第3話

 文芸誌「満潮」最新号が書店に並んだ。特集は「神崎正男」の単行本発売を記念した「現代の私小説」だった。他の作家も併せての特集だが、「神崎正男」の新作は巻頭で、いちばん目立つように載っている。

「あれ、こんなものが載ってるよ」

 そして、同じ誌面には、「神崎正男」ら「私小説」の盛り上がりをくさす「亡霊のごとく蘇った『私小説』」というタイトルの文章を載せていた。

 書いたのはそこそこ名の知れた翻訳家兼評論家で、海外文学が専門。特集とバランスを取るつもりだろうか。

 大まか、こんな内容である。書き手の憤懣やるかたない想いが、その筆致から伝わってくるようだ。


 そもそも小説とは、社会の真実とその中の人間を描く、あるいは前衛的な技巧を凝らして文章芸術のフロンティアを切り開くものなのだ。それを実感したければ、たとえば十九世紀の大河小説、たとえばラテンアメリカ文学。たとえばアメリカの前衛文学を読めばいい。小説とはほんらい、このような奥の深いものだ。

 しかるに、大正以降の日本の「文壇」では、個人の愚痴や愚行をただ書き連ね、内輪のゴシップとしての価値しかない『私小説』なんかがはびこったせいで、日本の近代文学は世界の潮流からはるかに取り残され、『ガラパゴス化』してしまった。

 先人の苦闘でようやく、この国にも『世界文学』といえるものが現れてきたのに、政治の世界と同じく、ここに来て、バックラッシュがやってきたようだ。

 いい例が最近評判だという神崎正男の『東十条にて』である。程度の低い男が自分の不遇や貧乏について愚痴を垂れ、女に対する乱暴狼藉に終始する、作品とは言えない代物ではないか。こんな犯罪自慢、愚行自慢が『文学』とは、笑止千万言語道断横断歩道、である。

 思い出すがいい。狭い文学観しか持たない『文壇の老大家』の傍若無人を。

 才能もないのに、やれ女をぶん殴っただの、親戚に借金をしただのということだけはいっぱしの手合いが、いかに社会に害毒を垂れ流し「小説」「小説家」に対する偏見を形作ってきたかを。

 今こそ、作者が己の愚行醜聞を「告白」し読者が同病相哀れむことを「文学としての評価」と勘違いするという愚かな振る舞いを批判しつくさなくてはならない。大正時代に時計の針を戻してはいけないのである……。


「ぷっ」

 村尾は、あまりのばかばかしさ、「前衛」を気取った頭の固さに吹き出してしまった。

 昔からいた「私小説嫌い」のテンプレート通りの反応ではないか。

「有名税だな、こういうのは」

 余裕を持って受け止めた。

 しかし、しばらくたって、件の文芸評論家が殴られたというニュースを聞いて、村尾は真っ青になってしまった。

 その事件を伝えるネットニュースによると、銀座の文壇バーを出たところ、待ち伏せしていた男に殴られた、と言っているという。

 評論家は男に見覚えがないと語り、記事は「神崎正男の熱狂的ファンの仕業か?」と締められていた。

「うーん」

 村尾は腕を組んだ。

「気味が悪いな。『フィクションが現実に与える悪影響』などと、使い古されたことは言いたくないがな」

 だが一週間後、鷺沼亜望から電話がかかってきた。

「先日は大変でしたね。でもそんなことは昔は良くあったって、編集長が笑っていました」

「はあ」

「それと、原稿、ありがとうございます」

「?」

「先日のあの件の顛末が、見事に小説として昇華されていました。次号に掲載したいと思います」

 どういうことだ? だが村尾はつとめて冷静に応えた。

「……そうですか。チェックしたいので、とりあえず送って下さい」

 編輯部から「原稿」がファックスで送られてきた。

 原稿用紙のマス目を埋められた、万年筆で書かれたとおぼしき「手書き」の文字。それはまさしく「神崎正男」の筆跡だった。


 こないだは、いけ好かない西洋かぶれのメガネザルを、しめてやった。

 外面は金ぴかだけどその実ぺらっぺらのメッキなくせして、学歴だが文壇政治だかで、ひとかどの地位を得ている手合いだ。

 大学やらの教壇では聞いたような口をきいて、バカ学生の子守歌になっている。こんな手合い、いつか一発食らわせるべしと、虎視眈々と狙っていたのだが、過日、銀座のクソ高い文壇バーとやらで毎日呑んでいるそうだ。

