第10話 秋の物理学会 昼

 9月下旬。佐々木は、夜の札幌駅前を歩いていた。物理学会がH大で開催されるため、その前の日に飛行機で新千歳空港に到着し、札幌駅前のホテルにチェックインしたのだった。今は夕ご飯に何を食べようか適当に歩いているところだ。

 今年の秋の物理学会の発表申し込みには間に合わなかったので、発表せずに参加という形で札幌にやってきた。鵜堂は世界的に有名な研究者だからか、猪俣研以上に研究費に余裕があるらしい。発表の有無を問わず、今回の院生の旅費は全て研究費から出た。今回は、国際会議に参加していて日本に不在の緒方以外は全員参加だ。

 佐々木は、札幌駅から大通公園に向かって歩いていた。街には、物理学会関係者と思われる人がちらほら歩いている。瀬田が言っていたように、物理学会関係者は何となく雰囲気で、わかる。札幌は200万人近い人口があり、さらに観光地でたくさん人がいるにもかかわらず、わかる。

 大通公園に到着。夜にもかかわらず公園は結構明るい。左のほうには札幌テレビ塔がライトアップされているのが見えた。見た感じ、佐々木のいた周辺にはあまり一人で入れそうな店は見つからない。大通公園はとても長いので、大通公園沿いに歩くか、それともそのまままっすぐ進んで狸小路やススキノの方へ行くか、迷う。

 札幌といえばラーメンかなと、ラーメン屋なら飲み屋の近くかな、ということで、札幌の飲み屋街であるススキノに向かって、そのまままっすぐ行くことにする。



「あ、佐々木君だ」

 声が聞こえた方を見ると、そこには鎌田がいた。そのまわりには3人、関係者らしき男子学生っぽい人たちがいる。多分鎌田が移籍した先の研究室、Kキャンパスの神田研の面々だろう。

「鎌田さんも学会来てたんだね」

「ええ。発表なしの参加だけど。佐々木くんも参加だけ?」

 鎌田は集団から離れて佐々木の方へ近づいてくる。紺色の長袖に紺色のスカートだ。

「ああ」

「鵜堂研での調子はどう? 佐々木君が鵜堂研になっちゃって、心配してたんだ」

 佐々木は一歩だけ下がる。二人とも神田研を志望して鎌田がたまたま神田研に通っただけだ。別に鎌田が何か佐々木の邪魔をしたわけじゃない。お互いに進路を考えて、そうしたら希望が被ってしまっただけだ。鎌田は佐々木が超伝導の理論の研究をやりたいことを知っていたけれども、鎌田は鎌田でやりたいことがあって神田研を志望したんだから、仕方がないことだ。佐々木はもやもやとする気持ちを押しとどめて、笑顔で鎌田の方を見る。

「幸い、いい共同研究者の方が見つかって、その人と一緒にやってる。修士論文はこのまま行けばなんとかなりそう」

「そう、それはとても良かった。私の方もなんとかなりそうだよ。じゃあ、またね」

 そう言って鎌田は3人のもとへ戻った。4人は談笑しながら離れていく。

 9月下旬の札幌の夜はすでに寒い。佐々木はラーメン屋を探してまた歩き始めた。





 次の日の朝、佐々木は物理学会の会場となっているH大に来ていた。朝9時からの講演を聞くため、札幌駅近くのホテルから歩いてH大に向かったが、キャンパスの中に入ってからが広かった。物理学会のメインの会場となっている建物は札幌駅から地下鉄で二駅近くあったようで、佐々木はただひたすらに歩いた。同じように札幌駅から会場に向かおうとした物理学会関係者の人たちは多く、人によっては走っている。

 会場に到着。会場となった建物はとても大きかった。物理学会では、大学の教室が講演用の部屋として使われることが多い。講演は似たトピックスを取り扱う人でまとめられセッションと呼ばれる。人が多そうなセッションは、人がたくさん入る教室が割り当てられる。全日程が四日間あり、その間に数千件の講演を割り当てるので、同時進行で大量のセッションが行われる。一つ一つの教室に別の内容のセッションが組まれ、聞きたい講演が別の教室の時は、せっせと動くことになる。

