかなかった。
会場の近くに何軒か印刷できそうなお店があったので、適当に行ってみることにする。
一軒目。入ってみると、すぐ目の前にカウンター。奥にプリンターと思われるものが並んでいる。カウンターの奥で二人の従業員が会話をしている。何を話しているか聞いてみようかと思ったが、しばらく聞いてても意味がわからなかった。英語ではなかった。多分スペイン語だろう。カウンターの奥のプリンターは何台かあり、そのうちの一台は横幅が大きいのでポスターが印刷できそうだ。
「すいませーん」
呼びかけてみると一人が面倒くさそうに出てきた。横にも縦にも大きい褐色の肌の男性がカウンターに立った。
「何だ」
「ええとですね...」
身振りと手振りも使って大きいポスターを印刷したい、と伝える。
「そのサイズのポスターの印刷機は、今使用中で使えない」
そう言いながら、男性は面倒そうな顔で佐々木を見ている。
「ポスターが印刷できる印刷機は、それですよね? それ、今動いていないように見えるのですが」
「今は使用中だ。使えない」
「今頼むと、いつ受け取れますか?」
そう聞くと、男は横にあったパソコンに何かを打ち込み、モニタを見た。そして、佐々木の方をまた見る。
「今頼むと、三日後だ」
「そうですか...」
三日後に出来上がってもどうしようもない。発表は明日なのだから。
「サンキュー」
そう言って、佐々木はその店を後にした。
二軒目。一軒目とは大きく異なり、お洒落な雰囲気がある。入り口のそばに観葉植物が置いてある。カウンターにいるのは、金髪で細心の白人女性だ。佐々木が近づくと、
「何か御用ですか?」
と聞いて佐々木に微笑みかけた。
「このくらいのサイズのポスターを印刷したいのですが」
「いつまでに作りますか?」
「今日の夜までには欲しいのですが」
「わかりました。少しお待ち下さい...」
一軒目と同じように、カウンターの脇のパソコンに何かを打ち込み、モニターを見ている。そして、見終わったのか、佐々木を見た。
「今日の午後2時までに注文すれば、今日の夜に受け取ることは、可能です」
「料金はいくらですか?」
「料金は125ドルとなります」
え、高い、と思わず佐々木は日本語で呟いてしまった。
「どうされますか?」
女性は佐々木の目を見ている。青い目だ。佐々木は目をそらす。
「えっと、少し調べてから、また来ます」
「そうですか。ぜひうちに来てくださいね」
佐々木は軽く会釈してから外に出た。
時計を見るとあと20分で昼の講演が開始する時間になっていた。昼ご飯を食べそびれている。どこかで買えればいいのだが。
会場へ向かって急ぐ。
空は真っ青で雲一つない晴れ。日本では見たことがない白い鳥が群れをなして飛んでいる。
会場へ向かう途中で橋を渡る。川は空の青さを反射して綺麗だった。この川はすぐに大西洋に流れ込んでいる。
自分が失敗したわけでもないのに、125ドルの自腹は高すぎる。他に方法はないのだろうか。
お腹が空いた。
歩いていると、右にコーヒーショップの看板を見つけた。確かこのコーヒーショップにはコーヒーの他にサンドイッチか何かが売っているはずだ。
このコーヒーショップには日本でも入ったことがなかった。
なにやら呪文のようなものを言わないと注文できない、とネットに書いてあったのを見たことがあったので、それに尻込みして入ったことがなかったのだ。
日本語でも呪文を言えないのに、英語だとどうすれば...
そう思いながら、不安を感じながら、急いで中に入った。
(続く)
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