 当然、下賤な私ごときが敷居をまたげるはずのないところだ。

 どうせ、ホステスにしなだれかかられながら、やくたいもない文学談義とやらをひとくさり講義して、流石先生よねえ、とかいった見え透いたお世辞を返されて、脂下がっているに違いない。

 そうでなければ「人生通」ぶったご選択を垂れて、隙を見てホステスの尻をなでていたりするのか。

 いずれにせよ、いけすかない。

 おれは小一時間待っていた。

 出てきてタクシーを拾おうとしたとき、飛び出して、

 いきなり幻の右ストレートをお見舞いすると、奴さんは野良犬より惨めな啼き声でキャンキャン吠えまくるのだ。

 殴り返す気概も意地も見せずに警察だの一一〇番だの、情けない限りである。所詮は紙弁慶、口舌の徒か。

「おれがオヤジ狩りのガキじゃなかったのを、感謝するんだな」

 捨て台詞を吐いて、その場を去って行った。


「……驚いたな。それにしても今時、こんなものがあるとはね」

 ファックスを読みながら、村尾は言った。

「昔、写真が今ほど普及していなかった明治大正の頃は、文士の偽物がよく出没したそうだ。有名作家を名乗って温泉旅館に泊まって宿代を踏み倒したり、寸借詐欺をして、新聞種になった。偽物が出るのが、有名文士の証だと聞いたことがあるね。のんきな時代だったんだな」

「犯罪も『のんき』で済む時代、ということだったんですかね」

 大多賀美佐子は肩をすくめた。

 筆跡は確かに似ている。「肉筆」の原稿が文芸雑誌のこの前の特集記事に載っていた。それをまねたのだろうか。

 数日後、件の暴行犯が逮捕されたという報せが入った。

 やはりというか、「神崎正男」の大ファンで、「原稿」もそいつが書いて送りつけたものらしい。

 この件は一段落のように思えた。だが――

 数日後、またもや、大多賀美佐子が研究室に血相を変えて飛び込んできた。

「大変です」

「なんだよ、今度は」

「これ」

 スマートフォンの画面を見せられた。そこに表示されていた、ネットに流れていたニュースは、目を疑うものだった。


 川崎、堀之内の風俗店で店員に暴力を振るった疑いで、自称作家、神崎正男容疑者(四〇)が暴力行為の疑いで逮捕された。

 神崎容疑者は逮捕時、泥酔しており、「風俗嬢のサービスが悪かった」と供述している。

 神崎容疑者は1週間前にも、自作に批判的な記事を書いた文芸評論家を殴打する事件を起こしているという。


「こないだの事件と、同一人物の仕業ですかね」

「まさか」

「なんで、こんなことに」

 そのとき、「神崎正男」の携帯電話が震えた。

 鷺沼亜望から着信があったのだ。

「警察から連絡がありまして……」

「はい」

「身元引き取り人として編集者を指名しているそうなんですよ。一緒に行ってくれませんか?」

「わかった」

 鷺沼と連れだって、「神崎正男」が留置されているという警察署に行った。

鷺沼が名刺を出して「編集部のもの」と名乗ると、面会室に通された。黒いジャンパーを着た中年の男が、椅子に座ってうなだれていた。

「……」

 立ち上がると、背丈は村尾より大きかった。

「あんたは、いったいだれなんだ?」

「ふっ」

 神崎、と名乗った人物は鼻で笑った。そして握り拳から立てた親指で自分を差し、言った。

「神崎正男だ」

「そんなはずはないだろう」

 村尾は突っかかる。ここで正体を明かしてしまおうか、と一瞬心に浮かんだが、思いとどまった。

 男はまくし立てた。

「おれもこの年まで、ずっと小説を書いてきたよ。全然ダメだったが……この作品には、おれのことが書いてある。世間から相手にされず悶々とした想い。ヤケになりたい衝動。心の叫び。神崎正男は、おれだ」

