第11話 秋の物理学会 夜
物理学会初日の夜。佐々木は瀬田と猪俣と3人でススキノ駅の近くの居酒屋に来ていた。テーブルには、焼きホッケや海鮮ポテトサラダ、刺身盛り合わせなどが置かれている。佐々木は、あまり食欲がなく、枝豆でビールを飲んでいた。瀬田は刺身盛り合わせの前に座って、美味しそうに口に運んでいた。猪俣は1合の
あの後佐々木は、頭が真っ白になり、気がついたときには午後最後のセッションが終わっていた。
先を越されていた。自分たちの研究が新しいものではなくなった。
そう考えたときには、吐き気はないのに吐き気があるような、胸がぐるぐる締め付けられるような、目の前の現実が少し後ろに下がったような、とても気分が悪くなった。
その後、隣にいた瀬田が「大丈夫よ。大丈夫」と励ましてくれて、「とりあえず美味しいものでも食べましょう」と、この居酒屋に来たのだった。
瀬田は箸を置き、佐々木を見る。
「佐々木さん、やっぱり大丈夫だと思うよ。確かにあの講演は実験結果をよく説明していたけど、私たちの理論でもうまくいくと思う」
瀬田はマグロをつまみつつ言う。猪俣は、二人を眺めながら日本酒を飲んでいる。
「でも、僕たちの理論では『スピン軌道相互作用』を取り扱えないじゃないですか。もしスピン軌道相互作用が実験を説明するのに必要なら、僕たちの理論じゃこのままどうあがいても説明できないですよね...」
「彼らの理論では、それが必要だという話で、私たちの理論で必要かどうかは、わからないわ」
「そんなことが、あり得るんですか...」
佐々木はビールをあおりつつ言う。瀬田がなぜそんなに陽気なのか佐々木にはわからなかった。これまでやってきた共同研究が無になろうとしているのに、なぜそんなに呑気に刺身を食べられるのか。不機嫌そうな顔をしたのに気がついたのか、持っていたおちょこをテーブルに置き、猪俣が口を開く。
「佐々木君、瀬田さんが言うように、大丈夫だと思いますよ。理論の手法自体は、その人たちとは違うわけですよね?」
「はい」
「なら、大丈夫です。私は二人の共同研究の詳細は分かりませんが、このまま共同研究を続けた場合の結末はいくつかしかありません。まず、最後まで計算できなくて結果が出ない場合。これは、今回の学会発表とは関係なく、いつでも起きうるリスクですね」
猪俣が話す間、瀬田はホッケの開きをつまみ始めた。
「次に、最後まで計算した結果、実験結果を説明できなかった場合。これも、もともとありえる話でしたよね。自分がやっている理論の結果が実験を説明しない、ということはよくあります」
「はい」
「最後に、計算した結果、予定通りに実験結果を説明できた場合。彼らの理論の方が説明できたのが先かもしれません。しかし、理論手法が違います。特に、彼らが必要だと主張しているものが入っていないわけですよね。ということは、『私たちの理論でも説明ができたので、スピン軌道相互作用自体は本質的ではありません』と結論付けられます」
「は、はい」
佐々木は戸惑いながら頷いた。
「佐々木君が気にしているのは、二番目の、実験結果がうまく説明できないかもしれない、ということですか?それとも、説明はできたとして、それが彼らの方が先だったので困る、ということですか?」
「え、えっと...」
佐々木は、彼らの発表を聞いた時、先を越されてしまった、ということに自分がとてもショックを受けていたことを思い出していた。しかし、猪俣の言っていることが正しいのなら、たとえ先を越されていたとしても、自分たちの結果は新しいことになる。一番最初、というのが彼らに取られてしまっているのは悔しい。けれど、彼らの理論の結果が正しいわけじゃない、と主張することは、興味深いと佐々木は思った。
佐々木は刺身盛り合わせの皿からサーモンを取り、醤油皿に入れ、食べる。北海道ならではの、肉厚でやわらかいサーモンは旨味があり美味しい。瀬田はホッケの開きのほとんどを食べ終わり、佐々木を見た。
