第7話 理論の研究

 佐々木と瀬田は、A研究所の会議室で、ホワイトボードを前にして立っていた。

 瀬田はペンを置き、佐々木を指でさす。

「理論の研究とはどんなものか? 佐々木さんはどう考えている? 何をすれば、理論の新しい研究になると思う?」

「誰もやっていないことを理論的に明らかにすればいいんですよね」

「もう少し具体的には?」

「ええと...」

 それを思いつけるならこんなに悩まない、と佐々木は思った。

「例えば、どんな理論にもそれを記述する数式があるわね。例えば、電子のミクロな振る舞いを記述する量子力学には、シュレーディンガー方程式がある」

 瀬田は再びペンを取り、ホワイトボードに、『シュレーディンガー方程式』、と書いた。

「はい」

「じゃあ、この、シュレーディンガー方程式を解けば、それは新しい理論の研究になると思う?」

 佐々木は腕組みをして考える。瀬田は何を言いたいのだろう?

「誰も解いたことのない問題のシュレーディンガー方程式を解けば、それは新しい理論の研究になると思います」

「じゃあ」

 そう言って、瀬田はホワイトボードに方程式を書いた。物理学科の院生なら皆知っている、シュレーディンガー方程式だ。電子がどう動くかは全てこの方程式を解けばわかる。

「この式のここに、xを書き足しましょう」

 そう言って、瀬田はシュレーディンガー方程式の"ポテンシャル項"に、『+x』、と追記した。

「佐々木さんも知っての通り、ポテンシャル項に+xがついたことで、電子に働く力が変わったわ。もちろん、この方程式自体は、方程式が見いだされてから100年近く経っているから、多分誰かが解いているから、新しい研究にはならない。けれど...」

 瀬田はさらに『+9742x』と書き足した。

「この方程式はどうかしら? 9742、というのは、私が今適当に思いついて書いた数字。この数字のついた方程式をわざわざ解いて論文にした人は、多分いない。じゃあ、解いた結果を調べて報告すれば、新しい研究になるかしら」

「いいえ。というのは、9742をaとか文字でおいて、+axのaがどんな値でも成り立つような方程式の解を見つけることは簡単だと思います。なので、それは新しい研究にはなりません」

「じゃあ、xの他にも、xの二乗とか、三乗とか、その他色々足して、先行研究がまったくないことが確認できた場合は? それを解いて得られる結果は、人類の誰も知らないことになるわよね? これは新しい研究?」

「それは...、新しい研究にはならないと思います」

「なぜ?」

「それは、そんなごちゃごちゃした方程式を解いても、あまり意味がないからです」

「なぜ意味がないと思うの?」

「それは...」

 佐々木はそこでしばし考える。直感としては、そんなものを解いても新しい研究にならないことはわかる。これが新しい研究になるなら、研究テーマ探しに悩んでいない。

 沈黙した佐々木を見て、瀬田が『意味がない』と書いた。

「なぜ意味がないか、それは、それが何も表していないからよ」

「何も表していない?」

「そう。ここが理論の研究で重要な点。理論の研究では、『誰もやっていないこと』は無数にある。誰もやっていないことは、確かに新しいわ。でも、新しい理論なんて無数に作れる。物理の理論の場合、解くべき問題は大抵方程式で表される。そして、その方程式が、を表していなければ、それは物理の研究じゃない。たとえ新しいことでも、意味がなければ、それは研究とは言えない。逆に言えば、何らかの意味がある問題を解けば、それは理論の研究になる」

 瀬田はペンを置く。

「もちろん、今言っているのは、新しい物理の理論の話ね。数学ではなく。全く新しい方程式を考えだして、その方程式が表す意味ついて何も考えずに、ただ解いただけなら、意味がない。極端な話、佐々木さんがいきなり何かの式を書いてそれを「佐々木方程式」と呼んで、そしてそれを解いた結果を発表したとしても、それは新しい研究じゃない。それに意味があると主張して、その主張が通って初めて新しい研究になる」

「はい」

「何を今更そんな当たり前のことを、というような顔をしているわね。でも、これをよく知っておかないと、不毛なことが起きるかもしれない。特に、佐々木さんは指導教官の鵜堂先生が満足するような研究テーマを設定しなければいけないでしょう」

「はい。どんなものだったら鵜堂先生は満足するのでしょうか...」

 佐々木は4月に鵜堂研に入ったばかりで2週間しか経っておらず、まだ研究室での鵜堂の様子がわからない。講義をしている鵜堂の様子しか知らない。講義中の鵜堂はとても優しくて面倒見のある感じだった。けれど、研究室の先輩が言っていたことがとても気になる。あの二回目のM2と三回目のD3の二人は、まだ見かけていない。

「鵜堂先生がどんな研究テーマだったら満足するかというのは、私は鵜堂先生じゃないからわからないわ。けど、一般論として、研究者があまり評価しないタイプの研究ならわかる」

