卿も卿とて愉快な終末
コカ・コーラの海に頭から齧られて、ようやく僕は自身が騎士であったことを思い出した。成人祝いに両親が買ってくれた自慢の鎧がしゅわしゅわと音を立てる。狭い視界ではビビッドカラーの魚たちが為す術もなく沈んでいく僕を物珍しげに眺めていた。
自動で暗所行軍用のヘッドライトが灯る。少しはマシになった視界でも、分かるのはやはり科学色の太平洋の果てなさだけであった。
十五メートル
底の見えない海に沈みながらも、不思議と焦る気持ちは沸いてこなかった。むしろこの海の底はどうなっているのだろうかとか、そういえば息ができるじゃないかとか、呑気な事ばかり考えていた。上官から日頃おめでたい奴だと言われる所以はここにあったのか、今更気付いたところで沈む先に上官はいない。僕は口を大きく開けて、贅沢にコーラを一口飲む。飲み放題だ。
そもそも僕は争いごとに向いていないのだ。誰よりも輝く剣は誰の血も吸っていない証拠で、傷一つない鎧は僕の騎士人生の平穏を語っていた。相部屋のシャーデンフロイデは鼻息荒く、一人でも多く敵を倒すことが故郷の両親が安心して過ごす日常に繋がると語っていたが、息子が戦場にいる時点で両親は気が気でないだろう。本当に彼らの安心だけを願っているのなら、家業の雑貨屋を手伝っていれば良いのだ。それを指摘したところで彼は忠誠心が云々と上官に告げ口をし、僕の頭にタンコブが増えるだけなのでその時は適当に頷くにとどまった。彼は手先は器用だが短気な男であったのだ。彼の研いだ剣は同期の誰のものよりも良い切れ味を発揮して、いつも美しい輝きを放っていた。たまにこっそり包丁代わりに拝借していることはまだバレていない。
しゅわり。そういえば金属の鎧に炭酸飲料はマズいのではなかろうか。
五十メートル
落ち着いて考え事をする機会なんてそうそう与えられるものではない。その点僕は幸福なのだろう、どれ程のナイスアイデアを思い付いたとしても、それを実行する機会が僕にはないという点を無視すれば、の話だが。
目を閉じる。そうだ、そろそろ実家から箱一杯の林檎が送られてくる時期ではなかったか。故郷の林檎は蜜の入りが絶妙で、幼い頃から僕の大好物であったのだ。
僕の故郷はひどい田舎だった。何も無いという意味で、「ひどい」である。都会の友人達が思い描く田舎の、そこから数歩更に文明から後ずさったのが僕の町であった。舗装された道は僕の家の前に届く前に力尽き、イベントといえば神社の縁日が年に一度あるくらいで、カラオケもゲームセンターも車で三十分、当時の僕は友達と汗だくになり、片道二時間かけて自転車をひいこらと言わせ遊びに行っていた。あの時メダルゲームで大量に獲得した持ち出し禁止のメダルは、こっそり黒いプラスチックバケツに山盛りのままウェストポーチに持ち帰った。未だ友人の実家のどこかで、被投入の機会を夢見ているはずである。使い切ってやればよかったな。小さな小さな、後悔とも呼べぬ泡が僕を見送って水面へと浮かんでいく。
しゅわり。兜の僅かな隙間から見える手甲が錆び始めているような気がする。糖分だもんな。そろそろ飲み放題のコーラの味にも飽きてきた。好きなだけ飲んで良いと言われると案外飲む気が失せるものである。
百二十メートル
ところで、今日は土曜日である。特に気になるテレビ番組がある訳ではないが、そもそもテレビを観なくなったのは僕が休日の度何かと厄介事と遭遇してしまうからだ。先週は二つ年下のミュールが逃がしてしまったという黒猫を探し回っていたし、その前はシャーデンフロイデのやつが強引に誘ってきた知らないロックバンドのライブ鑑賞だった。結局後でこっそりCDをレンタルするくらいには気に入ったので文句はないが、ところでまだ返していないCDの延滞料金はどうなるのだろう。嫌な事を思い出してしまった。ともかく、今日も今日とて愉快な週末を過ごしているものだ。いくらになるかは知らないが、シャーデンフロイデに払わせてやればよいだろう。
