第2話 研究室見学@Hキャンパス

 チン。

 エレベータが14階で止まり、ドアが開いた。佐々木がドアを押さえ、鎌田が先に出る。猪俣研究室は2階なので、普段はこんなに高い場所には来ない。この階には物性理論の鵜堂教授の部屋がある。ドアをノックすると、はーいどうぞ、という声がした。鵜堂研究室は鎌田の第一希望らしい。


 ドアを開けると、部屋は紙と本で埋もれていた。地震が来たら崩れて生き埋めになりそうだ。鵜堂教授の姿は見えない。窓際にデスクトップPCが置かれているので、その辺りにいるのだろうと佐々木は考え、紙が散乱していない場所を慎重に選んで窓際へ向かう。鎌田は少し顔をしかめながらついてくる。ドア側には緑色のフレームのマウンテンバイクが立てかけてあり、そこだけ少し紙が少なかった。

 散らばっている紙は、すべて論文と計算用紙だった。どの紙にもみっしりと数式が描かれている。

「ごめん、そっちじゃないんだ。こっちこっち」

 鵜堂の声が左から聞こえた。そちらを見ると、コーヒーメーカーでコーヒーの準備をしている鵜堂がいた。赤いシャツを着てジーパン姿だ。黒い長髪を後ろで束ねている。30代半ばでT大教授となり、ちょうど今年40歳になったくらいだったはずだ。少しお腹が出ているがとても若く見える。

「こっちのスペースに座るところがあるから、こっち来てもらえる?コーヒーでいいかな?」

 鎌田と佐々木は、はい、と返事をしながら鵜堂の呼ぶ方へ向かう。さっきまで紙と本で埋まっていたはずのテーブルがいつの間にか片付けられ、三人分の椅子が用意されていた。

 座って待つ。


 コポコポコポという音とともにコーヒーが出来上がり、鵜堂はそれをテーブルの上の二つの紙コップに注ぎ、自分の分はマグカップに注いでいる。

「ごめん、粉ミルクは常備してあったんだけど、固まってしまったのしかないんだ。いつも僕はブラックだから。それでもよければこれどうぞ」

 とガラス瓶を置く。佐々木は試しにスプーンでミルクを取ろうとしてみたが、もう削るしかない、というような粉と言えない固形物だった。しょうがないのでそのままブラックで飲むことにする。鵜堂は佐々木達の向かいに座り、マグカップに口をつける。

「いやー、大変なことになったね。猪俣さんももっと早くに決まれば君たちにも余裕があったろうに」

 鵜堂は猪俣研究室解散について知っている。なぜなら鵜堂は任期のない定年制の教授であり、猪俣の進退は教授会で最終決定されたからだ。

「うちの研究室は、今大学院生が全部で7人、M1(修士課程1年生)が2人、M2が2人、D2(博士課程2年生)が2人、D3が1人。指導教官は僕しかいないから、ちょっと多めかな。君たちのうち1人が入るとすると、春から新M2が3人になるね」

「私たち、猪俣先生のところで超伝導の理論をやろうと思っていたのですが、それはこちらでもできますか? それとも、何か別のテーマをやることになりますか?」

 鎌田が聞いた。今日はクリーム色のカーディガンを着ている。佐々木も鎌田も、超伝導の理論、つまり、電気抵抗がゼロになる物質の理論、を修士論文の研究テーマにするつもりだった。研究室移籍後にも超伝導理論を研究テーマにできるなら、移籍の負担が少ない。

「うん、できるよ。鎌田さん?だっけ? 超伝導の何を研究テーマにするの?」

 鵜堂はコーヒーを一気に飲み干し、二杯目を注ぎながら言った。

「まだ、決まっていません。もともと猪俣先生とは今年の5月あたりに具体的に決めようか、という話でした。鵜堂先生のところだとどのような研究テーマがあるのですか?」

「うち? ああ、うちの研究室、僕から研究テーマを与えることはしていないよ。うちは院生が自分で探してきて僕と一緒に共同研究をするスタンスでさ。だから、君たちがどんな研究テーマでも僕は構わないよ。僕がわからないトピックスだとあまり議論できないかもだけど、超伝導の理論なら、大丈夫じゃないかな」

「なるほどー。自由なんですねー。とても魅力的だと思います」

 と鎌田が頷いている。佐々木はコーヒーを飲みながら二人の会話を聞いていた。佐々木は、鵜堂研究室が「放置系」研究室である事をよく知っていた。鎌田はT大ではない別の大学の学部を卒業して大学院からT大にやってきたので、それを知らないのかもしれない。鵜堂は世界的に有名な理論物理学者だ。教科書も執筆しており、日本で物性理論を専攻する大学院生で鵜堂を知らない人はいない。

「先生、先生のお話を聞いた後、院生室に行って先輩方にお話を伺ってもよろしいですか? 雰囲気について知りたいので...」

 佐々木は紙コップを置いて鵜堂に言う。

「もちろんいいよ。今なら多分M2の緒方くんとD3の江藤くんが来ていたかな。さっき二人を見かけたし」

 佐々木は、M2の緒方さんも、D3の江藤さんのことも、知っている。しかし、鎌田は多分知らない。なので連れて行って話を聞いた方がいいと佐々木は思った。






 その後、鵜堂教授からは、今の院生たちの研究テーマ(超伝導の理論をやっている人はいないらしい)や教授自身の研究テーマ(鵜堂教授は過去に超伝導の理論もテーマにしていたらしい)とかの話を聞いた。30分後、お礼を行って退室し、13階の院生室へ向かう。

