第9話 この人

「ここまでは問題なかったのですが、この行列の非対角要素がうまいこと処理できないんです」

 9月初め。佐々木は、いつものようにA研究所の会議室のホワイトボードの前で瀬田と議論していた。瀬田は隣に立って式を眺めている。

 5月から必死に研究をした結果、なんとか結果は形になりつつあった。瀬田には週に一回は会いに行って、詳細に議論してもらっていた。院生室では同じM2の近藤が超伝導にも興味を持っていたらしく議論の相手をしてもらっていた。院生室のホワイトボードの書けるペンがどんどんなくなっていった。先輩の内海には時々炊飯器を使わせてもらって、学食に行く時間も惜しんでひたすら研究に明け暮れた。研究進捗セミナーは月に1回くらいのペースで自分の番が回ってきて、その度に2時間以上かかった。鵜堂は今の所佐々木の進捗に満足しているらしい。

 佐々木と瀬田は二人とも黒のマーカーを持って、ホワイトボードの前に立っている。ホワイトボードには、佐々木が書いた数式と、その式変形が書かれていた。今日の瀬田は、動きやすそうなダボっとした紺と白の服を着ている。瀬田は指でマーカーを回しつつホワイトボードに近づいた。

「うーん、この人とこの人が邪魔なんだよね。でも、ここの人は消えてくれそうな感じだし...」

 そう言いながら瀬田は佐々木の式変形を引き継ぐように式を書き足す。瀬田は続ける。

「でも、ここの人はこっちにも出てくるから、近似としてこの人をここで消すわけにも行けないし」

 瀬田は、数式のことを擬人化して話す癖があった。式の中の一つ一つの項を「この人」と呼んで、「この人はここで消えてなくなればいいのに」とか、「この人を無視すると、あとで影響がありそうだ」とか、言う。佐々木は最初違和感があったが、毎週毎週聞いているうちに、この人、がしっくりくるようになった。

 今日の議論は、佐々木が行き詰まっている箇所を説明して、その解決策についての議論だった。理論の式の近似を増やして取り扱いやすくしたら、欲しかった効果も消えてしまっているようで、そのやりすぎた近似に変わる方法について模索した。




 今日抱えていた問題が少し解決するめどがついたので、二人は椅子に座って休憩。喉が渇いていたので、同じフロアの自動販売機からお茶のペットボトルを買って飲む。

 瀬田がペットボトルのお茶を飲んで、ふうと息をつく。

「近似って面白いよねー。私はなるべくなるべく近似をたくさんして、それでうまいこと実験を説明できたり新しい現象を予言できたりすると、すごく楽しい」

「そうですね」

「佐々木さんは、『物理学者はマルがお好き』という本を知ってる?」

「知らないです」

「10年以上前に出た本なんだけど、物理の考え方についてすごくよくまとめてあって、面白かったんだ」

「へー、気になります」

 佐々木は昔猪俣から聞いた話を思い出す。物理の理論の研究では、まず、調べたいことを表していそうな最も単純なモデルを考える。例えば、ある角度で投げた野球ボールの飛距離が知りたかったら、とりあえずは空気抵抗は無視する。空気抵抗を無視することで、方程式がとても簡単になる。そして、その簡単な方程式を眺めて、実際にボールを投げた実験結果と比較する。雨の日も風の日も雪の日もボールを投げ続けて得られたたくさんの実験結果は、その簡単な式で記述できるだろうか、それを調べる。多分、だいたいは、その式で記述できるだろう。その式を用いれば、次の日の実験でこの角度で投げればこのくらい飛ぶ、ということが予想できる。もし、だいたい合っていたので満足した場合には、それをまとめて論文を書く。もし、だいたいしか合っていないことが気に入らない場合には、空気抵抗を考えてみるとか、風が吹いている場合にはどうなるのか、とか、一個づつ簡単な順番に足していけばいい。猪俣は、『近似のセンスが、物理のセンス』と言っていた。

