仮題:葉桜を微分

 葉桜の枝達が揺れ重なった記号が誰かの顔に見えたような。そんな気がして私は意識を終末世界サバイバルからクソッタレな五時限目へと帰還させた。斜め前の二木ちゃんは相変わらず数学の教科書の影で化粧の勉強をしている。二木ちゃんは今のままでも十分可愛いと思うのに、このクラスでは化粧に拘れば拘る程に何らかのポイントが稼げると信じられている。つまらない、くだらない。皆そう思ってはいるものの、誰かがまず叫んでくれるまで様子見しよう、クラスはそんな爽やかな気まずさに満ちている気がする。いや、もしかしたら窓の向こう全てまで。誰かに確認したことはないから、これは全て私の妄想だ。ああ、私はイヴと友達になりたい。頬杖をつくと、お前が言うなとばかりに机の中でポーチがガサリと鳴った。私が勝手にイメージしているだけで、実は彼女だってだって私達と同じなのかもしれない。パッと見真面目一辺倒な葉ちゃんのように。もしそうなら、林檎を両手に頬張って、二人で撮った写真をインスタにあげてやろう。愉快な妄想だけは疲れることがない。蛇も案外悪い奴じゃなかったのだ。

 新進気鋭の数学教師が、確か二年目だったか、チョークで黒板を何度も小突きながら教科書を一字一句違わず音読している。この暑苦しい(本人はフレッシュだと思っているらしい)授業のせいで、私は数学のイメージカラーを青から赤に変更せざるを得なかった。

「岸田。定理2.3、読んでみろ」

 机に突っ伏していた坊主頭がガタリと揺れ、シャープペンシルが落ちると共に辺りから笑いが起きる。私が当てられていたら危なかった。慌ててページをめくる。

 微分。文系の私はセンターで使うだけだから、xの上の数字が前に行って減るんだな、くらいしか覚えていない。でも、美菜ちゃんが言うには、「どのくらい変化したかが分かる」らしい。そういえばグラフでも変化量を求めさせられた気がする。ここからここまでどのくらい変化しましたか。はい、よくできました。

 呑気なもんだ。私は教科書のグラフを指で軽く弾く。思春期の感性をもってすれば、二次関数に八つ当たりすることだって造作もない。私達もこのくらい呑気に、分かりやすく上がったり下がったり出来たら。

 岸田がつっかえながらも定理の2.3を音読し終え、その下にある演習問題を解くよう指示される。私はあたふたする岸田を他人事のようにぼんやりと眺めていた。テストが近かったような気もするがどうしてもやる気が出ない。この時間なら次の問題には進まないだろうし、せっかく開いたページをまた閉じる。また窓の外の葉桜に目をやる。

 そういえばついこの間まで文字通り桜色だったはずなのだが、いつの間にこうなってしまったのだろう。昨日はもう葉桜だった。一昨日も確かそうだ。その前は――

 演習問題よりも疲れることをするわけもなく、私はわざと大袈裟な瞬きを五回ほどして思考を止めた。父に「癖になるから止めなさい」と注意されるやつだ。あとはぼうっと、昇降口までの間に美菜ちゃんに会えたらどこか遊びに誘ってみようかとか、夏休みまであと何日だったかとか、チャイムがまた私の頭を覚ますまで、葉桜の揺れるリズムでそういうことを考えていた。

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