物性理論大学院生の日常〜研究室は解散しました

新井パグナス

第1章 研究室解散

第1話 この研究室はこの春で解散します

「申し訳ない、この研究室はこの春で解散します」

 大学院生修士課程1年生の佐々木透が指導教官の猪俣准教授からその言葉を聞いたのは、1年目も終わりかけた2月だった。

 みんなに話がある、とセミナー室に院生たちを集めた猪俣は、いつも通りの少しよれたチェックシャツにジーパンの出で立ちで黒板の前でそう言った。


「次の4月からは、私は関西のK大学の教授となります。年度末のギリギリにこんなことを言ってすみません。みなさんが不利にならないように、なるべく頑張ります」

 そう言いながら、猪俣は黒板に今後の所属先を書いた。異動先は関西の有名な私立大学だ。佐々木は呆然としながらその所属先を眺めていた。何故? 何故T大のような超優秀な国立大学をやめて関西の私大に行くのだろう? 全員が浮かべた疑問に猪俣は気付いたらしい。申し訳なさそうな顔をしながら口を開く。


「私のポジションのT大学の准教授は、任期付きです。定年退職まで居られるようなポジションではないのです」

 猪俣先生が任期付き? 佐々木は知らなかった。でも佐々木が高校生の頃からT大の先生だったはずだ。

 猪俣は続ける。

「10年間の任期のあと、業績やら獲得外部研究費やらの審査を通れば任期の定めのない職になるテニュアトラック、というポジションでした。残念ながら、外部研究費総獲得額が研究科共通の規定を満たさなかったようで、今年の3月末でこの研究室は解散です」

 そう言う猪俣を眺める大学院生達は、まだ、何を言っているのか?という顔をしている。

「皆さんに研究費で不自由させたことなどないのは知ってのとおりです。研究室に配属された大学院生には必ず個人用の新品のデスクトップPCを渡しました。数値計算用のマシンも5台以上あります。皆さんが国内の研究会や学会に行きたい時、出張費用は全部研究費から支出できました」

 猪俣は黒板の前を歩き回り、チョークを探し出し、猪俣たちに背を向ける。そして、

「5000万円」

 と書きなぐった。

「10年間で総額5000万円の外部研究費の獲得。私にはできなかった!」

 猪俣はどんっと黒板を手で叩く。いつも温厚な猪俣にしては珍しいと佐々木は思った。

「だって、私たちの研究室は理論系! 実験はしない! 実験系研究室のような高額な測定機器は必要がない!必要なのは院生と自分が使える旅費と、デスクトップPC、数値計算用のPC! PCは一度買えばそんなにいらない! 何に使えばいい!? 人件費しかない。どこかからポスドクを雇うしかない...」

 猪俣は興奮した口調で喋り続ける。

「しかし!人件費を主目的とした研究費申請は、よほどじゃない限り通らない。私はそのよほどになれなかった。そもそも、このテニュアトラック制度で発足した理論系研究室は私のところだけ。実験系も理論系も共通で5000万円を取らなきゃだめだなんて、おかしい!」

 猪俣はひとしきりしゃべった後、ふうと息を吐き、落ち着きを取り戻した。


「すいません、少し興奮しました。ともかく、私の力不足で大型予算を取ってこられなかったのが、問題です。すいません」

 猪俣は院生たちに頭を下げた。

「ということで、10年の任期が切れるため、T大にはもういられません。幸い、任期ギリギリで関西のK大学の教授職を得ることができました。みなさんには大きな迷惑をかけて申し訳ありません」

 猪俣はまだ頭を下げたままだ。院生たちは呆然としたままその様子を眺めていた。遠くで野球部のかけ声が聞こえる。







「猪俣先生、僕たちはどうなるんですか?」

 しばらくの静けさの後、佐々木よりも前に座っていた、ずんぐりとした体型の人物が立ち上がる。佐々木の先輩、博士課程2年の高水信幸だ。彼は来年度には博士論文を書いて博士号を取得する予定だった。

「高水くんは、私と一緒にK大学に来てもらって、T大の指導委託制度を使ってそのまま研究を続けるのがベストです。そうすればそのまま今の研究テーマでT大の博士号を取れると思います。あれ、内海くんは?」