しゅわり。ただでさえ暗い海だというのに、いよいよ何も見えなくなってきた。ヘッドライトのつまみを捻り、更に光量を増やす。関節部分が錆びてきたのだろうか、少し動かしづらくなっている。目に痛い光を反射する魚達もその数を減らし、形もなんだか変わってきたような気がする。もう少し沈めばテレビで観たような深海魚に会えるのだろうかとワクワクする反面、魚ですら変えてしまう環境に果たして僕が耐えられるのだろうかという不安が再度湧き上がってきた。教官は何かにつけて「鎧と覚悟があれば何だって耐えられるんだ」と僕達を怒鳴りつけていたが、それにしたって限度があるってことは皆分かっていた。恐らく、教官自身も。肩を覆うアイアン・プレートが嫌な音をたてた。少しづつ膨らんできた不安から離れるように、僕はぎゅっと目を瞑った。
████メートル
両足への衝撃で瞼を上げる。いつの間にか眠っていた。目をやると、脛から下が撒きあがった砂埃に隠れている。海底に着いたらしい。
岩だらけと思っていたがそうでもなかったようだ。ライトで照らされる範囲は全てが白い砂原だった。コカ・コーラの黒と砂原の白で、まるで世界がモノクロになってしまったかのような錯覚を覚える。深海魚の中には砂の上を泳ぐものも多いと聞くが、そもそも僕以外に生命が見えない。このまま立ち尽くしていても仕方がない、歩いてみよう。そこで右足を前に出そうとするが抵抗を感じる。ついにと言うべきか、鎧の関節部分はすっかり錆びてしまっていた。
何度か関節を強く曲げ伸ばしていたら何とか歩けるようにはなった。一歩一歩、砂漠を行く旅人のように僕は静かな海底を歩く。追い風の代わりに僅かな海流が僕の歩みを助け、太陽、あるいは月明かりの代わりにライトが足元を照らしてくれている。これでラクダ替わりの何かがいてくれれば。一人キャラバンは果て無い砂漠を歩いていく。
暇潰しの鼻歌でアルバムが作れそうになる程歩いた頃、視界の端で何かがライトに照らされたのが見えた。
それはポカリスエットの真っ青なベンチだった。入道雲の浮かぶ夏空と同じ色のベンチだった。コカ・コーラの海なのにあの赤いベンチではないのかとも思ったが、何よりも白と黒以外の色にようやく出会えた喜びが大きかった。休憩するとしようか、ベンチとはそのためにあるのだ。僕は喜び勇んでベンチへと歩み寄り、どっかりと腰を下ろした。
一息ついたところで、ベンチの右前に何かが建っていることに気付く。錆びで時刻も分からなくなっているが、どうやらバス停の標識であるようだ。僕の心に子供のような好奇心が沸いた。ここにバスが来てくれたりしないだろうか。バス停にはバスが来るものだし、バスの来ないところにバス停はない。何をして良いかも分からないのだから、これを待ってみるのも面白い。僕は腕組みをして目を閉じた。
しゅわり。もうどれくらいこうしているのだろう。ふと目を開けた時にはもう錆び切った鎧は腕組みをしてベンチに座ったままもう指一本も動かすことはできず、先程遂にライトの電池が切れた。バスは永遠に来ないのかもしれないし、次の瞬間には僕の目の前に止まるのかもしれない。どちらにしろ僕は待ち続けるしかない。どうせもう動けないのだから。
バスが来たとして、どこへ連れて行ってくれるのだろう、もう動けない僕をちゃんと運び入れてくれるだろうか。運賃に関してはつけてもらうしかない。部屋に帰ったらちゃんと払うとも。無事に帰ることができたら故郷の両親にこの出来事を手紙に書いて、シャーデンフロイデのやつに話してやろう。どうせあいつはサボりの言い訳にしてはふざけた作り話だと僕を詰るのだろうな。いつもは辟易するあのやり取りが今は何故か愛おしく感じる。僕は優しい気持ちで微笑んで、再び目を閉じた。
ぬくもりへ急ぐ街に カレンダー卿 @nakaniwa_kouka
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