 瀬田は猪俣と共同研究をしていたからか、猪俣と考え方が似ている、と佐々木は思った。

 瀬田は立ち上がり、背伸びをする。

「よし、あともう少しだけ議論を進めて、現時点で実験結果に何を言えるか整理してみましょう」




 夕方。毎週いつも同じファミリーレストランに行く。そして佐々木は鉄板ハンバーグ、瀬田は海鮮丼を頼む。いつも通りだ。

「あ、そういえば、佐々木さんって、今度の秋の物理学会、行くの?」

「はい。もちろん講演申し込みはとっくに過ぎてしまっているので、参加して聞きに行くだけですが。札幌なので楽しみです」

「私も久々の物理学会だから、楽しみ」

 物理学会とは、物理学関連の研究をしている教員や研究者や学生が所属している学会で、英語の論文雑誌や月刊の会誌を発行している。物理学会の大きなイベントの一つが、秋の物理学会、春の物理学会、と呼ばれる二つの研究講演会だ。毎回5,000人近くの物理関係者が会場となる大学に押しかけ、3,500件近い講演が行われる。

「佐々木さんは、物理学会行ったことある?」

「いえ、今回が初めてです」

「物理学会って、雰囲気が面白いんだよ。普通、学会とかのイメージって、スーツ着てビシッとして、感じじゃない。でも、物理学会って、参加者も講演者も多くの場合スーツなんか着なくて、ジーパンとか短パンとかでも問題ない感じなんだ。知ってた?」

「知りませんでしたが、そんな気がします」

 物理学科の先生はどの先生もラフな格好をしているので、ありそうな話だと佐々木は思った。

「でね、物理学会の会場となっている街に行ったとするでしょう。その時、街を歩いている人を見ると、物理学会関係者だってすぐ見ただけでわかるんだ。具体的にどんな格好かはよくわからないけど、リュック、チェックシャツ、猫背、メガネ、とかなんとなく雰囲気が似てて。あと、40代を過ぎてても半袖ジーパンだったり、歩き方とか動きが特徴的だったり」

「スーツを着ている人はいないんですか?」

「いるわよ。少しだけ。多分初めての学会発表で気合が入った学生さんとか、企業からの参加者とか。あとは、年配の先生はスーツだったりすることもあるね」

「へー」

「物理学会開催中の街は、会場となった大学はもちろん、繁華街、観光地、その他あらゆるところにそれっぽい人が現れて、現地の女子高生が『なんなのこの人たち』と会話したり、おばあさんが普段は満員にならないバスが超満員で驚いたり。街全体が謎の雰囲気に包まれる」

「はー」



 鉄板ハンバーグと海鮮丼が運ばれてくる。瀬田は醤油皿にわさびをたくさん入れ、よくかき混ぜてから海鮮丼の上にかけた。この方が海鮮丼全体を味わっている気がする、ということで、先月あたりから瀬田は毎回このやり方をしている。

「あ、そうそう、物理学会の講演のリストを眺めたんだけどさ、私と佐々木さんがやってる例の新超伝導体の発表もそれなりにあるみたいね。実験の講演がほとんどだけど、理論の講演も二つあったわ。理論の講演、タイトルが漠然としていてどんな話かわからないけど、私たちの今やっている内容とどう違うかは見ておいたほうがいいと思う」

「何日目ですか?」

「確か初日の午後だと思う。間違えてるかもしれないから後で確認してみてね...」

 瀬田はそう言いながら、マグロを口に入れる。が、わさびの量を間違えたのか、直後に顔をしかめた。

「大丈夫ですか」

「ん、うん、大丈夫。このお店のわさびは本物だね」




 デザートが運ばれてきた。佐々木はプリン、瀬田は抹茶アイスだ。このメニューも毎週二人とも同じだ。最初の頃はいろいろなデザートを二人して試してみたが、お互いに自分の好みのものを把握して、今に至る。

「瀬田さん、いつもいつも議論していただいてありがとうございます」

「ん、いやいや。共同研究者として当然のことをしているだけよ」

 瀬田がアイスをスプーンで口に運びながら答えた。

「僕、修士論文、書けると思いますか?」

「うん、大丈夫だと思うよ。今日わかったことで、大分進んだと思う。あとは物理学会で最新の実験結果の情報を仕入れて、それを反映させて書けば、問題なく修士号は取れるんじゃないかな」

 佐々木はプリンをスプーンで半分に割る。そしてさらに半分に割って四等分にする。そして聞く。

「僕、博士課程に進学して、博士号を3年で取れると思いますか?」

 瀬田のスプーンが止まる。佐々木を見た。少し目を開いているように見える。

「大丈夫、とは私からは言えない。誰も言えないと思う。研究は何が起こるかわからないし、テーマとの相性もあるから。ただ、今まで博士号を取ってきた人たちと比べて佐々木さんがどうか、という話だったら、多分大丈夫、と言えると思うよ」

 瀬田はニコリと微笑んだ。




(続く)






 

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