第四十三楽曲 第四節

 騒ぎに慌てた木曜日から2日後。6月ももう残すところこの土日だけだ。そんな土曜日の昼下がり、前日に大和からジャパニカン芸能の武村に電話をしたところ、なんと武村はゴッドロックカフェまで出張してきた。


「こちらが菱神さんの個人事務所との業務委託契約書になります」


 個人事務所という響きに慣れない大和。とは言え、個人事業主であり会社はないので、このゴッドロックカフェが個人事務所だ。屋号は「ゴッドロックカフェ」だが、個人事業主だから契約者は大和の個人名である。その契約内容はダイヤモンドハーレムのプロデュースとマネージングのサポートだ。


「こちらが柿倉さんの契約書です」


 そして店のホールの円卓を囲う中に杏里もいる。因みにダイヤモンドハーレムのメンバーも店内にいるが、メンバーは皆ステージ裏の控室でインディーズCDの送り状を書いている。


「柿倉さんの契約期間は7月1日から6カ月です」

「はい……」


 大和が契約書に記名押印をしている間、杏里は緊張した面持ちで武村から契約内容の話を聞く。まさかこんなことになるなんて。騒ぎが起きてからたったの2~3日だ。


「給料は日当制。残業代は時間給でお支払いします」

「はい……」

「単位は十分と聞いておりますがまだ大学生なのでテストなどはあるでしょうから、その旨は私にご連絡ください。こちらで私なり付き添いスタッフを調整します。その中に業務委託をした菱神さんも含まれます」

「はい……」

「それから既に車両はリースで手配しましたので、月曜日にこちらのお店に届きます。受け取りの対応をお願いします」

「はい……」


 どれだけ迅速な手配だと言うのか。杏里は驚くばかりである。しかしだからこそ大手芸能事務所だと安心もする。


「ご質問はなにかございますか?」

「いえ。何も浮かびません」

「では記名押印をお願いします」

「はい……」


 杏里は契約書に記名と押印をした。これでなんと、契約開始日から杏里はジャパニカン芸能の契約社員となる。


 昨日地元での状況を聞いて武村は即動いた。書類は回したものの決済までは整っていない。しかし状況を鑑みて躊躇していられないとのことで上司からゴーサインをもらった。それで杏里を半年間契約社員として迎えることになったのだ。

 杏里の業務内容はダイヤモンドハーレムのマネージャーだ。と言っても、付き添いが主で9月以降のスケジュールはジャパニカン芸能から送られてくる。それに従って動くわけだ。

 更にはメンバーの送迎もする。そのために8人乗りの車も与えられた。その送迎は登下校やアルバイトなど多岐にわたる。尤もアルバイトはあと3週間のことなので、メインは登下校とライブの付き添いと言ったところだ。


 ジャパニカン芸能としては専属で派遣できる人材がいないので杏里と大和を頼ったわけだが、マネージング契約開始2カ月前ながらこれはさすが大手である。所属アーティスを大事にしている様が窺え、大和も杏里も好意的だ。しかし杏里は自身の状況に頭がついてこないのもまた事実である。

 杏里の契約期間は半年間なので12月いっぱいまでだ。その契約が終わる頃にはメンバーが冬休みで、年明けからは自由登校になる。ジャパニカン芸能は正社員を寄越すつもりだ。3月からはメンバーが東京なのでそれも2カ月間の話である。