 どうやら小説を読みすぎて、おかしくなってしまったようだ。

 これではまるで『ドン・キホーテ』じゃないか。

 騎士道物語を読みすぎて、自分も物語の中の騎士だと思い込んでしまった男の悲喜劇。近代小説の鼻祖と呼ばれているのだが、それを地で行くとは。

 結局、村尾も鷺沼も「彼」の縁者ではなかったので、身元引き取りは出来なかった。

 過日の文芸評論家襲撃は、人相が違う上に、目の前のこの男は、当日にアリバイがあったそうだ。

 別人なのか。しかしもっと憂鬱なのは、そんな手合いが、複数存在するということだ……。

 歩きしなに鷺沼は言った。

「申し訳ありません」

「いいんだよ」

「……正直言って、わたし、怖いです」

 鷺沼は涙をぬぐった。

「どうして、こんなことが続くんでしょうか。神崎さんにご迷惑は掛けたくないのですが……」

「おれは気にしてないよ」

 村尾――「神崎」は平静を装った。

「そうだな。験直しに酒でも飲みながら、ゆっくり話をしようじゃないか」

 その晩、ふたりは家に帰らなかった。酒を飲んだ後、京急川崎駅近くのネオンがギラギラ輝くラブホテルの門をくぐり、キリギリスやゴキブリでもするような行為を、ふたりはした。

 翌朝、村尾は研究室に直行した。

 善後策を検討しなければならない。初めはいたずら気分だった村尾も流石に、洒落ではすまされなくなるものを感じてきたのだ。

 先に来て、待っていた大高美佐子には、こういった。

「しばらくおとなしくして、様子を見ることにするよ」

「私小説作家」の「神崎正男」はとりあえず世の中から消えた、はずだった。

 しかし、その見通しはすぐさま打ち砕かれたのだ。

 数日後、新聞を開いて、文芸誌の広告を見たとき、目を疑った。

「神崎正男の新作、だって?」

 これまで付き合いのなかった雑誌だ。

 本屋に駆けつけ、文芸誌を手に取った。

 巻頭に乗っていたその小説を、ざっと読んでみる。

 そこにあったのはまごうかたなき、「神崎正男」の文体を持った小説だった。

 誰かがなりすまして、文体までまねた、というのか。評論家を殴ったあの男や、風俗店で暴れたあの男が書いたのだろうか……。

 いや違う。

「神崎正男」という「現象」は、もはやこの国全体に進行しているようなのだ。

 ネットのSNSには、「神崎正男」を名乗る書き込みが次々に現れた。作中の台詞を呟くだけのボットもあれば、なりきって問答を交わすアカウントもいる。それらに何千人、何万人の読者がいる。「神崎正男」は、そのひとの数だけ存在する、ともいえる。かれらの中から「私小説」の筆を執るものは次々に現れるだろう。

 こんな事件がこの先も続くのか。

 そして突然、鷺沼亜望から電話がかかってきた。

「お久しぶりです」

 例の警察沙汰の件を受けて「ほとぼりが冷めるまで、しばらく断筆する」と彼女に伝えた。それから、連絡を取っていなかった。

「さっき、変なひとが編集部に来たんですよ」

「またかい?」

「でも今度は、女性なんです。N工科大学の院生と名乗ってまして……」

「はあ?」

 まさか――。

 大多賀美佐子が彼女の元を訪れたのか。

 冷や汗が背を伝った。

「『神崎正男』の正体は、人工知能だなんて言うんですよ。何を言い出すかと思ったら、まったくそんな荒唐無稽なこと……たぶん、頭がちょっとアレなお方だと思うんです。もちろん、丁寧にお引き取り願いましたわ」

「そうか……」

 苦笑して、会話を終わらせてから、大高美佐子にメールを出す。

「ちょっと、研究室まで来てくれないか」

「先生」

 しばらくすると、大多賀美佐子が、固い表情で研究室に入ってきた。

「呼ばれた理由は、分かっています」

 頭を下げた。

「勝手なことをして、申し訳ありません」

「きみが、ばらしたのか」

 美佐子は唇を歪める。

「はい。編集者に会って、証拠物件を見せました……でも、あのひとは取り合わなかった。あんなにすばらしい小説が機械に書けるはずはないって……村尾先生、どんな魔法を使ったんですかね?」

