第5話 超伝導

 佐々木が超伝導に惹かれた原因は、小学生の頃に遡る。

 小学三年生の頃、家族旅行として上海に行った。上海にはリニアモーターカーがあり、父がどうしてもそれに乗って地上最高速度を体験したいと、旅行の最終日に乗ったのだった。

 上海の空港と都内を結ぶ、全長約30キロメートルの路線。最高時速430キロを出し、約7分の乗車時間。車内の電光掲示板には現在の時速が表示され、それがどんどん増えていく。佐々木は、飛行機なら離陸してしまいそうな速さになったリニアモーターカーにとても興奮した。日本の新幹線に乗ったことがなかったので、こんなに速く地上を走る乗り物は何てすごいのだろう、と思った。車体が浮いていてタイヤがないなんて!

 帰国してからも、リニアモーターカーについて調べた。すると、日本でもリニアモーターカーを作っていることがわかった。しかも、日本のリニアモーターカーは時速580キロも出る! 日本のリニアモーターカーは上海のとは違ってまだ普通の人は乗れず、山梨での体験試乗に乗るしか方法がなかった。しかし、佐々木は北海道に住んでいた。気軽に山梨まで行くことはできなかった。

 いつかは絶対に乗ってやる、そう思いながら、小中時代は本やネットで情報収集をして過ごした。上海のと日本とのでの最大の違いは、電気抵抗がゼロになる超伝導体を使っているかどうか、ということ。上海のは使っていない。日本のは使っている。超伝導体でコイルを作ると、とても強い電磁石が作れる。超伝導体は電気抵抗がゼロだから、電流を流してもコイルが熱くならず、大電流が流せるらしい。電気抵抗って、何? なぜ電気が抵抗を受けるの? なぜ超伝導体では電気抵抗がゼロになるの?

 いろいろ調べているうちに、佐々木はリニアモーターカーそのものよりもそれを可能とする物理に興味が移ってきた。大学で理論物理を勉強したいと思う学生は、宇宙はどうやって始まったのか、とか、万物の究極の理論とは何か、とか、より純粋で根源的な問いに興味を持って大学と学科を選ぶ人が多い。佐々木の場合、高校生の時点で、なぜ世の中には絶縁体や金属などの区別があるのか、とか、電気抵抗の大きさは何で決まっているのか、とか、超伝導ってなぜ起きるのか、とか、そのようないわゆる「物性理論」に興味があった。リニアモーターカーは物理への興味のきっかけとなり、そのような応用よりも、原理が気になるようになったのだった。

 T大に入り、真面目に様々な講義を取り無事進学振り分けを乗り切って3年で物理学科に進学。勉強すればするほど、超伝導が現代物理学の最先端であることがわかった。応用じゃない基礎の部分で、わかっていないことが沢山ある! 研究するなら超伝導だ! そう考えた佐々木は、無事、大学院で超伝導の理論の研究ができる猪俣研に入ることができた。

 しかし、1年で研究室が解散決定。




「私に譲ってくれない?」

 Sキャンパスの葉のない銀杏並木の石畳の途中で、鎌田はそう言った。道の真ん中に立ち止まった二人を、学部生達は避けるようにぞろぞろと歩いている。

「いや、俺は超伝導の理論をやりたいんだ。俺も神田研を志望する」

「だよね」

 その後その日は、二人とも特に何も喋らず、乗り換えの渋谷駅で別れた。


 




 3月半ば。佐々木は猪俣研究室の院生室の自分の机でなんとなくネットを眺めていた。院生室には佐々木以外には誰もいない。鎌田はまだ来ていない。先輩の高水と内海は、もうこの研究室から引っ越してしまっていた。今まではごちゃごちゃと紙や本が積み重なっていた二人の机の上は、すっきりと何もない。本棚にも何もない。4月から博士課程3年になる予定の先輩の高水は、そのまま研究を続けるために猪俣と一緒に関西の K大へ。4月から博士課程1年になる予定の内海は、鵜堂研に移った。

 鎌田はあれからHキャンパスの他の研究室も見学した、と聞いた。結局どこを志望したのか、鎌田は教えてくれなかった。今日、研究室移籍についてのメールが教務課からくるはずだ。第一志望のKキャンパスの神田研になるかどうか、それが問題だ。もしダメだった場合、第二志望の鵜堂研、あるいは、第三志望、第四志望の物性理論の研究室のどこか。教務からのメールでどこに移籍が決まったのかが、今日、わかるはずだ。

 時々クリックして新着メールの受信チェックをするが、連打すれば早くやってくるものでもない。そもそもメールソフトは1分おきに自動的に受信チェックするようにしてあるし、それをやる必要もない。

 院生室備え付けの冷蔵庫から、買っておいた缶コーヒーを取り出し、開けて飲む。冷蔵庫にはまだ8本ほど入っている。昨日、安売りで12本セットで500円で売っていたのを買ってきてそこに置いたのだった。まだ昼前なのに、今日はすでに2本目。砂糖入りだったので、甘い。コーヒーメーカーは先輩の内海が鵜堂研に持って行ってしまった。もともと内海のポケットマネーで買ったコーヒーメーカーだったらしく、鵜堂研にもすでにあるのを使わずに、今度は完全に一人用で飲みたいだけ飲むようだ。

