第3話 研究室見学@Kキャンパス
佐々木は千葉県某市のT大学Kキャンパス最寄り駅の改札の前で、鎌田を待っていた。午前10時。ここに通う人もここから通う人もすでにいない時間帯。いるのはベビーカーを押したお母さんたちくらいだ。柱に寄りかかって、佐々木はスマートフォンで訪問先の情報を調べていた。
T大学には物理学を研究できるキャンパスが主に三つある。
学部1、2年生がメインのSキャンパス。ここには教養学部の講義を担当する先生方が所属する大学院がある。学生のほとんどが20歳以下だからか、それとも渋谷に近いからか、雰囲気が若い。
佐々木が所属する、そして解散する猪俣研究室があるのは、Hキャンパス。こちらは教養学部から専門の学部へ進んだ3、4年生と、多くの大学院生がいる。大学デビューの人たちも落ち着いて、全体的に静かで学問的な雰囲気がある。
そして、もう一つが、Kキャンパス。ここには大学の学部はなく、複数の研究所が入っている。学生のほとんどが大学院生だ。都内のHキャンパスから地下鉄と電車で1時間くらいはかかるので、学部生はほとんどここを訪れない。Kキャンパスに来るのは佐々木も初めてだ。鎌田とはここで待ち合わせて、バスか徒歩でキャンパスに向かう予定だった。どこの大学も理系のキャンパスは都会から離れた少し不便な場所にある。最寄駅からも大抵遠い。なんでも、都会だと電車や地下鉄が出すノイズが実験結果に影響してしまうらしく、何にもないところが良いらしい。理論系の研究室もある。Kキャンパスの理論系研究室に行った同期曰く、「都内にはいない珍しい虫がキャンパスで採れるし、いいところだよ」らしい。
「お待たせー」
と言う声が聞こえたので画面から目を離す。鎌田が改札を通り抜けてやってきた。今日は赤いパーカーを着ている。
「こんにちは鎌田さん」
「こんにちは。どうする?どうやって行く?バス?」
「バス、ちょうどさっき行ってしまったのを見たから、歩いていこう。多分30分くらい歩けば着くはず」
午前中のこの時間帯は、Kキャンパスに向かうバスは30分に一本もない。今なら歩いた方が早く着きそうだった。
「じゃあそうしよう。道わかる?」
「Google Mapがあるから大丈夫だと思う。道も単純だし」
「了解」
「長いね。都内を30分散歩するのとは全然違うんだね...」
先を歩いていた鎌田が振り向いて言う。
特に何かを話すでもなく二人で黙々と歩いて15分が経っていた。Kキャンパスへの道には何にもなかった。正確には何もないわけではなく、何かいろいろ大きな建物が建っているけれども、それらの塀が延々と続いていて、景色がほとんど変わらない。道はまっすぐ。Google先生によれば、駅から3回曲がるだけでキャンパスに到着するらしい。
「佐々木くんはさ、研究テーマは今のままの予定?それとも、全然別のことをする? 私迷ってるんだよねー。私は、猪俣先生のところは先生の人柄で選んだから、今回も同じように人柄をよく見極めたいなと思っているんだ。だから超伝導じゃなくてもいいかなと思ってる。佐々木くんは、確か超伝導の理論がしたくて猪俣先生のところに来たんだよね?」
「そうだよ」
良く覚えているな、と佐々木は思った。確かそれについて話をしたのは去年の4月の研究室歓迎会の飲み会の時だったはずだ。女子率0パーセントの中高一貫の男子校、女子率1パーセントの物理学科を経てきた佐々木は、あまり女性と話をしたことがない。大学院からいきなり女子率50パーセント(2人中1人)になったので、4月は混乱していた。今でも、セミナーで議論するとか、必要事項を伝えるとか以外には、あまり喋れない。
鎌田は身長が150cmくらいの小柄で、少し茶色に染めたショートヘア(佐々木には髪が長いか短いかくらいしか女性の髪型を区別できない)だ。黒いリュックを背負っている。彼女が黒いリュック以外を持っているのを佐々木は見たことがない。何が入っているかは、聞いたことがない。少なくとも一回はリュックから論文を取り出しているのを見たことがあるので、多分論文とか教科書とかが入っているのだろうと佐々木は思っている。
2月の突然の研究室解散報告から二週間が経って3月になり、すでに陽射しがまぶしくて少し暑い。Kキャンパスへの道のりは、緑と茶色しかない。
佐々木は、Kキャンパスのある研究室が気になっていた。猪俣研究室と同じく超伝導の理論をメインとする神田研。学部生の頃から住んでいる杉並区からだと、Kキャンパスは遠すぎる。ここにするなら引っ越しをしないといけない。
佐々木と鎌田が所属している猪俣研究室は固体の物性を研究する物性理論の研究室だ。宇宙の起源や万物の究極理論を探求するいわゆる宇宙・素粒子理論と比べて一般的には地味なイメージがあるが、佐々木はとても気に入っていた。実験結果を自分の理論で説明できる、自分の理論で新しい実験結果を予言する。これは楽しいに決まっている、と佐々木は思う。佐々木はまだ自分の研究テーマも決めておらず自分の理論というものはなかったが、猪俣研究室の先輩たちが楽しそうに、「あれは実験に合わない、でもこれは合う。きっと本質的なのは...」と語るのを見て、物性理論で猪俣研究室でよかったなと思ったものだ。一ヶ月以内に研究室が解散して全員バラバラになるということは、未だによく信じられない。
