第13話 チョコレート
12月中旬。佐々木は修士論文の執筆の仕上げに取り掛かっていた。
机の上には紙が散乱し、モニターとキーボード以外の場所には全て紙があった。マウスは紙の上で使っていた。
T大の物理学専攻の修士論文の事務への提出締め切りは、年明けの1月5日だ。それより前に、指導教官にチェックしてもらい、オーケーを貰わなければならない。特に鵜堂研の場合、鵜堂教授がオーケーを出さない可能性もあるので、慎重かつ迅速に作成しなければならない。
修士論文は、A4用紙で大体50枚から100枚くらいが相場だ。修士論文には研究の背景、その研究を始めるに至った動機、その他の先行研究、などが必須で、学部を卒業し大学院に入ったばかりの初学者がその修士論文だけを読んで問題点とその解決策を理解できるのが望ましい。推理小説で言えば、どんな事件が起きたか、どんな状況なのかを説明した後、犯人を特定し、その犯人が犯行に至った動機についても述べているのに似ている。理論研究の場合、最終的に研究に使った理論手法の詳細な記述はもちろんのこと、その理論手法の土台となるような基本的な理論についても書かなければならない。
T大の物理学専攻の場合、修士論文を審査する審査員は、指導教官となっている。つまり、正式に提出する前に、指導教官が納得するクオリティの修士論文を執筆しなければならない。
佐々木はモニタから目を離し、本棚の空いたスペースに置いたコーヒーカップを取り、ブラックコーヒーを喉に流し込んだ。すでに冷めていて、苦い。左前には同学年の近藤の机があり、モニタに向かって集中しキーボードを叩いている。その机の横のゴミ箱にはエネジードリンクの空き缶が積み上げられている。近藤曰く、積み上がっていく空き缶を見ると達成感があるそうで、彼が修士論文を書き始めてから一度もそれらの空き缶は片付けられていない。
午後3時。佐々木は、立ち上がり、院生室を出た。今日は朝から今までずっと院生室にこもって修士論文を書いていた。昼ご飯は朝の通学時に買ったコンビニの100円フェアのおにぎりだった。少しお腹が空いたので、生協購買部に行ってチョコでも買うつもりだ。
佐々木と瀬田の共同研究は、最後には実験結果を説明することができた。秋の物理学会でTH大のグループの発表とは異なる結果になった。つまり、彼らが重要視する効果を入れなくても、実験をうまく説明できたのだ。TH大のグループとの結果の違いは十分新規性のあるものになった。今後TH大の理論とこちらの理論とで異なる結果が出るケースを探すことで、どちらが正しいかを決めることができるはずだ。鵜堂研の研究進捗セミナーでの鵜堂の感触も上々で、ちゃんと書き上げることさえできれば、修士論文は提出できそうだった。
物理学専攻の建物を出て、生協購買部へと向かう。Hキャンパス内にはコンビニと生協購買部の両方があり、そのどちらも佐々木が過ごす院生室からほぼ等しい距離にある。佐々木は気分によって行く場所を変えていた。今日は購買部だ。
T大生協購買部には、様々なものが売られている。文房具、お菓子、お弁当、記念グッズ、白衣、ケーブル等々。そのため、多くの学生が様々な目的で訪れいつも混雑している。
佐々木はお菓子コーナーに向かう。この購買部はチョコレートに力を入れていて、ドイツの有名な板チョコをはじめ、様々な種類のチョコレートが置いてある。物理の理論の研究者は、タバコを吸う人が極端に少なく、甘党がとても多い。チョコレートの糖分を必要としているのかもしれない。ドイツに住んでいた瀬田は、時々この購買部にドイツ製のチョコを買いに来るらしい。他のところよりも種類が豊富なのだそうだ。
今、佐々木は、日本の板チョコにするか、スイスの個包装のチョコにするか、迷っていた。板チョコは安いが、買ってすぐについ全部食べてしまう。個包装のチョコは包装を外す手間があるからか理性が少し働き、全部を食べきることはない。
「あ、佐々木君」
佐々木が5分以上悩んでいると、横から声が聞こえた。声のする方を振り向いてみると、鎌田だった。ベージュのコートを着て赤いマフラーを巻いている。
「あれ、鎌田さん、Hキャンパスに来るの珍しいね」
鎌田は手に菓子パンを持っていた。
「修士論文の原稿を副査の先生に手渡しするのに、ここに来てたんだ」
「え、ということは、もう書き上げたの?」
佐々木は、鎌田の目を見ながら言った。毎週の瀬田との会話で少し女性との会話に慣れていた。以前ならあまり鎌田とも喋れなかったが、今なら同性の友人と同じ程度には話すことができる。
鎌田はニコッと笑って、頷く。
「そうなんだ。神田先生との研究がとてもうまくいっていて、とても綺麗にまとまったから、さっさと書いちゃったんだよ」