「内海さんは、まだ来ていないと思います」


 セミナー室を見回す猪俣に佐々木がそう答えた。内海も佐々木の先輩であり、次の四月からは猪俣研究室の博士課程1年になる予定だった。今は午前11時を回ったところ。内海は12時を過ぎないと大学にやってこない夜型だ。この研究室のは特に拘束される時間帯がないので、みんな好き勝手な時間帯にやってきている。今セミナー室にいるのは、猪俣を含めて4人。

「じゃあ内海くんには後でメールしておきます。彼には選択肢が二つあって、指導委託制度で関西のK大学で私と一緒に3年間研究するか、ちょうど3年あるのでこれを機にT大内の別の研究室に移ってもらうか」

「私たちはどうなるんですか?」

 そう聞いたのは佐々木と同学年の鎌田智子だ。今日は赤いセーターを着て、長い髪を後ろで結んでいる。猪俣は少し困った顔をして、鎌田と佐々木の顔を交互に見た。


「君たちにもいくつかの選択肢があります。T大の指導委託制度で4月からK大学で私と研究し、修士論文をT大に提出する。その後、K大学の博士課程の試験を受けてK大学の大学院生となるのが一つ...」

「それは嫌です。私はT大の博士号が取りたいんです」

 鎌田は遮るように即答した。

「あるいは、同じくK大学で残り1年間私と研究して、その後また東京に戻ってきて3年間を別の研究室で過ごすのが一つ...」

「それも嫌です。1年間だけ引っ越してまた戻って来るなんてお金がかかりすぎです」

 これも鎌田は遮った。猪俣はさらに困った顔をしながら、続ける。

「あるいは、形式的にどこかの研究室に所属して、私とは時々メールのやり取りをしたり、Skypeで議論したり、時々私が関東に出張してきた時に議論したりして、なんとか研究を続けて修士論文をT大に提出、博士課程からはT大の別の研究室へ進む...」

「それも辛いです。だって高水さんも内海さんも関西に引っ越してしまうわけですよね。佐々木君と私だけで研究テーマ用のプログラムを書いてデバッグもして、なんて難しいです」

 これは佐々木も同意見だった。修士課程の1年目は、単位取得のための講義や研究テーマのための基礎勉強ばかりで、まだまともに研究用のプログラムを書いていない。猪俣研究室は興味の幅が広いために院生一人一人が違う研究をしていて、先輩のプログラムを回してもらう、ということもできない。

 セミナー室の窓から、雪が降り始めているのが見える。雪は東京では珍しい。


「あとは、T大の他の研究室に、4月から移籍、ですね。基礎勉強は物性理論系ならどこも似た様な事をやっていますから、君たちなら今から移籍先の研究テーマを始めても修士論文は書けると思います」

 それを聞いて鎌田は腕組みをして考え込む。そして佐々木の方を振り返って言う。

「佐々木君はどうするの?」

 猪俣の言う通り、固体物理学に関する理論を扱う研究室、通称「物性理論」研究室ならば、移籍しても修士論文を書くことはできそうだ。一方、4月から関西に引っ越してK大学の博士課程に入り直す、というのは、猪俣研究室の研究テーマを続けるには最適な気がする。しかし、気になることが...。


 佐々木は猪俣を見て、言った。

「猪俣先生、T大のグローバル卓越大学院の制度は、K大学の学生になってしまったら使えなくなるんですよね? T大に所属したまま指導委託なら大丈夫ですか?」

「そう、そこが問題です。君たち二人は学内審査の結果、来年度からグローバル卓越大学院生一期生になる予定でした。T大の規定では、指導委託等の直接指導以外の場合はこの制度は使えないことになっています」

 それを聞いて鎌田が慌てて立ち上がる。

「それじゃあ、私たちに選択肢はないじゃないですか。K大にはグローバル卓越制度は無いんだから、もし関西に引っ越したら、私たちは給料がもらえなくなってしまいますよ?!」