 階段を上がり、2階へ。目的の教室に入る。あと1分で講演が始まるというのに、朝の講演だからか特にたくさん人がいるわけではなかった。席は全部埋まっておらず、半分くらいだろうか。佐々木は後ろの廊下側の席を確保する。このセッションは磁性理論、すなわち、広い意味での磁石の性質を扱うセッションだ。佐々木は、内容に興味があるからここに来たのではなく、鵜堂研先輩の3回目のD3江藤が二つ目の講演として話すのでそれを見にきた。物理学会の口頭講演は、一人10分の講演時間と5分の質疑応答時間の計15分だ。15分ごとに次々と講演が進んでいき、一回の15分休憩が入り、次のセッション、という流れになっている。

 佐々木はリュックを横の椅子に置き、講演題目リスト、よく、黄色い本、と呼ばれる本を開く。昨日の夜のうちに聴きたい講演にペンでチェックを入れておいた。午前前半のセッションはここで江藤の講演を聴き、午前後半は、超伝導理論、のセッションを聴く。幸い教室は同じ階のすぐ近くのようだ。

「みなさまおはようございます。このセッションの座長を務めさせていただきます、R大の鈴木です。それでは、本日午前前半のセッションを開始いたします。最初のご講演は…」

 教室の右前方で座長担当の人が喋り始める。30代前半くらいの人で、長袖にジーパンだ。座長は博士号を持つ人のなかで、そのセッションで話される内容についてある程度わかっている人が運営委員会で指名されてボランティアでやるらしい。

 前にはプロジェクターとそのスクリーン。そして最初の講演者が立っている。この人も長袖にジーパンだ。長袖には襟もついていない。

「ご紹介ありがとうございます。K大理学部の清田です。今日は...」

 講演が始まった。イントロダクションで自分の研究の位置付けについて話した後、理論手法、その結果、という流れで発表は進んでいく。

 しかし、佐々木にはよくわからなかった。イントロダクションが難しかったのか、それとも理論手法が難しかったのか、ともかく、何のためにやっているのか、がよく理解できなかった。それは講演者のせいではなく、佐々木がこのセッションで話される話題の基本的なことをわかっていなかったからだ。佐々木は超伝導のことなら何となくわかるが、磁性理論、すなわち磁石の性質の理論についてはほとんど何も知らなかった。

「ありがとうございました。次のご講演は、T大理の江藤さん、鵜堂さん、発表は江藤さんです。講演題目は...」

 わからなすぎるせいもあり、一瞬寝てしまい、気がつくと既に一番目の講演者は終わって二番目の江藤の番になっていた。江藤はいつもと同じような格好、赤と黒のチェックシャツにジーバンだ。物理学会はジーパン率が高い。

 江藤の話は何回か鵜堂研の研究進捗セミナーで聞いているので、よく知っている。ここに来たのは、知っている人の講演を聴きたかったというのと、どんな風に10分間話すかを知りたかったからだ。

「おはようございます。T大理の江藤です。本日は...」

 江藤は慣れた感じで発表を進めていく。佐々木は、今度は知っている内容すぎて眠くなり、寝てしまった。




 午後。ものすごい人ごみの学生食堂でなんとか昼ごはんを食べた後、ある教室にやってきた。佐々木と瀬田が共同研究している新超伝導物質のセッションが、この部屋であった。開始10分前。どこか座るところはないかと探してみるも、すでにかなり席が埋まっている。後ろから順番に空席を目で探していくと、前から三番目あたりの窓際近くに瀬田が座っているのが見えた。瀬田の左隣の一番窓際の席が空いている。右隣には、猪俣がいた。二人で談笑している。

