ビニール傘

 六時限目が数学だと、雨が降る気がする。誰も信じてはくれないけれど、唐突な授業変更を知らされる度に私はこのジンクスを思い出すのだ。

 世の女子高生は何にでも「可愛い」を求めて、鞄に大きなストラップを付けてみたりだとか、掌に余るスマホカバーを半年に一度は買い換えてみたりだとか。傘だって例外ではない。皆な傘を携え、お互いに褒めあうなどして曇天の放課後は過ぎていく。馬鹿馬鹿しい、とまでは思わない。しかし汚れるのが嫌、折れるのが嫌、などと言って大雨の日に差すのを躊躇うようでは本末転倒ではないだろうか。私は演習問題に悩むふりをして頬杖を突く。昼休みのあたりから重みを増し始めた空はいよいよ雫を零し始め、弱まる気配はなかった。若い数学教師は静かな口調で演習問題のヒントを解説していく。優しくていい先生なのだが、昼休みを明け、五時間目を耐えきったこの時間にその声色は眠くなるのでやめてほしい。私はちゃんと聴いたこともないエルヴィス・プレスリーらしき何かを脳内ライブ会場に招くことによって何とか眠気を撃退するよう努めた。

 数学教師というものは、円周率、つまりπであるが、それがまるで世界の仕組みを全て担っているかのような調子で語るものだ。円周を直径で割ったからなんだというのだ。その程度で私の世界を理解したつもりにならないでほしい。いつの間にか微睡んでいたのだろう、そういう時にこそ人は似非哲学の迷路に迷うものだ。いや、迷った気分になるものだ。

 数学以外の全てに思いを馳せている間に数学の時間が終わり、今日の学業は全て終了した。家に帰って復習などするつもりはないのだから、正真正銘全て、である。秀才は復習もやらされて可哀想だ、と未だぼやけた脳みそは精一杯の感想を出力した。

 ホームルームもコピー&ペーストで進み、そして終わった。特に連絡事項もないのならば、「昨日と同じです、では、さようなら」といって解散させてほしい。私は心なしか早歩きでビニール傘をつかみ、校舎を飛び出した……ような気持ちで歩き出した。

 正門からバス停までは徒歩で三分ほどかかる。運動部なんかは雨だとグラウンドが使えない代わりに“中練”だ、とうんざりした顔をし、文化部はいつもと変わらずそれぞれの活動場所へ向かい、それ以外は家に帰る。中には雨合羽を着込んで自転車に跨る男子もいるにはいるが、よくやる、と私は感心する。

 バス停には既に数人の生徒が列を作っており、私も間もなくその一部となった。

 ビニール傘越しに見る景色は好きだ。雨粒に歪むアスファルトは、制服は、雑草は、人は。噎せ返る雨の匂いに包まれて、私は三十分に一度のバスを黒々とした巡礼の列に取り込まれたまま待つこととなった。お地蔵さまと今の私、何が違うのだろう。雨は十代を哲学者にする。な傘では得ることのない感覚だ。それともう一つ。

 傘越しにしかできない恋というものもある。哲学者兼恋する十代の私は、前に並ぶ黒々とした学ランをビニール傘越しに見上げる。大人しくなる気配のない空模様は私の景色を更に滲ませ、もはや私の世界は輪郭の消失した色だけの世界となっていた。時刻表の通りだと、あと十四分。黒とベージュに支配された世界は哲学者の鼓動をペースアップさせる。

 六時限目が数学だと、雨が降る気がする。だから私はその度心を躍らせるし、だから私は、誰に何と言われようとビニール傘を使うのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る