「佐々木さん、猪俣さんが言うように、実験を説明できさえすれば、私たちの共同研究は新しい結果になるので、問題ないですよ。ただ一つの問題は、彼らの主張が正しかった場合、スピン軌道相互作用を入れないと実験を説明できないということね。その場合には、私たちの理論にはスピン軌道相互作用は入っていないので、どう頑張っても説明できないことになる。でも本当に私たちの理論で説明できないとわかってしまったとしても、大丈夫。その時は、彼らの結果を引用して、『別の理論を用いても、スピン軌道相互作用の重要性がわかった。スピン軌道相互作用を入れて調べることは次の課題である』としてしまえばいいのだから」
「...なるほどです」
佐々木はだんだん気分が軽くなってきた。やるべきことは、ともかく今の計算を続けて、この共同研究の先にある結果がどうなるかを見極めることだ。同じ理論計算をやられたわけじゃない。
佐々木は、海鮮ポテトサラダの残っていたポテト部分を食べてみる。マヨネーズが効いていて美味しい。
「ともかく、結果が出るまでやってみましょう!」
瀬田はトマトジュースを片手に、笑顔で言う。佐々木もつられて笑う。
瀬田と猪俣とは居酒屋の前で別れ、佐々木は札幌駅まで歩くことにした。瀬田も猪俣も、ススキノ駅の一つ先の中島公園駅あたりのホテルらしい。秋の札幌はすでに寒いが、食事をした後なのでその寒さが心地よい。
佐々木と同じように札幌駅方向に歩いている人、あるいはまだ飲むのかススキノ方向へ向かう人、様々な人が歩いており、人通りは多い。時々『フェルミ面が』とか『相転移が』とかの物理用語が聞こえてくるので、間違いなく物理学会関係者が数多くいる。瀬田から前に聞いた話だと、物理学者が居酒屋で話す内容は、人事と物理が主らしい。たとえ酔っ払っていても、物理の議論をしていたりする。そしてそれは海外でも変わらないらしく、国際会議などで物理学者が集まると、会場近くのレストランでは物理用語が聞こえるそうだ。
年に二回の物理学会では、日本中から物理学者が同じ場所に集まってきて、昼は議論し、夜も議論する。普段会えない知人と会い、最近の近況を聞き、物理の話をする。そういう人がたくさんいて、夜の札幌は物理学者たちで賑わっている。
佐々木にはまだ、全国に知り合いはいない。知っているのは、猪俣研関係者だけだ。もっと知り合いを増やすには、どうすればいいのだろう。
ほろ酔いの頭で、今後の研究について考える。
佐々木と同じ超伝導体を研究しているTH大の立花研の人たちは、別に佐々木たちと対立しているわけではない。佐々木たちは今回発表していないので、彼らは佐々木たちが何をしているかも知らない。学会中に見つけて詳しく話を聞いてみたいが、発表がショックすぎて顔を覚えていない。
佐々木は頭を横に振る。
ともかく、自分の研究を進めることが大事だ。
「ホテルに帰って、少し計算を進めてみよう」
そう考えながら札幌駅まで歩き、ホテルの自室までたどり着いたが、佐々木は強烈な眠気に襲われてそのまま寝てしまった。
物理学会の日程は後三日あった。残りの日程は、いろいろな講演を聞いたり寝てしまったりしながら佐々木は物理学会を楽しんだ。初日は猪俣と瀬田に誘われて夕食を居酒屋で食べたが、それ以外の日は特に誰かと飲む機会もなかった。夜は一人で札幌を歩き、ラーメンやスープカレーなどを食べ、ホテルに帰ってからは自室で自分の研究の計算を進めた。佐々木の研究はそろそろ手計算でできることが少なくなってきたため、数値計算のためのプログラム作りも並行して続けた。
TH大の発表は当初佐々木を大いに凹ませたが、瀬田と猪俣のおかげで、今度は逆に活力となった。
佐々木は帰りの飛行機の搭乗口の待合スペースでも計算を続け、機内でも計算を続けた。
研究成果が、だんだんと現れてきていた。
(続く)
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