第14話 修士論文審査会

 1月15日、午後1時、15分前。

 佐々木は、15分後に始まる修士論文審査会のために、会場となった教室でプロジェクターのセッティングをしていた。午後の一番目なので、発表の準備をする。教室の前の黒板の左にある壁のボタンを押すと、黒板の上部からスルスルとスクリーンが降りてくる。教室の天井に固定されているプロジェクターの電源をリモコンで入れると、少し遅れてスクリーンに青い光が投射される。教卓の上部に伸びているケーブルをノートPCに差すと、PCの画面がスクリーンに映る。

 佐々木は教室を見回した。まだ誰も来ていない。

 T大の物理学専攻の修士論文審査会は、二週間ほどをかけて毎日行われる。それぞれの先生方が忙しいからか学生の人数が多いからか、審査員となる先生方のスケジュールに合わせてその学生の発表の日が決まる。日程がばらけているので、それを毎日聴きに来るような人はほとんどおらず、審査を見に来るのは同じ研究室の人か友人くらいだ。一方、Sキャンパスの大学院の場合は学生の人数が少ないためか、ある日丸々一日を使って全員が順番に審査される。その場合は、とりあえず座っていれば次々と発表を聞けるので、教室を埋めるほど人がいることが多い。

 開けっ放しの後ろのドアから、元猪俣研現鵜堂研のD1の内海が入ってきた。佐々木は目が合ったので少し会釈した。内海は猫背で移動し、窓側一番後ろに座った。

 時計を見る。あと10分で始まる。

 発表時間は30分程度。質疑応答を含めて1時間30分の枠が割り当てられている。残りの1時間は、審査員の先生が思う存分学生にツッコミを入れる時間のために確保されている。アメリカなどでは修士論文や博士論文の審査会はディフェンスと呼ばれ、学生は審査員の攻撃に耐え切れれば合格となる。日本でもそれは変わらない。T大の修士論文審査は主査の先生は指導教官なので、よっぽどのことがない限り不合格にならない。不合格になるような学生は、そもそも修士論文提出の許可が指導教官から降りない。昨年度の鵜堂研の緒方のように。

 佐々木は教卓の上のノートPCから一度ケーブルを抜き、PCのモニタ上でスライドの最終確認をする。スライドは約30枚。発表時間に関しては厳密な時間制限はないので、ちゃんと話さえすればいいはずだ。ノートPCの横には、印刷した修士論文を置いている。




 修士論文を審査員の先生たちに提出するのは、大変だった。

 修士論文が出来上がったのが、12月中旬。鎌田と会った三日後だった。A4で約100ページ。それを印刷し、指導教官であり主査の鵜堂教授に提出。赤ペンで真っ赤になった原稿を直し提出し、と何度も鵜堂とやり取りを繰り返し、副査の先生に提出できる準備が整ったのが12月24日。副査はKキャンパスの神田准教授と、Sキャンパスの慶留間教授だった。二人に提出に関してメールで連絡。二人とも12月26日が良いという返事。午前中にSキャンパスに行き、午後にKキャンパスに行くことに。

 12月25日に修士論文を印刷。しかし、何度も印刷したせいかトナーが切れ途中で印刷不能に。D3の江藤が自分の論文の印刷用に持っていた予備トナーのおかげでなんとか印刷再開。二部目を印刷中に紙が詰まって印刷不能に。D1の内海が試行錯誤してくれたおかげでなんとか印刷再開。

 終電を逃す。

 家は都内なので徒歩で帰っても良かったが面倒だったので研究室の床で就寝。そして朝一でSキャンパスに行き、午後一でKキャンパスに行き、二人の先生にやっと修士論文を手渡すことができた。



 5分前。後ろのドアから瀬田が入ってきた。赤いコートに紺のマフラーをしている。佐々木を見かけると、瀬田はにこやかな顔で手を振った。佐々木も少しだけ手を振る。瀬田は一番後ろの廊下側に座った。

