第16話 ロストバゲッジ

 6月中旬。

 アメリカボストン、ローガン空港。

 佐々木は動かないターンテーブルの前で、呆然と立ち尽くしていた。

 ポスターバズーカが、出てこなかった。



 少しさかのぼり、日本時間午後3時半。

 佐々木は成田空港の搭乗口付近の席に座り、搭乗案内が始まるのを待っていた。窓にはたくさんの飛行機が並んでいる。時折離陸する飛行機や、着陸する飛行機が見え、その度に轟音が聞こえてくる。

 超伝導に関する国際会議がアメリカボストンで開催されるため、佐々木はワシントンDC行きの飛行機を待っていた。ワシントンDC経由でボストン行きで、ボストンに着くまでにだいたい16時間ほどかかるらしい。

 初めての海外。国際会議ではポスター発表をすることになっている。

 国際会議、というのは大抵の場合研究会のことを指す。物理学者たちが世界中から集まってきて、会場に集まり、ある一人の人がプロジェクターでスライドをスクリーンに投影して話す。日本の物理学会と同じで、大きな国際会議だと同時に複数のセッションがある。物理関係で一番大きな国際会議と言われているのはアメリカ物理学会だが、その場合には、同じ時間帯に50以上のセッションが同時開催される。このような人前で話す発表のことを口頭発表と言う。

 佐々木が行う予定のポスター発表は、口頭発表と少し違う。大きな会場にたくさんのボードが並べられ、それらのボードそれぞれに発表者がA0サイズくらいの紙を貼り、研究成果をその場に来てもらった人に発表する。会議の種類にもよるが大抵2時間以上の枠が割り当てられ、その間は自分のポスターの前に立ち、興味を持ってくれた人と相手が満足するまで議論する。

 佐々木はポスターを物理学科の共用のA0対応インクジェットプリンターで印刷し、直径10センチメートルの筒、通称ポスターバズーカに入れて持ってきていた。飛行機の機内には長すぎて入れられないと聞いていたので、手荷物として預けている。

 航空会社はU航空。アメリカの航空会社だ。日本から出発の便ではキャビンアテンダントに日本語が使える人がいるという話だが、そんなに多くはなく、ほとんどはアメリカ人らしい。ボストンへの直行便は日系の航空会社が運行していているが、U航空よりもはるかにチケットの値段が高かったので、やめておいた。鵜堂教授が出張のお金を出してくれるとはいえ、無尽蔵にあるわけではない。

 佐々木の手には5年用の黒い日本国パスポート。先月作ったばかりで、まだスタンプは成田での『出国』しかついていない。搭乗時に見せる必要があるらしいと聞いていたので、航空券と一緒に掴んだまま、窓から見える飛行機の発着の様子や搭乗口付近の要素を眺めていた。飛行機を待つ人たちの何人かは、物理学者っぽい雰囲気を持っている。知った顔ではないが、もしかすると同じ国際会議に参加する人たちなのかもしれない。

 搭乗案内のアナウンス。優先搭乗な人たちがぞろぞろと搭乗口へ向かっている。佐々木はもちろんエコノミークラスなので、しばらく待ってから搭乗した。




 佐々木はアメリカボストンのローガン国際空港の預け入れ荷物受け取りのターンテーブルの前で荷物を待っていた。乗客の様々な色のスーツケースが流れてくる。佐々木はあくびをかみ殺しつつ、待つ。時刻は現地時間午後7時。約13時間のフライトでワシントンDCまで行き、そこから約2時間でボストンまでやってきた。時差ぼけ対策のためには寝ていけばいいと内海に言われていたが、初めての海外、初めての機内エンターテイメントシステム、最新の映画が見放題だったため、映画を計5本も見てしまった佐々木だった。