 瀬田は再びペンを持つ。指でくるくると回し始めた。

「物性理論の大学院生でよくある話があってね、修士論文を書いて修士課程を修了して、博士課程に進学して、『さあ、独り立ちして自分でテーマを考えよう』とか思って、先行研究を読んだりする。でも、自分が思いつくような研究はすでに過去の人が10年以上前とかにやってたり、とても面白いテーマを考えても手持ちの自分のスキルではできなかったり」

 佐々木は頷く。まさに今佐々木が直面していることそのものだからだ。瀬田はさらに続ける。

「じゃあもっと勉強して新しいスキルを修得して、その思いついた面白そうなテーマをやろうと思っても、どのようなスキルを修得すればそれができるようになるのか、わからない。そして、どのくらい時間をかければ論文として形になるのかがわからない。もしかしたら三年間じゃ足りないかもしれない。そういう感じで、手を出すのをためらってしまうのよね。理論の研究なんだから、実験機器に縛られることもなく自由に好きなことができるはずなのに、自由すぎて、何をしていいかわからない。そして、そんな時」

 瀬田は、ホワイトボードに、『やられていないから、やってみた』と書いた。

「自分の修士論文の研究内容とか、先輩の研究内容とか、そういう比較的自分がよく分かるところで、『あ、これまだやられていない』というものを見つけてしまう。そしてそれは、さっきの+9742xみたいな、何の意味があるかわからないものになってしまうの。もちろん、足した意味をちゃんと説明できるなら、いいんだけどね。でも、『これは今までやられていませんでした』を強調してしまう」

「なるほど...」

「こういう研究だと、多分鵜堂先生の評価が低いんじゃないかな。私も昔、これにはまったことがあるのよねー。本人は、『誰も知らない新しい研究!』と思っているんだけど、分かる人には、『あーなるほど』と思われてしまって」

 そう言って瀬田は苦笑いする。

「だから、M2で研究テーマを探す羽目になった佐々木さんには同情しているんだ。しかも、自分でその研究室を選んだわけじゃなくて、選んだ研究室が解散してしまってそういう状況になってしまったわけだし。猪俣さんが関西に行っちゃって身近に相談できる人がいなくなっちゃったわけでしょう? 私、手伝うよ。猪俣さんにはとてもお世話になったし」

「ありがとうございます」

「ということで、私が今興味がある研究テーマについて話すから、その後一緒にできることを議論してみましょう」

 瀬田はペンをくるっと回して、佐々木にニコリと微笑んだ。




 夕方。佐々木は、瀬田に誘われて、A研究所のビルから近いファミリーレストランで一緒に夕食を食べていた。佐々木は鉄板のハンバーグ、瀬田は海鮮丼だ。女性と二人で食事すると挙動不審になってしまうのでいつもなら避ける佐々木だが、「お腹もすいてきたし、続きはそこのファミレスでしよう」と言われたので、瀬田に導かれるままやってきた。議論している時はキリッとした印象だったが、食事の時はニコニコした柔和な印象に変わっていた。

「日本のご飯は、何を食べても美味しくていいのよねー。でも、特に海鮮が安くて美味しい」

 そう言いながら、ご飯の上のマグロを箸で取り、醤油皿にマグロをつけて食べている。

「ドイツ、ビールとかソーセージとかおいしいんじゃないんですか?」

「ソーセージは最初の一ヶ月で飽きました。そして、ポテトにも飽きて。ドイツ料理におけるポテトって、日本料理における白米みたいなものでさ、日本人が白米に飽きないのと同じでドイツ人は飽きることないらしいんだけどね...。私ビールはあまり飲まないし、日本食の食材もあまり手に入らないし、食生活は日本の方がはるかにいい」

「そうなんですか」

主に瀬田が話しながら、食事が進む。

 さきほどは結局、4時間近い時間ホワイトボードの前で議論し、佐々木の超伝導の理論の研究の方針は固まった。最近発見された新規超伝導物質で色々と普通じゃない振る舞いが実験で観測されていて、瀬田が取り扱っている理論手法を使うと、それらの振る舞いを綺麗に説明できそうだ、ということがわかった。理論手法に関して勉強が必要だが、瀬田がよくわかっているため、分からないことがあればすぐに聞きに行ける。

「実験家がすごく知りたがっていることだから、説明ができれば、とても喜ばれると思うわ。もし私のよく知っているあの手法で説明できなかったら、何か非自明なことがあるということだから、それはそれで新規性のある研究になるし、修士論文としては問題無い結果になると思う」

 瀬田がエビを箸でつまみながら言う。とてもニコニコしている。

「本当に、ありがとうございます」

「でも、鵜堂さんがどう思うかはわからないから、なるべく早いうちに相談するなり進捗報告するなりした方がいいと思うよ」

「はい」

 


その後瀬田と佐々木は食後のデザートを頼み、瀬田が物理と日本の食の素晴らしさについて語り続けた。どちらも普段は聞くことのない話だったので、佐々木も興味深く聞き、楽しい時間を過ごした。




(続く)



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