「へー」
物理学専攻では、伝統的に、修士論文の審査員の先生方には原稿を手渡しすることになっている。物理学専攻の先生は主にHキャンパスにいるので、Kキャンパスの神田研の鎌田はHキャンパスに来る必要があったのだろう。
「佐々木君の方はどう? 順調?」
「ああ。一時期はどうなることかと思って胃が痛かったけど、今月初めにはなんとかなったから、今順調に書いてる」
「そうなんだ。よかったね」
佐々木は、一番手の届きやすい位置にあった赤いパッケージの日本製の板チョコを手に取った。今日は半分だけ食べて、明日もう半分を食べる予定だ。
鎌田と佐々木は二人でレジに並ぶ。鎌田が前だ。購買部には複数のレジがあったが、どこも混雑していて、長い列ができていた。
「そういえば鎌田さん、6月のアメリカの国際会議、行く? 超伝導を扱う大きな国際会議だし、鵜堂先生が旅費を出してくれるから、俺は行こうと思っているんだ。確か、アブストラクト(要旨)の締め切りがそろそろなはず。ポスター発表か口頭発表か迷っているけど、とりあえず口頭発表に希望として出すつもり。発表者数も多いし全然名前知られてないから多分ポスターになるんだろうけどさ」
レジに並びながら、鎌田に言う。鎌田は最初首をかしげるような動きをした後、佐々木を見た。
「あれ? まだ佐々木君にまだ言ってなかったっけ?」
「え? 何を?」
佐々木は問いかける。鎌田は小さな声で「あ、そうか。会ってないのか」と呟き、言った。
「私、博士課程に進学するのをやめて、修士課程を修了してそのまま次の春に就職することにしたんだ」
「え?」
「もう内定も出ていて、行き先も決まってるよー。だから、6月のその国際会議の時にはもう仕事を始めてるから、行けないだ。ごめんね」
「は?」
佐々木は思わず声を出してしまった。レジはちょうど鎌田の番になり、鎌田はその声を聞かなかったように思えた。そのまま佐々木もレジで会計を済ませる。
鎌田は佐々木の会計が終わるのを待っていた。
「ずっと言おう言おうと思ってて、結局言えずじまいだったのをすっかり忘れてたの。ごめん。佐々木君も神田研が第一志望だったのに、選ばれた私が博士課程に行かないなんて、悪いのはわかっているよ」
「なぜ?」
「猪俣研が解散してから、いろいろ考えたんだ。神田先生も神田研の人たちもみんないい人で、Kキャンパスも過ごしやすくて。でも、何か違和感があって。だから就活も平行してやっていたの」
鎌田はレジから離れ出口へ向かった。佐々木も同じように移動する。そして、二人は購買部の入り口の脇で立ち止まった。鎌田が続ける。
「就活はうまくいって、無事ある会社に内々定を貰って。これを蹴って博士課程に進学するか、この会社に行くか、選択肢ができた時、迷ってしまって。その時に、グローバル卓越大学院制度に応募する時に猪俣先生が言っていたことを思い出して。『この制度に選ばれたからといって、強制的に博士課程まで行かなくてはならないわけではないですよ。もし、後で迷ってしまった時は、よく迷ってから、進学するか決めてください』」
佐々木もその言葉は聞いている。二人が、猪俣から承諾のサインをもらった時に猪俣が言った言葉だ。
「そして、よく考えた結果、結局私は、猪俣研で学位を取りたかったんだな、と気づいて」
鎌田は佐々木をまっすぐに見つめた。
「就職することにしたの。佐々木君には本当に悪かったと思ってる。ごめんなさい」
そして鎌田は頭を下げた。
「わかったよ。でも別に鎌田さんは悪くない。行き先はグローバル卓越大学院で借りたお金はどうするの?」
「あのお金、なるべく手をつけないようにしていたから、まとめて一括で返すよ」
「...そうなんだ。よかったね」
「じゃあ、またね。今度は修論発表会の時だね」
「また」
鎌田は去って行った。佐々木は、購買部の入り口のそばで、立ち尽くしていた。一年で神田研をやめて就職するのなら、自分に譲ってくれても良かったのに。
来年度神田研から鎌田がいなくなるからといって、佐々木が希望しても来年度に神田研に移籍できるわけではない。鵜堂教授との関係も良好で、移籍の理由となるものがないからだ。さらに、瀬田の職場が上野にあって、HキャンパスからKキャンパスへと移ってしまうと共同研究が不便になるので、佐々木は実際に移籍を希望するつもりはなかった。
佐々木はしばらく鎌田が歩き去った方向を見ていた後、研究室のある建物に向かって歩き始めた。歩きながら、先ほど買った板チョコを取り出し、割って食べる。とても甘い。
建物の入り口に着いた時には、板チョコを全部食べてしまった。
(続く)
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