第4話 研究室見学@Sキャンパス
今日はSキャンパスの
T大では学生は、学部2年生までは教養学部という学部に所属しており、3年生から専門の学科へと進学する。原理的には文系理系問わずどの学科にも進学することができる。希望の学科に進学できるかどうかは、教養学部の講義の成績で決まるため、T大生は大学入試が終わっても競争にさらされることになる。そのような1、2年生が主に通うのが、この、渋谷に近いSキャンパスだった。無事進学でき、3年生になると、多くの学生はHキャンパスに通う。しかし、教養学部に進学を決めた場合、3年以降も大学院もそのままSキャンパスに通い続けることになる。佐々木は3年から物理学科に進学したので、Sキャンパスに来るのは久々だった。Sキャンパスには数学系の大学院と、教養学部の講義を教える先生方が所属する大学院がある。教養学部は文系理系に関するあらゆる学問を横断的に学ぶことを目的としており、もちろん物理もある。
「お待たせー」
鎌田がやってきた。今日は緑色のパーカーを着ている。相変わらず黒いリュックサックを背負っている。鎌田は大学院からT大に来たので、Sキャンパスには来たことがないらしい。
改札階は二階なので、階段を降りてキャンパスへ。外を出た瞬間に目の前に門がある。続々と門にT大生が吸い込まれていく。
T大といえば大学入試の難易度が高いことで有名だが、大学院入試の方が比較的簡単であることは、あまり知られていない。佐々木の所属する物理学科の場合、学部を卒業する人数が50人だとすると、大学院修士課程に入学する人数は100人を超える。つまり、学生の半分以上を他の大学の卒業生から取っていることになる。大学入試ではたとえ理系でも国語も含めたすべての科目で高い点数を取らなけれれば合格できないが、大学院入試では、その専門の科目、物理学専攻であれば物理と数学、そして英語だけができれば、合格することができる。しかも、T大生を除いた50人の枠に入りさえすれば良いので、比較的簡単−−というようなことを、前に鎌田から聞いたことがある。「専門科目だけでよくて、助かったよー」とのことだった。T大はグローバル卓越大学院プログラムのような文科省の大学院支援プログラムに採択され続けており、ネームバリュー、研究環境、そして給与まで得られるとなれば、各大学のトップ層がT大に集まるのは当然だった。
最寄駅正面の門をくぐり、キャンパス内へ。やはりHキャンパスよりも雰囲気が若い。野球部やサッカー部の掛け声、テニス部などの打球音がどこからか聞こえる。
まだ葉のない銀杏並木を歩く。
「佐々木くん、もう希望研究室決めた? まだ慶留間研の見学はまだだけど、私はもうだいたい決めた感じ」
少し前を歩く鎌田が振り返りながら言う。
「どこにするの?」
「神田研がいいかなーと思っている」
「えっ? 神田研はKキャンパスだよ?鎌田さんHキャンパスがいいって言ってたじゃない」
「そう、Hキャンパスの研究室がいいなって思ってたんだけど。Kキャンパスなら世田谷の実家から通うには遠いからやだなーと思ってたんだけど。でも、Kキャンパスは通うのは大変だから下宿してもいいよ、とお父さんが言ってくれたから、Kキャンパスでもよくなったの」
「そうなんだ」
佐々木は相槌をうちながら、まずいことになったぞ、と思った。佐々木の第一志望も今の所神田研だ。結局、超伝導の理論を今現在もメインでやっているのは、Hキャンパスの解散予定の猪俣研、Kキャンパスの神田研、そして、今日訪問予定の慶留間研だ。佐々木は1年生の時に力学の講義で慶留間教授にお世話になったことがある。年齢は確か50代後半、講義の単位取得難易度は「鬼」で、物理に関してストイックな人だ。昔ながらの教授、というイメージで、厳しい研究指導が容易に予想できた。
「佐々木くんも神田研志望なんでしょ。こまったな、というのが顔に出ているよ」
銀杏並木が終わり、慶留間研の入っている白い建物に向かう。Kキャンパスと違って、Sキャンパスの建物は大学の建物っぽい、普通のビルが多い。特に迷うことなく目的の建物は発見できていた。
猪俣研が解散して、猪俣先生の異動先の関西の大学へついていかない場合、猪俣研の大学院生たちは、他の研究室に移籍することになる。そして、受け入れる側は、同学年に1人のみ、受け入れることができる。つまり、佐々木と神田が同じ研究室を志望しても、2人ともに移籍を受け入れてもらえることは、ない。もし2人が志望している場合、受け入れ先の先生がどちらを受け入れるか決めることになる。佐々木はどうしても超伝導の理論をやらなければならなかった。2人志望した時に先生がどんな基準でどちらに決めるか、わからなかった。
