第2章 修士課程

第6話 ポスドク研究員

 佐々木は、上野公園を歩いていた。4月半ば。大きな蓮が大量に浮かんだ蓮池を通り抜け、上野駅の方向へ。Hキャンパスを裏から出ると上野公園を通って上野駅に向かうことができる。

 たくさんの観光客と、何か色々なことをしている大道芸人。飛んだり跳ねたり。人形がちまちま動いたり。制服を着た高校生たちがぞろぞろとどこかへ向かっている。

 上野公園を通り抜け、上野駅へ。今日は猪俣に紹介してもらった、瀬田に会う予定だった。瀬田は国立の研究所の研究員で、オフィスが上野駅の近くにある。佐々木の手には地図を表示させたスマートフォン。経路検索をして、そのまま行けばちゃんとたどり着くはずだ。




 上野駅へ到着。坂道を下って、駅の反対側へと向かう。

 佐々木は、「放置系」研究室の鵜堂研へ移籍した。放置系研究室、というのは、いろいろなタイプがある。何も構わない系、何もしない系、忙しすぎて学生にかまっていられない系、などなど。鵜堂研の場合は、研究テーマを学生自身が探さなければならない、という意味で放置系だった。実験をする研究室では、その研究室が持つ実験設備によって研究テーマが決まる。その研究室でできることを研究することになる。そのため、博士課程の学生に基本的な技術を教えたり、同期同士で相談したりすることができる。物理の理論系の場合、それぞれの学生がやる研究テーマが大きく違うことがよくある。修士課程1年の頃は同じ教科書で輪講(自分が担当した部分を黒板でみんなの前で説明する)などをするが、研究テーマは同じにはならない。同じだと片方のオリジナリティがなくなるからだ。オリジナリティのある新しい研究でなければ、物性理論での修士号は取れない。

 それでも、研究室によっては、研究室秘伝のタレのような、昔から使い続け発展し続けたプログラムを使って研究する場合もある。その場合には、あまり放置系にはならない。実験系研究室と同じで、同じ設備(数値計算プログラム)を使うので、先輩同期後輩関係を使うことである程度研究を進めることができる。

 鵜堂研は、それぞれの院生が全く違うことをやっている。研究テーマは自分で探す。見つからなければ修了できない。鵜堂研の教官は鵜堂教授のみで、助教や准教授はいない。T大以外の大学では、教授、准教授、助教、という上下関係を持った一つの研究室が同じテーマを持っていることが多い。T大の場合、教授、准教授、はそれぞれが独立して別の研究室を主宰していることが多い。そのため、鵜堂研、などとその教授の名前で研究室を呼ぶ。助教は、教授か准教授と一緒にやっていることが多い。しかし、鵜堂研は鵜堂教授一人しか教官がいなかった。




 上野駅を通り抜ける際、途中で見つけたATMで銀行の通帳に記帳をした。22万円がT大から振り込まれていた。佐々木は間違いなく、グローバル卓越大学院生となっていた。この給与は佐々木がT大でグローバルで卓越した大学院生になるためのお金らしい。4月1日に鵜堂研に移籍して、本やその他の引っ越しやら、新しく割り当たったコンピュータのセットアップやら、何やらをやっているうちにもう4月の半ばだ。特に何も研究をしていないのに22万円という大金をもらってしまった。無事に標準年限で博士号を取得しなければ、このお金は返す必要が生じ借金となる。つまり、修士課程を今年度に修了し、博士課程を3年で終わらせなければ、22万円×12か月×4年の1000万円近い借金を背負うことになる。そのためには、何としてでも、研究テーマを見つけて研究しなければならない。

 上野公園とは反対側から、さらに浅草の方へと歩く。ごちゃごちゃしているJRのガードレール下とは違い、上野から浅草の間は、多くのビルが立ち並んでいる。このビルの一つに、瀬田がいる。

 壁が緑色のビルを見つける。これだ。そのまま中に入って、エレベーターで3階へ。

 3階に到着。瀬田の所属している国立A研究所東京サイトは、3階のフロアを丸々借り切っている。廊下の突き当たりの一番奥のドアが近い、と瀬田はメールで言っていた。その通りに奥のドアを開ける。

 ドアを開けると、大きな一つのフロアだった。一人一人にスペースが割り当てられ、机の上には大抵デスクトップPCとディスプレイ、腰くらいの高さの本棚がある。佐々木がドアを開けても、特に誰もドアの方向を見ようとはしていなかった。ヘッドホンをして作業をしている人もいるようだ。静かな空間に、時折カタカタというキーボードの叩く音が聞こえる。瀬田の席は、一番ドア側に近い場所、と聞いていたので、そちらを見てみる。

 黒い長髪に黒縁メガネのが、ヘッドホンをしてディスプレイの前で腕組みをして座っていた。画面にはテキストエディタのemacsが開かれている。その中身は多分プログラムのコードだろう。