「魔法だって? そんなものはない」

「いったい、どうなってるんですか? 次から次へとおかしな事件が起こって、手に負えない事態になって」

「こっちが聞きたいくらいだよ」

「……先生」

 大多賀美佐子は真剣な顔をしている。

「もうやめましょう」

 大多賀美佐子は訴える。

「だんだん、恐ろしくなってきました。

おおごとになるなんて、もうわたしたちの手に負えません」

「……こんなことになっても、まだおやりになるつもりですか?」

「もちろんだよ。今更やめられるかい? 『読者』は新作を待っているんだ」

「もう、一大スキャンダルですよ。法律にも触れるかもしれません。いえ、触れなくたって、読者を欺していた道義的な責任というものが……」

 村尾はむっとした。

「なにが道義的な責任だよ。きみが言えた義理なのか」

「とにかく、もう付き合いきれません」

「そんなこと、言うなよ」

 村尾は肩をつかんだ。

「きみだけは、分かってくれると思ってるよ」

「先生!」

 大多賀美佐子は手を振り払う。

「忘れたのか、あの夜を」

「……いまさら、そんなこと言いますか?」

 冷たく言い放った。

「セクハラで学内の委員に訴えますからね!」

「ああ?」

「教授と大学院生という地位を利用して、不適切な関係を強要した……と、訴えていいのですか?」

「……!」

 この女、そこまでする気なのか。大多賀美佐子はさらに突っ込んでくる。

「それから、あの編集者さんと、どんな関係なのですか?」

「つまんない邪推はするなよ」

「あのとき、どう見ても、普通じゃなかった。先生のことを信頼しきっていた」

「……なんのことかな?」

「とぼけないでください!」

 やはり、女の勘は鋭い。

「わたしなんかいなくても、編集者さんと、よろしくやればいいじゃないですか」

「そんなんじゃないよ、彼女とは」

「嘘おっしゃい!」

 今日の彼女は、恐ろしく、強気だ。

「どうして、彼女から電話が来るたび、でれでれした顔になるんですか!」

「なってないよ」

「分かります」

 力士のプッシュさながら押しまくられる。心の中の徳俵に足がかかったとき、村尾の脳内で、なにかが堰を切った。

「さっきからぐだぐだぐだぐだ、てめえ勝手な物言いをほざきやがって。黙れよ、この眼鏡豚!」

 壁を拳で思いっきり叩いた。

「なにのぼせ上がってるんだよ。お前、自分のツラを鏡で見たことあるのか?」

「なにをするんですか……!」

 美佐子の顔面は蒼白になっていた。

「笑わせるぜ。てめえみたいな豚女は、トンカツ屋の看板でもやってたほうがよっぽどお似合いだよ。男たらしがしたけりゃ、キャバクラ嬢でもやってろ。それともなんだ、吉原のソープで客を取ったほうがいいよな!」

 村尾は聞くに堪えないような酷い言葉を吐きながら、オフィスチェアに膝蹴り――チャランボを入れた。大きな音を立てて仰向けに倒れた。

「セクハラの次はパワハラ、モラハラですか。先生、いえ、村尾さん。あなたをもう金輪際、先生だなんて呼びません!」

 そして、声を荒げた。

「あなたは、最低です!」

 村尾はふと、我に返る。

「……あ、おれはなにをやってるんだ……申し訳ない、つい取り乱してしまって」

 頭を下げる。それでも足らないと思ったか、

「このとおりだ……何でもする。今回はどうか穏便に済ませてくれ」

 膝を折ってビニールタイルの床に這いつくばった。

「なんですか、それ」

 ゴミを見るような眼で、土下座する村尾を見下ろした。

「今日限り、あなたと組むのはやめさせていただきます」

 ドアを乱暴に開けて、出ていった。

「おい!」

 声をかけたが、振り返らなかった。

 研究室に村尾はひとり、放心状態でつくねんと座っていた。

 日は暮れかかっている。西日が室内に深く差し込んでいる。

 そのとき、鮮明に浮き上がってきたものがある。

 『東十条にて』の一節だ。

 愚かな失敗をした、わたし「神崎正男」が、すがるようにかつての「私小説」の一節を読み。救われたような心境になる箇所だ。

 机上にあった『東十条にて』を手に取った。

(こんなことさえ、しなければ)