佐々木がどうしようと考えているうちに、2人は階段を上がり3階まで来ていた。慶留間教授の部屋は廊下を突き当たった奥の部屋だ。建物の中の雰囲気はHキャンパスとよく似ている。白っぽい壁。それぞれのドアに、そこにいる大学院生がいま部屋にいるかどうかを示すボードが貼ってある。それぞれが自分の磁石を動かして、在室、不在、セミナー、すぐ戻る、などに切り替える。これは猪俣研究室にもあった。大学院生は学部学生と違ってほとんど講義がない。理論系大学院生の場合、講義がない時間帯は院生室の自分の机に座って研究や勉強をしている。多くの研究室の場合、自分で好きな時間に来て好きな時間に帰ることができるが、だいたいの院生は8時間以上院生室で過ごす。全然来ない人や家にいる時間より長い人もいる。定期的にレポートを書かなければいけないわけでもないので、2年後に修士論文を書けるだけの研究進捗を自分のペースで作らなければならない。
開け放されたドアがあり、通りすがりながら中を少し見てみると、親指くらいの高さの人形が縁に大量に並べられた机が見えた。本棚には教科書に混じって漫画もあった。
佐々木の感覚だと、理論系研究室の5割以上は何らかの意味でオタク趣味を持っている。机の周りに小さな人形で飾りつけたりデスクトップ画像をお気に入りのアニメキャラにしたり、Hキャンパスでも好き勝手にやっている人が多い。
「研究室見学に来ました。猪俣研の鎌田です」「佐々木です」
「はい、どうぞ」
ドアを開けると、小柄な慶留間教授が正面に座って待っていた。手にはマグカップ。頭が良すぎたからなのか、髪の毛が少ない。部屋中にコーヒーのいい香りがしている。目の前のテーブルと椅子をすすめられ、二人とも着席する。コーヒーを飲むか聞かれたので、二人とも頷く。慶留間は部屋の隅の流しの隣にあるコーヒーメーカーからコーヒーを紙コップに注いで、二人の前に置く。理論研究室はどこもコーヒーメーカーが常備されている。慶留間も座り、口を開く。
「僕に何を聞きたいのかな? 二人とも今M1なんだっけか。猪俣研がなくなるから、4月からのM2をどこでやるか探している、という話だね」
「はい」
背筋を伸ばした鎌田が答える。
「僕のところでM2をやるのは、全く構わない。半年もあれば結果が出そうな研究テーマをいくつか持っているから、それをやってみるのがいいかもしれないと思っている。それとも、何か自分でテーマを探すかい? すでに進めている研究があるなら、僕が指導できる範囲のテーマならそれをここでやっても構わないよ」
慶留間の声は低く、ゆっくりだった。
「私たち、二人ともまだ具体的な研究テーマはないんです。ただ、二人とも、猪俣研では超伝導の理論の研究をする予定でした。慶留間研でも、超伝導やっているんですよね?」
鎌田が聞く。慶留間はコーヒーに口をつける。
「ええ。僕のところでもやれるよ。超伝導のテーマもいくつかあるから、気に入ったものがあればそれをやるといい」
それを聞いて佐々木はほっとする。たとえHキャンパスの神田研に行けなくても、慶留間研に行けば超伝導の研究ができる。
「来年度は、研究室の学生は何人いらっしゃるのですか?」
佐々木もいただいたコーヒーを口につけて、聞く。コーヒーは煮詰まっておらず、作りたてだった。
「いないよ。今年度のM2は就職が決まって卒業する。今年度はM1はいない。来年度の新M1もいない。だから、来年度は、誰も他から来なければ、院生はいないよ」
先輩も後輩も誰もいないのは、不安要素だ。何か困った時に気軽に聞ける人がいないことを意味する。
「そうなんですかー」
鎌田が相槌を打つ。
「あ、もしかして、君たち博士課程まで行くつもりかい?」
「はい」「はい」
「なら、僕のところはダメだよ。もう定年が近いから、博士課程の学生は取らないことにしているんだ」
キャンパス内の葉のない銀杏並木を先ほどとは逆方向に歩く。鎌田は相変わらず少し前を歩いている。ちょうど講義の合間の時間だったようで、次の講義のために教室を移動する学部生たちが道にあふれ始めた。20歳以下の学生がほとんどなので、Hキャンパスよりもあからさまに若い。
慶留間教授の話によると、もともと1年間だけなら面倒を見られるという話だったらしい。佐々木は50代後半だと思っていた思っていたが、実は今年で62歳だそうだ。T大の教授の定年は65歳なので、再来年度から3年間の博士課程を受け入れることはできないそうだ。
結局、超伝導の理論をやるなら、選択肢としてKキャンパスの神田研しかない。最初に見学したHキャンパスの鵜堂研は、危険だ。
「鎌田さんは、他に見学行くの? 俺は超伝導の理論の研究室は全部見たから、もう神田研第一志望に決めたよ」
前を歩く鎌田に向けて声をかける。鎌田は歩きながら振り返った。
「あとHキャンパスの木崎研と栗島研を見学する予定。でも神田研かなー。同じだね」
そこで鎌田は立ち止まって、続ける。
「私に譲ってくれない?」
(続く)
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