「すいません」

 佐々木が声をかけても、その女性は気がつかない。

 佐々木は机をトントンと叩いてみた。それに気がつき、女性は佐々木の方を見て目を見開いた。

「あ、ごめんなさい! あれ、もう午後3時過ぎてたの?!あなたが佐々木さん?」

「はい。T大鵜堂研M2の佐々木です」

「じゃ、とりあえず空いている部屋に行こう。そこにホワイトボードがあるから、事情を教えてね」

「はい。よろしくお願いします」




 佐々木は瀬田に連れられ別の部屋へ。瀬田が壁のスイッチを入れると、部屋の明かりがついた。ホワイトボードがあり、椅子と机がある。会議室のような部屋だ。瀬田はホワイトボードの下にある幾つかのマーカーを試して、インクがまだある書けそうなものを探している。やっと一つ見つけた後、佐々木の方を見た。瀬田は、黒と青の横縞の長袖に、黒いジーンズ姿だ。瀬田は、ホワイトボードに「任期付き研究員:瀬田薫」と書いた。任期付き研究員、とは、いわゆるポスドクのことだろう。博士号を取った後、多くの人はポスドクと呼ばれる2〜5年程度の短い期間限定の身分を得て、どこかで研究する。多くの人は、たまたま自分の専門分野の任期のないポジションが出てきてそこに収まるまで、何回もポスドクを繰り返す。最近は三十代半ばでポスドクをしていることも珍しくない。

「私は、瀬田薫。猪俣さんとは5年くらいの付き合いかな。お互いにできることをやって、共同研究で論文を書いたり。ここ3年はドイツにいたので、ずっとメールだけのやり取りになっていたけれど。このA研には4月に来たばかり。ポスドクとして、私はここで超伝導の研究をすることが要求されている。佐々木さんについては、猪俣さんからはざっくりとは事情は聞いているわ」

「鵜堂研究室に移籍したのですが、研究テーマは超伝導がしたいんです。けれど、鵜堂先生は研究テーマは院生が自分で見つけてこい、という人で。研究室の他の人と違って途中で移ってきたので時間があまりありません」

「自分で見つけてこい、なら、私にアドバイスをもらったらダメなんじゃなくて?」

 瀬田は首をかしげながら聞く。

「い、いえ、必ずしも独自に思いつく必要はないそうです。論文は誰かが書いたものだし、誰かから聞いて思いついたものも、自分で見つけてきた、ことになるそうです」

「冗談よ。そんなことはわかっているわ。その話も猪俣さんから聞いているから大丈夫。じゃあ、まず、佐々木さんが考えた研究テーマ候補、教えてもらえるかしら。はい、ペン」

 そう言うと瀬田は、ホワイトボードマーカーを佐々木に手渡した。佐々木は困った。超伝導についてはそれなりに勉強してきたけれど、まだ研究テーマとなるようなものは見つけていない。そもそも、それを思いつくのが大変だから、今回瀬田の所にやってきているのだ。しかし、何もありません、だとあまりにも残念な学生な気がするので、なんとかやってみようと考えた。

「高温超伝導のメカニズム解明に関して、何らかの貢献ができたらな、と思っています」

「随分と漠然としているわね。他には?」

瀬田は腕を組んで顔をしかめた。

「もしくは、新しい超伝導物質を理論で予言して、それを実験の人に見つけてもらいたい、です」

「うーん。他には?」

「他には、あまり思いつきません。僕が思いつくようなことは、たいてい論文ですでにやられていて、思いついてやられていないようなことは、そもそもそれをやる意味があるんだろうかと思うものばかりです。また、重要で未解明なことは、とても大きすぎて何からしていいかわかりません。どうすれば、研究テーマを決めることができるのですか? どうやって、今年中に研究成果が出るようなテーマを見つければいいのでしょうか?」

「なるほど、佐々木さん、大分煮詰まっているようね」

「はい...」

「よし、じゃあ、一番最初に戻って、研究と勉強の違いについて、そこから考えてみようか。ペンちょうだい」

そう言って瀬田は佐々木からペンを受け取る。そして、「研究」、と書いた。

「まず、勉強と研究の違いについては、わかっているわね?」

「はい。勉強は、すでに先人が理解したことを、自分が改めて理解することです。研究は、まだ誰もわかっていないことを、わかろうとすることです」

これは佐々木がいつも考えていることだ。教科書があって、練習問題があって、その答えがあって、その答えを自分で出せるようにする、というのが勉強。勉強とは、誰かが歩いた道を、道を間違えずに歩ききって目的地に辿り着けるようにすることだ。研究とは、そもそも目的地があるのかわからないまま道を作ることだ。

 瀬田は頷いている。問題なかったようだ。瀬田はホワイトボードに、三文字を書き足した。

「そこは当然わかっているということね。では、『理論の研究』とは、何でしょう?」




(続く)





 

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