 つい最近始まったグローバル卓越大学院制度。文部科学省が発案した、大学院生の研究生活向上のための制度。申請が通った特定の大学の大学院の学生は、学内審査によって選ばれることで「グローバル卓越大学院生」となり、修士課程2年生から月額22万円が支給され、学費が免除される。条件は、博士課程に進学して博士号を取得すること。形式上は貸与の形を取っており、博士号を取得することで初めてその返還が免除される、という制度だった。

 佐々木は都内で一人暮らしをしている。この制度のおかげで、今年の4月からは親からの仕送りなしで生活ができる、やっと自立して生活できる、と思っていた。やっと「仕事」として研究ができる、もう毎回帰省のたびに地元の友人たちに「勉強熱心だね」と言われない、と思っていた。しかし、このままK大学に行って猪俣新教授の研究テーマを続けると、そのお金が入らない。選択肢はなかった。


「佐々木くん、鎌田さん、申し訳ありません。私がもっと大型研究費を取っていれば、良かったのです。もう私はT大には居られないので、グローバル卓越大学院生を続けるには、他の研究室に4月から移ってもらうしかありません」

 猪俣はもう一度頭を下げた。佐々木は鎌田を見る。鎌田はため息をつきつつ猪俣の頭を見ている。多分佐々木と同じことを考えているのだろう。どんなにT大准教授が頭を下げても、自分たちの状況は変わらないのだ、と。

 窓の外ではずっと雪が降り続けていた。このままだと積もりそうだ。もっと積もったら雪の中に飛び込んで頭を冷やしたい、雪国出身の佐々木はそう思った。

 頭を上げた猪俣は言葉を続ける。

「それと、本当に申し訳ないのですが、定年や異動などで解散した研究室の院生を受け入れる場合、一つの研究室あたり、各学年最大1名、と決まっています。なので、佐々木くんと鎌田さんはよく相談して、4月からの進路を決めてください。本当に申し訳ない」

 そしてまた頭を下げる猪俣。佐々木と鎌田は互いに顔を見合わせた。







 あの出来事の後、佐々木と鎌田に誘われて学内のコンビニへと歩いた。雪はまだ降り続いている。鎌田は黒いコートを着て赤いマフラーを巻いていた。

「佐々木くん、どうする? 物性理論の研究室は、このHキャンパスに四つ、Sキャンパスに三つ、あとKキャンパスには、三つ?」

 それぞれビニール傘をさしながら、キャンパスを歩く。都内のキャンパスであるが学内は広い。コンビニまでは5分はかかる。鎌田は傘をくるくると回している。

「Kキャンパスには四つだよ」

 佐々木は訂正しつつ歩く。鎌田は隣の県にあるKキャンパスのことをろくに調べていないことは、よく知っている。鎌田の実家は都内にあり、わざわざ遠くへは通いたくないそうだ。

「佐々木くんと私、両方とも今の研究テーマが超伝導だから、行きたい研究室がかぶるかもしれないよね。どこか、移籍先の希望研究室はあるの? 私はHキャンパスの研究室がいいなー」

「いくつか考えている研究室はあるけど、一人一人会ってから決めようと思っているよ」

 佐々木は、どのキャンパスでも、少なくとも一つは超伝導の研究を行う研究室があることを知っていた。しかし、どの先生もなかなか個性的な先生が多く、研究室のルールも雰囲気も研究室ごとに大分違うので、すぐには決められない。

「じゃあさ、一緒に物性理論の研究室回ってみない?二人同時の方が先生方もアポイント取りやすいだろうし」

「でも、鎌田さんはHキャンパスの研究室しか興味ないんでしょ?」

「一応回るだけ回ってみようかなーと思っているんだ。一対一だとしんどいけど二対一ならいいかなーって」

 そう言いながら、鎌田は傘に降り積もったベチャベチャの雪を落とし、畳む。目の前はすでにコンビニだ。佐々木も同じように傘を畳む。

「わかった。俺がメールしてアポを取るよ。都合の悪い日とかある?」

「特にないかなー」

 鎌田の後に続きコンビニに入る。鎌田は窓際の雑誌コーナーへ向かっていた。

「わかった。で、鎌田は何買いに来たの?」

「特に何も。雑誌新しいの出てるかなー、とか」

「そう」

 二人で何となく立ち読みして、そのまま来た道を引き返し研究室に戻った。




(続く)


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