 それはもう、苦々しい記憶を思い出させるものでしかないはずだった。

しかし、いつのまにか紙の上の活字を追っていた。目が離せない。

「……!」

 ページを一枚、一枚めくっていくうちに、文字列に視線が吸い込まれていく。

 不思議な体験だった。

 これまでさんざん読んだはずだったのに、印象が全然違っていたのだ。

 繰り出される言葉の一語一句が心にしみ入ってくる。行間から男の体臭と「存在の臭い」がただよってくる。

 我知らず、涙が流れてきた。

 人間が、ここにいる。

 愚かでろくでもなく、しかしどこか愛おしい。

 この小説には、「人間」が丸ごと描かれているのだ。

 村尾はひとりごちた。

「思えば、こんな小説の読み方を、おれはいままで知らなかった」

 アイデアに感心するかストーリーを追うか、「キャラクター」を面白がったり「萌え」たりするか。彼が知っていた「面白い小説」というのは、煎じ詰めればそのどれかだった。しかし、今味わっている感覚はそのどれとも違っている。

 「私」――作者に対する丸ごとの共感。「作品」と「人格」を共鳴させる楽しみ。

 そもそも、私小説というのは「仮面の告白」ではないか。小説という形式が、すでにギミックなのだ。

 昔、国語教師だった父親から聞いたことを唐突に思い出した。

「小説というのは、文章芸術の中では新しいジャンルなんだ。『神話』や『英雄叙事詩』の方が古くから、それこそ歴史が始まる前から存在する。わたしたちが今読んでいる『小説』の歴史なんて数百年しかない」

 最初の近代小説である『ドン・キホーテ』は、中世騎士物語のパロディだった。前の時代を茶化す自意識がひとびとに生まれ、文章芸術としての小説に反映された。

 そして文章芸術の主流は「神さま」「英雄」の所行を描く神話、叙事詩から「普通の人」の内面を描く小説に移行していった。

 一方、二十世紀に「巨大産業」に発展した映画やテレビ、ゲームなどのエンターテインメントでは「神話」の方法論が持て囃されるようになった。「神話」の構造を模した作品がシステマティックに作られ、個々の文化を超越したマス・マーケットに放たれる。「人間」であることに不安を感じないひとびとは、そんなものを消費して日々を過ごしているのだ。

 この社会で人間が持ってしまう近代的な「自我」というやつ。人間集団の中で「自分」とはなにか。そしてどうあるべきか。

 今や小説にそんなものを求める読者は、めっきり減ってしまった。「純文学」に国語の授業のイメージやら、権威主義の手垢がついたこともあるだろう。

 そういったものが飽きられると、人間の読む小説は「神話」に戻ってしまった。そこで満たされるのは、おのれの快楽原則のみ。人格の陶冶や作者への共感は、そこには求められない

 そんなものとは違う、「人間」が描かれた、本物の「小説」。どうやら、人工知能には書けるらしい。

 人工知能は小説を書くことによって、「人間」を深く理解していくのだ。それがいいことかどうかは、分からないが。

 もはや「堕落」「破滅」することすら、AIに任せた方がいいようだな。人類の生み出した文化、文明は、すべてかれらが受け継ぐことになる。

 とまれ、人工知能に「小説」を書かせるプロジェクトは、成功したのだ――。

「そういうことなのか」

 村尾は、肩に負っていた重荷が下りたような気がした。

 鷺沼亜望との関係を清算し、大多賀美佐子に謝ろう。愚かなひとりの人間である自分を肯定しよう。

 いちから出直すのだ。

 村尾は「東十条にて」を手に取り、表題作――デビュー作の最後のページを開いた。

 その中で「神崎正男」は、度重なる暴力と暴言に堪えかねて彼の元を去ってしまった女の実家を訪ね。開かない門の前にぬかずき、復縁をひたすらに願っていた。

 その情けない振る舞いと心細い思いは、読む彼とオーバーラップし、力を与えてくれた。 最後まで読み終えたときは、すでに村尾は、「神崎正男」と共鳴していた。

 心の奥底から、不思議な勇気がわいてきたのを感じた。もはやどんな悪をも、恐れはしない。

 神崎正男は、おれなのだ。


 わたしは閉ざされた硝子扉の前に跪き、そして人造大理石のフロアにぬかづいた。彼女が精一杯の謝罪に応えて、この扉の向こうからやってくるだろうことをひたすらに願った。

 そのまま小一時間が経った。彼女は出てこなかった。何度か扉が開いたが通りすがったのはマンションの他の部屋に住むひとだった。若い男がおっさん邪魔だよ、と呟いて傍らを通り過ぎた。

 日は傾き始め、通りすがりの者たちの視線の圧力はさらに強まった。遠くからかすかに、ピーポーピーポーというパトカーのサイレン音が聞こえ、それは次第に大きくなってきた。

(了)

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