「それから、菱神さん、柿倉さん」

「はい」


 大和と杏里の契約書が整って武村が大和と杏里に向いた。


「柿倉さんの就職活動はどのようになっておりますか?」


 この質問に大和は杏里を向く。自身も正確に状況を把握しているわけではないので、回答は杏里に任せた。


「えっと……、まぁ、ぼちぼちです」

「そうですか。菱神さん、先日東京までお越しいただいた際にお話しさせて頂いた件ですが、お2人の間ではどうのように?」

「ん?」


 解せない杏里が首を傾げた。なんの話をしているのかわからないのだ。大和は頭をかきながら答えた。


「すいません。まだ杏里と話をしていなくて」

「そうですか。それでしたら、今私からしてもよろしいですか?」

「はい……」


 まだ迷いがある大和なのであまり気は進まなかったが、どうせ自分だと抱えるばかりで杏里には切り出せそうになかった。だから話は武村に任せた。


 その頃、ステージ裏の控室では座卓を囲ってダイヤモンドハーレムのメンバーが一生懸命送り状を書いていた。すると唯が一度手を止めて言う。


「あのさ……」

「ん?」


 古都が反応した。美和も希も手を止めて唯に注目する。


「予約してくれた常連さんとか学校の友達はここで私たちが直接顔を見ながら手売りするわけじゃない?」

「そうだね」

「けど、それ以外の予約をしてくれた人ってただ宅配でCDが届くだけなんだよね?」

「あぁ、そうか……。それはなんか寂しいよね」


 古都が唯の言いたいことを悟ったようだ。するとその古都がすかさず案を出した。


「それならメッセージカードを入れようか?」

「うん。いいと思う」


 賛成の意を示したのは美和だ。作業が増えて大変にはなるが、せっかくCDを買ってくれるファンだ。ひと手間ひと手間を大事にしたい気持ちが表れた。それは唯も希も同様だ。


「じゃぁ、1枚のカードに4人が名前とメッセージを書いて同封しよう」

『さんせー』


 意見はまとまったようだ。するとここで古都と唯が一度場を離れてメッセージカードを買いに行くことになった。しかし絶賛混乱期の今、気軽に外出もできない。2人は大和と杏里を頼ってホールに出向いた。


「――ということです。私どもからこんなお願い、差し出がましいとは重々承知しておりますが、どうかご検討をお願いします」


 するとそんな武村の声が聞こえる。更に杏里が硬直していた。どうやら驚いているようだと古都も唯も思った。すると大和が古都と唯に気づいた。


「ん? 2人ともどうした?」

「あぁ。買い物に行きたいから連れてってもらえないかと思って」

「いいけど、何を買うんだ?」


 古都はメッセージカードを同封する件を説明した。するとそれを聞いていた杏里が表情を戻した。


「それだったらカタログで選ぶ?」

「カタログ?」


 古都が首を傾げて鸚鵡返しに疑問を口にする。


「うん。コピー用紙とかを注文してる事務用品の通販があるの。ある程度種類はあるし、在庫もたくさんあるから注文しやすいよ?」

「お! じゃぁ、そうする。けど、お金は美和がバンドの口座から出すって言ってたけど、どうすればいい?」

「店で立て替えとくよ。明細が来たら渡すから」

「了解」


 どうやら外出はしなくてもいいようだ。このまま定期練習が始まるまで古都も唯も送り状の続きを進められる。しかし2人とも動かない。


「3人はどういう話をしてたの?」

「杏里と僕がこれからも君たちをサポートできる契約をしてたんだよ」


 その大和の答えに古都も唯も目が見開いた。その瞳は輝いている。考えないようにしてきたが、ジャパニカン芸能のマネージング契約が始まれば大和と杏里は離れると思っていた。しかしそうではない。


「杏里さーん! 大和さーん!」

「うおっ!」


 古都が勢いよく駆け寄り大和に抱き着いた。大和は体勢を崩しながらもなんとか古都を受け止める。


「コホンッ」


 すると武村が顔を顰めた。古都はばつが悪そうに、唯は苦笑いで武村を見た。その唯も大和に寄っていた。杏里は呆れ顔だ。


「古都さん、唯さん、1つ忠告をしておきます。美和さんと希さんにも後でしっかり言っておきます」


 そう武村が切り出すので古都と唯はピリッとした。


「菱神さんとあなた方の関係は事務所としては喜ばしくありません」

「あはは。すいません。けど、別れる気は更々ありません」

「でしょうね。だったら絶対秘密にしてください」

「はい。もちろんです」

「それから!」

「う……、なんでしょう?」


 武村の言葉に力がこもったので、古都は少し怯む。


「あなた方は菱神さんと性的な関係はあるんですか?」

「ぶっ!」


 コーヒーを口に運んでいた大和が吹いた。杏里は面白おかしく笑いながら雑巾を取りに席を立った。


「それは、まぁ、なんというか……」

「あるんですか!?」

「う……。えっと、大和さんが、私たちが高校を卒業するまではしないって言うからないです」

「そうですか。安心しました。それを守ってください」

「はーい」

「返事は短く!」

「はい!」

「もしアイドルや女優だったら高校卒業後も認めませんし、むしろ交際だって解消してもらうところです! それをバンドだからって事務所はここまで譲歩しているんですよ? 今はまだセミプロとは言え、既に芸能人である自覚をしっかり持ってください」


 この後、武村からの説教は数十分続いた。

 ただ杏里がジャパニカン芸能の契約社員になったことで、ひとまずこの騒動は落ち着きを見せ始めた。

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