 日本時間では朝8時。まるで徹夜明けのようなだるさを感じる。

 ターンテーブルの中心に荷物が吐き出てくるベルトコンベアがあり、そこから流れ出てくる荷物はターンテーブルに落とされ、乗客たちの前を回り始める。ターンテーブルを一周回ってきたスーツケースとベルトコンベアから出てきたスーツケースが時々ぶつかり、ガタガタと音を立てながらターンテーブルは回っている。佐々木はポスターを入れた筒であるポスターバズーカと、青色のスーツケースを預けているので、その二つが出てくるのを待っていた。

 青色のシーツケースが中央のベルトコンベアから出てきたのが見えた。慌ててターンテーブルに近づき、拾い上げる。

 さらに待つ。

 乗客たちは次々と自分の荷物を見つけ、拾い上げていく。

 ターンテーブルの荷物がまばらになっていく。



 何分待っただろうか。ターンテーブルは回り続けているが、もう何も荷物は乗っていない。

 佐々木のポスターバズーカが、出てこなかった。

 大きな音とともに、ターンテーブルの動きが停止する。ワシントンDCからのすべての荷物を吐き出したらしい。しかし、佐々木の手には、ポスターバズーカはない。

 ロストバゲッジ。

 国際線では、たまに荷物が届かないことがある。これをロストバゲッジと言う。それなりによくあるので、もしロストバゲッジになったら、ロストバゲッジ対応のカウンターに行けばいい、と内海から聞いていた。

 ターンテーブルから離れて、近くのカウンターへ行く。そこには黒人の女性が暇そうにしていた。

 佐々木を見ると、特に表情を変えずに、どうしたの?と聞いてきた。

 佐々木は自分の荷物が届かないことを言う。

 しかし、英語がよく聞き取れない。時々知っている単語は聞き取れているのだが、妙に速いのと単語と単語が全部繋がっているように聞こえてしまって、はっきりと理解ができない。そして、こちらが喋っても時々理解してくれない。それでも、身振り手振りでなんとか状況を説明することができた。

 今どこにポスターバズーカがあるかは、わからないらしい。成田にはないそうだ。滞在先について聞かれたので、ホテルの情報を紙に書く。見つかり次第ホテルに郵送してくれるそうだ。

 今回の国際会議は、月曜日に始まって金曜日に終わるので計5日間。佐々木の発表は火曜日の午前中だった。前日入りした為今日は日曜日なので、明日届かなければ発表ができないことになる。内海から聞いた話だと、次の日に届くことを期待するのはやめておいたほうがよい、とのことだった。

 ポスターの電子ファイルは一応ノートPCに入れてあった。

 これはアメリカのどこかで印刷する必要があるかもしれない。しかし、A0みたいな特大のポスターを印刷してくれる場所は見つかるのだろうか?

 睡眠不足の頭ですぐにこの件を考えるのはしんどい、そう思いつつ、スーツケースを引きずってホテルを目指した。




 空港からバスと地下鉄を乗り継ぐことで、ホテルに到着。

 ボストンの中心地、ボストンコモンという大きな広場の近くのホテルだった。20時を過ぎているのにまだ暗くなっていない。徹夜明けのだるさを通り過ぎてふわふわとした気分だ。

 明日の朝から国際会議が始まるが、どこかでポスターを印刷しに行かないといけない。

 ホテルは少し古めの建物で、ロビーはアメリカの映画にでも出てきそうなロビーだった。シャンデリアが所々についていて、室内がとても明るい。荷物を運ぶ人と思われる人が待機している。見た目すごく高そうに見えるが、建物が古いからか宿泊料金は普通のホテル程度だった。それでも、出張の費用として出る大学が規定している宿泊費と日当を足した額よりも、宿泊料金は高かった。なので今回の出張は少し赤字になる。

 ふらふらしながらフロントでチェックイン。部屋番号の書かれた紙とカードキーをもらう。

 部屋に到着しとりあえず靴を脱ぐ。

 長旅だったのでシャワーを浴びようと思い靴下を脱ごうとベッドに腰掛ける。座った瞬間に疲れがどっと押し寄せ、そのまま後ろに倒れこんだ。そして、そのまま寝てしまった。



(続く)




 

 


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