「鵜堂研、見学する前は第一希望だったけど、あの話聞いちゃったらねー」
あの話、とは多分二回目のM2と三回目のD3のことだろう。あの後さらに詳しく聞いてみると、どんなことがあっても鵜堂先生は院生に研究テーマを与えない、どうしても研究テーマが見つからず、修士号を取らずに中退した院生も過去にいる、という話が出てきた。研究に対してストイックで、天才肌の教授なので、変なところで妥協するのが許せないそうだ。
「Hキャンパスなら、先生が優しいのは、スピングラスの木崎研かバンド計算の栗島研だよね。どっちもプログラムガリガリ計算機バリバリなイメージがあって、残り1年でちゃんと修士論文を書けるかが不安だよ」
「そうだね」
鎌田は歩きながら、時折振り返ってしゃべり続ける。佐々木は相槌を打ちながら後ろを歩いている。
「今日訪問する神田研がHキャンパスにあったら良かったのに。超伝導の理論がメインだし、神田先生優しそうだし、いいんだけどなー。KキャンパスからHキャンパスに異動する先生もいるんだから、神田研も4月からいきなりHキャンパスになりました、みたいな事にならないかなー」
「そうだね」
そんな感じで15分近く相槌を打っていると、Kキャンパスについた。
風が強い。キャンパス内は基本的に大きな建物しかなく、建物と建物の間が広いので、風を遮るものがない。著名な建築家の先生がデザインしたらしい建物は、少しのっぺりとした雰囲気で、風がよく流れそうだ。看板や建物の字を読まなければ公園の一部にも見えるかもしれない。実際過去には仮面ライダーのロケ地にもなったらしく、なんとも言えない独特な雰囲気がある。まさに研究所、という雰囲気。
目的の建物はすぐに見つかった。特に警備員がいるわけでもなく、そのまますっと入り口から入ることができた。エレベータを使って8階へ。
「あっ、ピアノがある。卓球台もある」
前を先に歩く鎌田が声をあげた。エレベータを降りて神田研究室に向かう途中、壁がガラス張りの談話室を思われる部屋には、ピアノや卓球台などが置いてあった。多分息抜き用として置かれているのだろう。何かと手狭なHキャンパスでは考えられない。それらを横目に、廊下をまっすぐ。神田研究室と書かれたドアの前へ。鎌田がノックをする。
「こんにちは。研究室見学に来た猪俣研の鎌田です」「佐々木です」
「どうぞ〜」
Kキャンパスからの帰り道。もうすぐ正午になる。鎌田が帰りも歩くのは嫌だ、ということで、Kキャンパスから出る最寄り駅行きのバスに乗っている。学生と訪問者は無料で乗れるバスらしい。この時間は人が少ないらしく、問題なく座ることができた。
「やっぱりいい人そうな先生だったね、神田先生」
「そうだね」
神田研究室の訪問は問題なく終わった。神田悟准教授は40代半ばで背が高かった。先生の部屋の後には大学院生の部屋にも行き話を聞いてきたが、面倒見が良い優しい先生だ、ということがそこの院生の共通見解のようだった。学生の希望を聞いて、それになるべく沿った研究テーマを提案してくれるそうで、猪俣研のように院生の元気が良かった。来年度D1(博士課程1年)とD2(博士課程2年)の先輩がいるので、先生に聞けないようなプログラムのデバッグなどの細かい事の相談もできそうだった。
「Kキャンパスでなければ間違いなく第一志望だよー」
あ〜あ、と言いながら鎌田は窓際に頭をもたれかけている。佐々木はその様子を横目で見ながら、考えていた。
事前の調べ通り、神田研では超伝導の理論を研究テーマにできる。そして、鎌田の言う通り神田先生は優しそう。先輩たちは皆、特に問題なく(つまり同じ学年を繰り返すこともなく)、修士号、博士号を取得しているようだ。博士号を取得した後の進路は、ポスドク(任期のついた研究員)、助教などのアカデミックポジションの他に、メーカー、コンサルタントや金融工学、などいろいろな方がいるそうだ。
佐々木は大学院で博士号を取ることは考えているが、その後の進路については特に考えていなかった。きっとその時が来たらなんとかなるだろう、と考えている。どこか海外の大学でポスドクの職を見つけて、2、3年海外で生活してみるのもいいかなと思っている。1人ならなんの問題もなく海外に行くことができる。女性の苦手な佐々木には当然彼女などいるわけがない。
「僕はこの神田研を第一志望にしようかなと思っているよ。明日見学予定のSキャンパスの
「超伝導だしね。私はやっぱりKキャンパスは遠すぎるからダメだなー」
バスが最寄駅に到着した。
「佐々木くん、この後研究室戻るの? 私は戻るんだけど、お昼食べてく?」
駅前には大きなショッピングセンターがあり、確かフードコートやらレストランやらが入っているはずだ。
「いや、僕はまだいいや。Hキャンパスの学食で食べるよ」
「そう。じゃあ、またね」
そう言って手を振って、鎌田はショッピングセンターの方へと向かっていった。佐々木はお腹が空いていたが、鎌田と二人で食べるとひたすらに相槌を打つ様子が思い浮かぶので、やめた。
「毎日こうやって都内から通うのって、結構しんどい気がする...」
そう言いながら、佐々木は改札を通り都内へ。
(続く)
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