 2分前。主査の鵜堂教授、副査の神田准教授と慶留間教授の三人が前のドアを開けて入ってくる。佐々木は軽く会釈する。三人は一番前に座った。三人ともカバンから紙の束を取り出す。佐々木の修士論文だ。佐々木はノートPCにプロジェクター用のケーブルを繋ぎ直し、スライドのタイトル画面をスクリーンに表示させる。

 1分前。観客が入ってくる。現鵜堂研メンバーのM1の鈴木、M2の清水、近藤、緒方、そしてD3の江藤だ。

 元猪俣研メンバーは、現鵜堂研メンバーである内海しかいない。鎌田は、来ていない。Kキャンパスからはわざわざこないのだろう、と佐々木は思った。



「えーと、それでは、佐々木透さんの修士論文審査会を始めたいと思います。主査は私、鵜堂です。よろしくお願いいたします。では、佐々木君、どうぞ」

 佐々木は、レーザーポインターの赤い光がちゃんと出ているか手のひらで確かめ、黒板の前、スクリーンの横に立つ。

「佐々木です。どうぞよろしくお願いいたします。私の修士論文のタイトルは...」

 佐々木は教室を見回しながらしゃべり始める。審査員の三人の先生方以外は全員教室の後ろの方に座っており、真ん中のあたりが空いている。

 まずはイントロ。新しく発見された超伝導体について。その超伝導転移温度、結晶構造、電子構造。何が新しいか。何が他の超伝導体とは異なっているか。興味深い実験結果の提示。既存の理論では単純には説明できないことを示す。

 ここには質問はない。

 次に、理論の先行研究の紹介。物理学会で聞いたTH大の研究について。論文はプレプリントサーバー(注:論文が雑誌に投稿して出版されるまでのタイムラグをなくすための、速報のための査読のないサーバー。物理では一般的)に掲載されており、そこに載っていた図を見せる。実験結果を示す黒色のドットの上に、彼らの計算した理論曲線が被せられている。彼らの主張、『この超伝導体では、スピン軌道相互作用、が重要である』を見せる。佐々木は、低温部分での実験結果と彼らの理論計算結果のズレについて述べ、この理論計算が完璧でないことを示す。

「しかし、この理論計算はとても合っていると思いますが。そんなに低温部分は大事なのでしょうか」

 慶留間教授が聞く。大丈夫、これは想定質問だ。瀬田とこの質問への回答を準備してある。

「低温部分の関数を両対数プロットするとですね、実験結果と理論計算結果のべきが異なっている、つまり、関数形が異なっていることがわかります。理論計算では温度の関数として指数関数型の減少をしていますが、実験結果では温度の三乗に比例して減少しています」

 佐々木が答えると、ふむ、と言って、慶留間は頷いた。問題なかったようだ。

 佐々木は発表を続ける。イントロは終わり。次に、モデルの説明に入る。この超伝導体を説明するために用いる理論モデルの説明。基本的なモデルは標準的な超伝導現象を記述するモデルで、新超伝導体を記述するために幾つか物質に固有な項が付け加えられている。その項自体は、先行研究で提案された項であることをきちんと明示する。発表リハーサルの際、瀬田に『何が自分の仕事で、何が他の人の仕事か、引用を提示してはっきりさせたスライドにしてくださいね』と言われていたので、その辺も抜かりない。

 モデルに対して、いくつか質問が出る。そのうちの一つは神田からで、超伝導について基本的なことを理解しているかを見るための質問だということが明らかだった。佐々木は注意深く回答する。神田は頷いた。問題なかったようだ。

 佐々木は時計を見る。15分が経過していた。リハーサルと同じペースだ。

 次に、瀬田と佐々木で構築した理論についての説明に入る。使った近似について。「近似の範囲は?」すぐに質問が出る。これも想定質問だ。それについて回答し、続ける。無限級数展開のすべての和をとった場合と、いくつかの個数で打ち切った時の比較。無限和の妥当性の検証。実験を説明するために重要な項の説明。