「おはようございまーす」

 ガチャりとドアを開けて、挨拶をしながら鎌田が入ってきた。赤いパーカーにジーンズ。相変わらず黒いリュックだ。そのまま窓際の自分の席に向かい、慣れた手つきでデスクトップPCの電源を入れ、座った。佐々木は特にしゃべることもないので、再びネットを眺める。面白そうな見出しのニュースサイトをなんとなくクリックしては読む、の繰り返し。


 ぴこん。


 メールを受信した。差出人は教務課、タイトルは「研究室移籍について」。慌てないようにゆっくりと本文を探す。

「佐々木透様

 お世話になっております。教務課の田中です。

 希望されていた研究室移籍の件についてですが、鵜堂教授が貴方の受け入れを決めました。

 つきましては、添付の書類に必要事項を記入の上〜」

 神田研には、ならなかった。

 鵜堂研となった。

 窓の方では、鎌田が小さな声で「よしっ」と言うのが聞こえた。

 鎌田は神田研に決まったのだろう。そうに違いない。

 佐々木は缶コーヒーを一本飲み干して立ち上がり、冷蔵庫からもう一本を取り出して、そのまま院生室を出た。



 猪俣研の入っている建物を出て、歩いた。キャンパス内には、4月からの新入生とその親と思われる親子連れのペアが何組もいた。T大といえばHキャンパスの赤くて古い門が有名なので、4月から通うのがSキャンパスだとしても、こちらに観光に来たのだろう。子供たちは誇らしげに母や父に説明をしている。正門の方向へ向かうとますますそのような親子連れを見そうだったので、佐々木は逆側の方向に向かった。こちら側は大学病院があるので、風景はいつも通りのはずだ。なんとなく、いつもと同じように書籍部の方向へと歩いた。

 桜が咲き始めている。

 もし鎌田と自分が両方とも神田研を希望した場合、神田先生が決めるとのことだった。具体的な評価方法はわからない。何故鎌田になったのかは、わからない。第二志望を鵜堂研にしたのは、鵜堂研なら超伝導の理論の研究ができるとわかっていたからだ。研究テーマを自分で探してこなければならないが、自分で探してダメだったら仕方がない、才能がなかったんだ、と諦められる気もする。

「悪くないと思う。超伝導の研究ができるわけだし」

 と、つぶやいた。




 書籍部の入り口に、猪俣准教授がいた。入り口の前でスマートフォンをいじっている。佐々木が視界に入ったからなのか、顔を上げた。

「おや、佐々木君。移籍先は決まった?」

「鵜堂研になりました」

「超伝導の研究、するの?」

「はい。そのつもりです」

 佐々木がそう答えると、猪俣は何やら考え込むように腕組みをし、そして佐々木を見た。

「佐々木君、今回君たちにはとても迷惑をかけて、本当に申し訳ない」

「いえ」

「鵜堂先生が優秀な研究者なのは間違いない」

「はい」

「しかし、学生の教育に関しては、あまりいい噂を聞かない。本当はこういうことを教員が言ってはいけないのだけれど、もう私はここを去るから言っても構わないだろう」

 猪俣は書籍部の入り口から少し移動して、佐々木も移動するように手招きをした。そこは木陰だった。そして言う。

「私の共同研究者の、ドイツ在住の瀬田さん、という方がいるのは知っていますよね。よく論文を共著で書いている」

「はい」

「瀬田さん、今年の4月から、日本に帰ってきて都内でポスドクをすることになったんだ。君と共同研究をするととても良いと思う。確かオフィスは上野のはずだから近いし。鵜堂先生は学生が他の人と共同研究をしても嫌がるタイプじゃない。鵜堂先生はただ物理に対してストイックなだけで、面白い研究はどんな形でも大歓迎のはずだ」

「ありがとうございます」

 佐々木は頭を下げた。佐々木はKaoru Setaさんを論文でしか知らない。確か30代前半くらいの、論文発表や国際会議発表を数多くこなす、アクティビティの高い人のはずだ。そして、超伝導の理論の専門家。うまくいけば、適切な研究テーマを見つけることができるかもしれない。

「もちろん、瀬田さんがどう思うか、協力してくれるかどうかは、瀬田さんに聞いてみないとわからない。メールで聞いておきます。もしOKをもらえたら、4月に一度会って、何を共同研究するか相談するといい」

「はい」

「もちろん、私も相談に乗ることができます。ただ、関西なので、メールでのやり取りが主になってしまいますが」

「はい」

 猪俣が腕時計を見た。

「すまない、もう行かなければ」

 そう言って、猪俣は慌てて走りさっていった。

 佐々木は、大学病院の方へ走り去る猪俣の背中を眺めていた。




 3月31日。10年間Hキャンパスにあった猪俣研究室は解散した。

 4月1日。佐々木は、「放置系」研究室の鵜堂研に移籍し、修士課程二年生となった。



(次章に続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る