「鎌田さんって、緒方さんとか江藤さんのこと、知ってる?」

 14階から13階の階段を降りながら佐々木は鎌田に聞いた。鎌田は少し飛び跳ねるように階段を降りている。どうやら機嫌がいいようだ。鎌田とは同じ研究室になってもう少しで1年となるが、特に行動を共にしたことはなかった。理論の研究室なので当然実験もなく、共同で行う準備などもなく、猪俣研究室の週一の教科書の輪読で議論していたくらいだ。鎌田は佐々木より先にに下まで降り、13階フロアへのドアに手をかけたまま振り向く。

「知らないよ。佐々木君は知ってるの?」

「知ってるさ。有名だもの。行けばわかるよ」

 鎌田に続いて13階フロアへ。





「失礼します。猪俣研究室の佐々木です」「鎌田です」

「どうぞ」

 開けっ放しのドアを通って中に入る。鵜堂研究室の院生室はとても片付いていた。院生一人に一つの本棚、一つの机、一つのPC。全部で四つ。共用のコーヒーメーカーとポッド。二人がPCの前に座って手を動かしている。両方ともチェックシャツを着ている。少し横幅が広い黒髪がD3の江藤智也、やせ気味の茶髪がM2の緒方拓。鵜堂の言った通り二人がいた。

 D3の江藤が立ち上がり、体を横に揺らしながらコーヒーメーカーのところへ移動する。

「鵜堂先生から聞いているよ。猪股研究室が解散するんだって? 大変だね。コーヒー飲む?」

「いえ、結構です。鵜堂先生のところで2杯も飲んでしまって」

 と鎌田が言う。佐々木も同感だ。江藤は自分の分のコーヒーをマグカップに入れると、どうぞと椅子を示した。3人とも座った。M2の緒方はヘッドホンをしてマウスをカチカチとしており、こちらに来る気配はなかった。

「うちの研究室を志望しているの?」

「はい。鵜堂先生は世界的に有名な方ですし、非常に優秀な方ですし、講義もわかりやすいですし」

 鎌田が江藤の目を見ながら言った。江藤は少し目をそらした。鎌田は話を続ける。

「それに、とても優しそうですよね」

 鎌田がそれを言い終わった瞬間、窓際でガタリと音がした。音の方を見てみると、緒方が立ち上がっている。逆光でよく見えないが、どうやら怒っているようだ。

「鵜堂先生が、優しい? そんなわけないだろうっ!」

 やはり怒っていた。緒方はヘッドホンを机に置くと3人の方へ向かってきた。佐々木と江藤は事情を知っているため黙って眺めているが、鎌田は何が起きたのかわからない様子で緒方を見ている。

「え、優しくないんですか?」

 緒方はテーブルの下の椅子を引っ張り出し、3人と同じテーブルに着いた。

「優しいの定義って何だ? 見た目が優しそうであれば優しいのか? 講義がわかりやすければ優しいのか? 講義のレポートが簡単だったら優しいのか? 確かに、鵜堂先生はこれらの基準から考えれば優しいだろう」

「それでも、優しくないのですか?」

 鎌田はまだわかっていないため、緒方に聞いた。緒方は首を横に振り、ため息をつく。

「鵜堂先生から、研究テーマは院生自身が探してくる、というのは聞いたかい」

「はい。研究テーマを自由に選べるのはいいなと思いました」

「確かに、この研究室は院生が研究テーマを自由に選べる。特に拘束時間もない。週に一回の研究室セミナーにさえ出ていれば特に何も言われない」

 鎌田は真剣に緒方の話を聞いているようだった。佐々木は江藤とともに、成り行きを見守っている。緒方は続ける。

「君は確かに自由に研究テーマを選べる。どんなテーマも修士論文のテーマとして採用することができる。ただし...」

「ただし...?」

「研究を始めたばかりの院生が思いつくアイディアなんで、他の人がとっくの昔にやっていることばかりだ。鵜堂教授は優しいので、出したアイディアにすぐに先行研究があることを教えてくれる。ただし、どんなテーマが新しいかは言ってくれない。それは院生が考えなければならないからだ。もし仮にテーマが新しかったとしよう。でも、そのテーマで得られた研究結果が鵜堂教授が求めるクオリティに達していない場合、鵜堂教授は修士号を出さない。修士論文を書いても受理しない」

「えっ?」

 鎌田が佐々木と江藤の顔を見る。佐々木も江藤も顔をそらした。日本のどこの大学院でも、修士論文さえ書けば、修士号ならどこも標準年限の2年で取れる。博士号は研究の世界の運転免許証のようなものだが、修士号は仮免許のようなもので、よほどのことがない限り受理されないなんてことはない、はずだ。

「君、鵜堂教授は、4月からのM2は何人、って言ってた?」

「もし君たちのどちらかが移籍するなら、M2は3人、と言っていました」

 緒方は首を横に振る。

「それは間違いだ。多分、鵜堂教授は、4月からのM2は君たちのどちらかが入ったとして3人、と言ったはずだ」

「え?」

 江藤がマグカップの縁を人差し指を這わせている。

「俺は今M2だけど、来年もM2だ。もう一年頑張ろう、だってさ」

 そう言いながら緒方は立ち上がった。そしてそのままドアの方へ向かい、振り向いた。

「就職予定だった企業の内定もパー。この研究室はお勧めしない」

 そう言いながら、緒方は歩き去っていった。

 江藤も立ち上がった。

「僕もお勧めしないな。僕は今D3だけど、4月からは3度目のD3」




(続く)

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