 それら全てを考慮して導出される。一つの方程式。

 導出された方程式を数値計算で解いた結果のプロット。二つほど実験結果から決められないパラメータがあり、その二つのパラメータを振ってグラフがどうなるかを図示する。

 イントロで見せた、実験結果を再び見せる。まずその上に、TH大の理論計算結果の曲線を重ねる。そしてさらに、自分の理論計算結果の曲線を乗せる。二つのパラメータをうまく決めると、実験結果を綺麗に再現する。

 佐々木は聴衆の反応を伺う。今の所居眠りをしている人はおらず、こちらを見ている。瀬田と目が合うと、彼女は微笑んだ。

 二つのパラメータの値についての考察。TH大の理論計算結果と自分たちの理論計算結果の低温での振る舞いの比較。自分たちの理論の方が実験と同じ関数形であることを強調。先行研究の理論が主張した『スピン軌道相互作用が重要である』という結論にはならないこと示す。

 時計を見る。30分が経過。次にまとめに入るので、ちょうど良い。

 最後のまとめスライドに入る。一つのスライドに、今回得た結果を文章として記したものと、計算して得られたグラフを載せている。

「以上で発表を終わります。どうもありがとうございました」

 佐々木はお辞儀をした。

「ありがとうございます。それでは、質疑応答に入らせていただきます。審査員以外の聴衆の方も、自由に質問してください」

 鵜堂がそう言うと、質疑応答タイムに入る。しかし、審査員以外の聴衆はほとんど身内のような研究室関係者しかいない。なので特に後ろからは手が上がらない。前から手があがる。慶留間教授だ。慶留間教授はメガネを左手で額に上げつつ佐々木の修士論文のプリントアウトを眺めながら言う。

「佐々木さんの理論が実験をよく説明することはわかりました。しかし、TH大の理論も同じくらいよく説明している気がします」

「いえ、先ほども言いましたように低温での関数形が異なっていまして」

「うーん、温度の三乗と指数関数って、本当に実験の精度の範囲内で区別できるものですか? プロットの点の数とエラーバーの大きさを考えれば、指数関数で実験をフィッティングすることが可能なのでは?」

「それは、これらの理論結果を踏まえて新しい精度の良い実験をしていただければ...」

「うーん。この二つの理論、使っている手法も考慮している事も、シナリオも違っていますが、説明する実験結果に対して同じような曲線を描く事ができるわけですよね。この二つの理論シナリオが食い違うような、実験で判断できるようなものはありますか?」

「ええとですね...」

 これは想定質問だ。しかし、その回答は現時点では、ない。佐々木は瀬田の方を見た。瀬田は、がんばって!、というような表情をしてこちらを見ている。

「慶留間先生のおっしゃる通りで、二つの理論による結果がはっきり食い違う実験を提案できれば、この超伝導体で何が起きているかはっきりわかると思います。しかし、今のところ、提案はできていません...」

「そうですか」


 その後、三人の審査員は手に持った修士論文を眺めながらいくつもの質問をした。時々想定していない質問が出てきて大変焦ったが、焦りを顔を出さずに回答することができた。

 鵜堂が壁の時計を見る。

「それでは、佐々木透さんの審査会を終わります。今から、博士課程進学の是非も含めた、審査員のみでの非公開審査を行いますので、他の聴衆及び佐々木さんは教室の外に出てください。佐々木さんは教室の外で待機していてください。15分後に再び呼びます」

「わかりました」

 聴衆だった鵜堂研メンバーと瀬田は後ろのドアからぞろぞろと出て行く。佐々木はノートPCをそのままにして、前のドアから教室を出た。外に出ると、瀬田が待っていて、「グッジョブ。大丈夫と思うよ。じゃあ、またね」と言って、手を振って去っていった。

 佐々木はドアのそばに立って、呼ばれるまで待ち続けた。

 その15分は、ここ数年で一番長く感じた15分だった。



(続く)


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