 佐々木は後ろの窓際から二人のところへ向かう。

「こんにちは、瀬田さん、猪俣先生」

「こんにちは。佐々木さん」「佐々木君、こんにちは」

「ここ、座ってもいいですか?」

「もちろんどうぞ」

 佐々木はリュックを椅子の下に入れつつ座る。瀬田は黒いセーターを着ている。猪俣は紺のスーツだ。瀬田と猪俣はニコニコしている。

「ちょうど、佐々木さんの話をしていたのよ。結構頑張ってるって」

「そうそう。結果もいい感じになっている、って今聞きましたよ。良かったですね」

「ありがとうございます」

「このセッションの最後の二つの講演が、理論の講演ね。二人ともTH大の立花研の学生さんみたい」

「そうなんですか」

 瀬田と佐々木が話していると、部屋の前方の明かりが落とされた。このセッションの座長と思われる人物が廊下の壁際に立っている。

「それでは、午後の前半のセッションを始めたいと思います。座長のB研の澤井です。最初のご講演は...」

 二人は話をやめ、前を見る。前方中央のスクリーンで、最初の講演者が講演を開始した。この人もジーパンだ。

 先ほどのセッションと違い、新超伝導体の物性に関するいくつかの実験の講演はよくわかった。何が問題で、何が新しくて、何が見えたか。何が見えなかったか。これらの情報を集めて、ミステリーの犯人を捜すように、この物質の本当の物性を考える。複数の講演で互いに矛盾しているように見える結果が出てくることもある。そういう時は、お互いの実験の前提条件をよく考え、矛盾が消える説明を探す。

 まだ論文になっていない、「先週取れたばかりのデータです」というような実験データがどんどん出てくるので、佐々木はとても興奮しながらそれらの講演を聞いていた。

 そして、セッションの最後から二番目、TH大の立花研の学生の発表が始まった。学生は博士課程の2年生らしい。

 イントロダクション。新超伝導体の説明。何が面白く、何がわかっていないか。何をわかれば面白いか。

 問題点の説明。解くべき問題の提示。

 理論の説明。どのような理論手法を用いて、どのようなアプローチで解くか。

 次々と進んでいく講演。話の流れも良く練られていて、とてもわかりやすい。しかし、佐々木は途中で気がついた。

 る。

 佐々木がこの新超伝導体を研究するモチベーションと同じ。理論で説明しようとしている実験結果も同じ。理論手法は少し異なる。

 佐々木が、現状ではどうしてもまだ説明できない実験結果のスライドの提示。その実験結果の上から描かれた、彼らの理論曲線。

 佐々木は、血の気が引いてきた。どういうことだ?

 佐々木と瀬田が使っている理論ではまだ説明できていない実験を、彼らの計算結果ではきちんと再現していた。

 つまり、佐々木と瀬田は、彼らに先を越されてしまっていた。先を越されてしまったら、それは新しい研究にならない。

「...この超伝導体の実験結果は、スピン軌道相互作用の効果が強い、と仮定することで、説明することができます。以上で発表を終わります。ご静聴ありがとうございました」

 学生が一礼する。

「どうもありがとうございました。ご質疑、ご討論をお願い致します」

座長の言葉とともに、いくつかの手があがる。先ほど講演していた実験家が質問を彼に投げかけている。

 佐々木は、「スピン軌道相互作用...?」とつぶやく。そして、瀬田の方を見る。瀬田は机に肘をついて、ペンを持った手を額にあてながら、まとめを表示しているスクリーンを眺めている。

 スピン軌道相互作用。電子は小さな磁石の性質を持ち、スピン、と呼ばれる。軌道、とは、電子の動きの様子だ。この二つが相互作用する場合があり、それをスピン軌道相互作用、と呼ぶ。それを入れると、実験が説明できる、と彼は言った。質疑応答でも、その件について主張しながら回答している。

 佐々木は、言葉を失っていた。呆然としながら、スクリーンを眺めた。

 佐々木と瀬田の理論では、スピン軌道相互作用は、考えていない。

 スピン軌道相互作用はとても難しく、それを瀬田の理論に入れるとすると、理論のベースを根本的に書き換えなければならない。

 そもそも、スピン軌道相互作用を入れて瀬田の理論が機能するか、最後まで計算しきれるか、わからない。

 つまり、正しい説明を得るためには、瀬田と佐々木の理論では元々不十分だったのだ。現状をそのまま進んでどんなに頑張っても、そこには正解へいたる道はなかった。

 そしてすでに、実験結果の説明を先にやられ、佐々木の研究は新しい研究ではなくなった。

 新しい研究でなければ、修士論文の成果にならない。

 佐々木はその次のセッション最後の講演の間中、机に両肘をつき、頭を抱えていた。




(続く)





 

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